松平定信の出版統制令は浮世絵師・喜多川歌麿の生きる気力を奪った…庶民を締め付け表現の自由を奪う愚策

2024年3月28日(木)11時15分 プレジデント社

「松平定信自画像」天明7年6月(図版=鎮国守国神社蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

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ドラマ「大奥」(フジテレビ系)では10代将軍・徳川家治を失脚させようとする悪役になっている松平定信だが、史実ではない。作家の濱田浩一郎さんは「11代将軍・家斉の下で老中となった定信の政策にはいいものもある。しかし、出版文化を統制し、浮世絵や小説本など、町人たちの表現の自由を奪ったのは愚策だった。そのくだりは2025年の大河ドラマでも描かれるはずだ」という——。
「松平定信自画像」天明7年6月(図版=鎮国守国神社蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

■「大奥」のキーパーソン・松平定信が老中になり行った政治


ドラマ「大奥」(フジテレビ系)では、江戸時代後期、徳川幕府の老中を務めた松平定信(1759〜1829)をSnow Manのメンバー・宮舘涼太さんが演じています。ドラマと違って、史実の定信は10代将軍・家治より22歳も若く、天明7年(1787)になって幕府老中に任命されていますが、陸奥白河藩主時代から「倹約質素」というものを重んじていました。


たくさんの犠牲者を出した天明の飢饉(ききん)が人々に影響を与えようとしているころ、藩主であった定信は家老を呼び出し「この時に乗じて、倹約質素の道を教えて、盤石の固めとなすべし」(定信の自叙伝『宇下人言』)との言葉を伝えています。


そればかりか、翌日には江戸にいる家臣たちを呼び出し「質素倹約は私を手本にせよ」と言い自ら率先して、食膳を減らし「朝夕は一汁一菜」「昼は一汁二菜」とし、服は「綿服」を着て、節約に努めたのでした。


■徳川一門の田安家に生まれ、厳しくしつけられて育った


定信は御三卿(徳川将軍家の一門)の1つ田安家に生まれましたので、幼い頃からぜいたくざんまいでもしていたのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。3度の食事も自分が欲しいものは出してもらえず、着衣やはかまもこれが欲しい、あれが欲しいというのは「禁止」でした。鼻紙を入れる袋を少年の定信が欲しいなと思っても「まだ早い」ということで、買ってもらうことはできなかったようです。定信は仕方なしに乳母に頼んで、代わりになるような袋を作ってもらったといいます。幼い時より、食事・衣服・入浴でさえも、自分の心のままにできなかったということです。


これは、定信の父・田安宗武が我が子に帝王学を授けようとしたと言えましょうか。小さい時より何でも欲しいものを与え、暖衣飽食(だんいほうしょく)すれば、長じて後、ロクな人物にはならないと思い、定信を厳しくしつけたと思われます。が、そのお陰もあって、藩主となり、いざ質素倹約となった際にも、定信はそのことに苦痛を感じることはなかったと自叙伝に書いています。


定信は衣食のみならず、恋愛も自由にできませんでした。少年時代に「少女」に恋することもあったようですが(相手はもちろんドラマのように10代将軍御台所の倫子ではありません)、色恋は厳禁されていましたので、10代後半に結婚するまでは、真の恋愛感情というものを知らずに育ったのでした。現代に生きるわれわれからしたら、極端で歪な環境で定信は養育されたのです。


■売春やぜいたく品を禁じ、不景気にしたのは意図的だった?


定信の思想は、彼が老中に就任してから特に政策に反映されるようになります。飢饉に備えて、都市に米や雑穀を蓄える「備荒貯蓄(びこうちょちく)の整備」は現代人も見習うべき政策ではあるでしょう。定信は倹約令のみならず、風俗統制令も発令しました。天明7年(1787)には、料理茶屋や茶店における売春を禁じ、寛政元年(1789)には売春が盛んであった隅田川の中洲を撤去しています。


同年3月には、ぜいたく品の製造やその売買を禁止。翌年には華美な雛人形の販売者や、銀製キセルの販売者を処罰しているのです。そして、寛政3年(1791)には、華美なうちわ、紙煙草入れを作ることまで禁じています。現代の日本人からしたら、なかなか信じられない話でしょう。どう考えても不景気になる政策です。


作者不明「蔦屋重三郎」778年〔図版=PD-Art(PD-old-70)/Wikimedia Commons

だが、定信は江戸が不景気となれば、職人や商人、その他、多くの者が困窮する。そうなれば、多くの者が都市から地方に行き、帰農する。帰農者が増加すれば、江戸では奉公人の給料は下がり、一方、農村では生産が増える。生産と消費が均衡することにより、物価が安定し、大名や庶民も豊かになるのではと定信は考えていました。しかし、倹約令などを発した結果、江戸は不景気となります。当然、庶民からの反発もありました。


■出版統制令を出し町人文化の「表現の自由」を奪った


庶民の反発が強まれば、世は乱れることになる。文学は政治を風刺する役割を果たしていましたが、定信は文学の「危険性」というものをよく認識していました。その結果、定信は出版統制令を出すのです。そのあおりをくったのが、2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)〜」(NHK)の主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)でした。


葛飾北斎が描いた蔦屋(書店)の店頭の様子 作=浅草庵、画=葛飾北斎『画本東都遊 3巻』1802年(出典=国立国会図書館デジタルコレクション

「べらぼう」において、主人公・重三郎は俳優の横浜流星さんが演じます。ちなみに老中の田沼意次を渡辺謙さんが演じることは発表されていますが、定信役の発表はまだありません。おそらく、重三郎と対決する形で描かれると思いますので、どのような俳優が演じるのか、楽しみではあります。閑話休題。重三郎は江戸時代の出版人であり、寛延3年(1750)、江戸は吉原に生まれます。重三郎の方が定信より9歳年上です。


■2025年大河ドラマの主人公は版元の蔦屋重三郎


それはさておき、重三郎は出版人として、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)や山東京伝(さんとうきょうでん)の洒落本(遊郭文学)、恋川春町(こいかわはるまち)らの黄表紙(きびょうし)(大人向けの読み物)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の浮世絵などの出版を手がけます。しかし、そんな重三郎と作家を定信の出版統制令(1790年)が襲うのです。出版統制令は、時事問題などを素早く「一枚絵」にして刊行することを禁止したり、好色な本は絶版ということにしたり、新刊本の奥書には、作者と版元の実名を必ず入れることなどを定めます。


鳥文斎栄之「喜多川歌麿の肖像画」1815年(図版=大英博物館所蔵/Wikimedia Commons

定信の寛政の改革への不満を封じ込め、不届きな本を出した者(版元や作者)がいた場合はすぐに罰する仕組みを整えたのです。その頃、蔦屋と山東京伝は、遊郭を題材とした洒落本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『錦之裏(にしきのうら)』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』の刊行話を進めており、既に原稿は完成していました。本は刊行されたのですが、刊行後、重三郎と山東京伝は奉行所から呼び出されます。そして、取り調べの上、重三郎は(諸説ありますが)財産半分の没収、京伝は手鎖(てぐさり)50日(前に組んだ両手に鉄製手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる)という罰を受けるのでした。


山東京伝 作・画『仕懸文庫』蔦屋重三郎出版、 1791年 出典=国立国会図書館デジタルコレクション(参照:2024年3月26日)

■重三郎は遊郭を題材とした洒落本を出版し財産を没収された


山東京伝だけでなく、恋川春町や朋誠堂喜三二(平沢常富といい、実は秋田藩家老)も弾圧されています。寛政の改革を批判した『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を刊行した恋川春町は、幕府から呼び出しを受けますが、それに応じず、しばらくして、病没します(1789年7月)。あまりにも突然の死に自殺説もあるほどです。


定信の文武奨励政策を風刺した黄表紙『文武二道万石通』の著者・朋誠堂喜三二も前述のように藩の上層部よりお叱りを受け、黄表紙執筆から手を引きました。また、御家人でありながら、作家活動を行ってきた大田南畝(おおたなんぽ)は弾圧を恐れて活動を一時自粛したほどでした。出版統制令など出しても、庶民の不満はたまるばかりで良いことなどないでしょう。


■大河ドラマで染谷将太が演じる喜多川歌麿も罰を受けた


江戸時代後期の浮世絵師として著名な喜多川歌麿も、寛政の改革の煽りを受けた芸術家の1人です。歌麿は年少の時より絵を鳥山石燕(とりやませきえん)に学び、安永4年(1775)頃、浮世絵師としてデビューを飾ったと言われています。「べらぼう」においては、「麒麟がくる」(2020年)で織田信長を演じた染谷将太さんが歌麿役です。当初は黄表紙や洒落本の挿絵などを手掛けていた歌麿に転機が訪れたのは、天明年間の初め頃とされます。


人生の転機となったのは、蔦屋重三郎との出会いでした。重三郎は歌麿の才能を見抜き、豪華な彩色刷の狂歌絵本や美人錦絵などを発表させたのです。女性の半身像を大きく描いた「大首絵(おおくびえ)」シリーズは、現代に至るまでも高く評価されています。


■得意の美人絵を禁じられた歌麿は失意のうちに死んだ


美人画の第一人者とされる歌麿ですが、寛政5年(1793)には、風紀が乱れるということで、絵の中に町娘の名を記載することが禁じられてしまいます。歌麿は女性の名を記す代わりに、絵から名前を推測させる判じ絵を描き入れるなどの工夫をしたのですが、この判じ絵も禁じられることになるのです。


寛政12年(1800)には「美人大首絵」までが禁止されてしまいます。寛政年間の後半になると、歌麿が描く画題も美人画が減っていったとされます。そして文化元年(1804)、豊臣秀吉を主人公とした『絵本太閤記』を題材とした歌麿作の錦絵(太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず))が幕府からとがめられ、彼は手鎖刑を受けることになるのです。2年後、歌麿は亡くなりますが、失意のなかの死であったと言われています。


喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」19世紀(出典=国立博物館所蔵品統合検索システム

松平定信の精神やその政策の中には優れたところも多いのですが、この出版統制令に関しては愚策と言うことができると思います。定信の極度の緊縮政策は「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などの落首に象徴されるように、庶民の反発をかいました。寛政5年(1793)、定信は老中を辞職することになります。


参考文献
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)


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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)

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