インドにカレーという料理はないし「ナーン」発祥の地でもない…日本人が知らない"インド料理"の意外なルーツ

2024年4月22日(月)7時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/KEN226

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仕事の視野を広げるには読書が一番だ。書籍のハイライトを3000字で紹介するサービス「SERENDIP」から、プレジデントオンライン向けの特選記事を紹介しよう。今回取り上げるのは笠井亮平著『インドの食卓 そこに「カレー」はない』(ハヤカワ新書)——。
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■イントロダクション


インドに実はカレーという料理はない、と聞いてにわかに信じられるだろうか。日本のインド料理店を訪れれば、必ずカレーがメニューにあるし、インド旅行先でカレーを食べたという人も多いだろう。


だが、本来インドにカレーと呼ばれる料理はないのだという。どういうことだろうか? カレーとは一体何なのか。


本書では、在インド日本大使館にも勤務した南アジア研究者がインド料理のステレオタイプを解き、その多様な世界を、インドの近代政治史を含むさまざまなエピソードを交えて紹介している。


インド料理は、周辺地域や欧州、中国などの影響を受けて進化し続けてきており、例えば、近頃、カレーやナーンの他に、新たなインド料理の“大スター”として注目される「ビリヤニ」は、ペルシア料理を起源として16世紀のムガル帝国時代に生まれたものだという。


著者は岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授。専門は日印関係史、南アジアの国際関係、インド・パキスタンの政治。在インド、中国、パキスタンの日本大使館で外務省専門調査員として勤務した経験を持つ。


1.「インド料理」ができるまで——4000年の歴史
2.インド料理の「誤解」を解こう
3.肉かベジか、それが問題だ——食から見えるインドの宗教、文化、自然
4.ドリンク、フルーツ、そしてスイーツ——インド料理に欠かせない名脇役たち
5.「インド中華料理」——近現代史のなかで起きたガラパゴス化
6.インドから日本へ、日本からインドへ

■インドに「カレー」なる料理はないと言える


インド料理といえば、何といってもカレーである。日本で国民食となったカレーのルーツは、もちろんインド。ところが、インド人は必ずしもカレーばかり食べているのではないのだ。それどころか、そもそもインドに「カレー」なる料理はないとすら言える。


多くの日本人が思い浮かべるような意味での「カレー」に相当するものはない。あえてインドの「カレー」を説明すれば、それは「さまざまなスパイスで調理した料理全般」ということになるだろうか。(*カレーと総称される料理は)豆が入った「ダール」、南インドでポピュラーな野菜が入ったスープ状の料理「サンバル」など、それぞれの料理に名前が付いている。


今日世界に広まっているインド料理は北インド料理がベースになっているが、そこに絶大な影響を及ぼしたのがイスラム王朝のムガル帝国である。ムガル帝国は1526年に(*当時の北インドを支配していた)ローディー朝を滅ぼすと、しだいに領域を拡大していき、インド亜大陸全土を支配する安定的な統治体制を打ち立てるにいたった。その統治は3世紀以上に及んだ。


■「カレー」と呼ばれるものを広めたイギリス人


ムガル帝国は第5代皇帝、シャー・ジャハーン(在位1628〜58年)の時代に最盛期を迎える。しかし、まさにこの時期に新たな動きが外部からもたらされようとしていた。イギリスやフランス、ポルトガルの進出である。


イギリス東インド会社は1639年にマドラス(今日のタミル・ナードゥ州チェンナイ)に要塞を築いたのを皮切りに、61年にはボンベイ(今日のマハーラーシュトラ州ムンバイ)を、17世紀末にはカルカッタ(今日の西ベンガル州コルカタ)を獲得していった。


ムガル帝国は膨張するイギリス東インド会社に押される一方で、徐々に支配地域を狭められていった。1857年には、デリーでシパーヒー(インド兵)による大規模な反乱が発生したが、イギリスはこれを武力で鎮圧した。このインド大反乱を契機に、イギリスはインドを直接統治する方針に切り替え、翌1858年には完全に植民地化した。


インド支配に伴い、多数のイギリス人がやってきた。彼らの中には現地でインド人女性と結婚する者もいて、その子どもは「アングロ・インディアン」と呼ばれた。こうした家族の食事はインドの要素を多く取り入れたものになった。コリーン・テイラー・セン氏が『カレーの歴史』で、初期のカレーを「アングロ・インディアン・カレー」と呼んでいるのはこのためだ。


「カレー」は、もともとインドにあった言葉ではなかった。野菜や肉を炒めた料理を表す「kari」あるいは「karil」といった(*現地の)語をもとに、ポルトガル人が多種類のスパイスを用いたインドの煮込み料理を「カリー」あるいは「カリル」と呼んだ。さらにイギリス人もこれを採用し、「カレー(curry)」と綴られるようになったという。そして彼らは帰国すると、本国でもこのカレーを広めていったのである。


写真=iStock.com/enviromantic
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■「ナーン」はインド発祥ではない


このカレーはライスにかけて食べるものとされた。カレーの語源はタミル語、マラヤラム語、カンナダ語と、いずれも南インド諸語の単語にあった。これらの地域は、粉食の北インドとは異なり、米食が主である。ポルトガル人やイギリス人に伝わっていく過程で、ライスとセットで食べるものという認識も付随していったのではないだろうか。


ちなみにだが、インド料理の主食といえば何をおいてもまずはナーン、というイメージは根強い。実は、ナーンはインド発祥ではない。起源はイランというのが定説で、そこから中東や中央アジア、南アジアに広がっていったようだ。


この「ナーン文化圏」、南アジアではアフガニスタン、パキスタン、インドに及んでいる。ただインドの場合は北部までで、国全体がこの文化圏に含まれているというわけではない。南インドではライスがメインで、地元料理としてナーンが出されることはない。


イギリス人は、本国でもうひとつ発明をした。「カレー粉」である。カレーを作るたびに、何種類ものスパイスを調合するのは面倒だ。ならば最初から混ぜ合わせたものを用意しておけばよいということで考案されたのである。ある意味、「カレー」はインド料理というよりは、イギリス料理と言ったほうが適切なのかもしれない。


■ビリヤニはペルシア人の料理人が作った炊き込みご飯が起源


ムガル帝国の統治で重要な役割を担ったのが、ペルシア人官僚だ。歴代皇帝のもとで要職に就いていた。宮廷での公用語も、ペルシア語が用いられた。さらに芸術面でも、絵画や建築様式、そして詩文にもペルシア文化の影響がもたらされていった。こうしたペルシア文化の影響は、料理の分野にも及んだ。そのなかで、後のインド料理の「大スター」となる料理が形成されていった。


ムガル帝国を建国し、初代皇帝となったバーブルが1530年に死去すると、息子のフマーユーンが第2代皇帝となった。彼はベンガル地方を占領したアフガン系の将軍との戦いに敗れ、インドから撤退することになった。退避先はペルシアで、亡命生活は1540年から実に15年に及んだ。


フマーユーンは1555年にインドに帰還するが、その際にペルシア人の料理人をおおぜい連れてきたという。彼らが作る料理の中でも、ごちそうと見なされたのが炊き込み御飯のプラオだった。


米をターメリックやサフランを使って色鮮やかに炊き上げたり、鶏肉やレーズン、ナッツを加えたりしてバリエーションも豊富になっていった。インドではこれに豊富なスパイスが加わり、「ビリヤニ」と呼ばれるようになった。


写真=iStock.com/AALA IMAGES
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■独自の進化を遂げた「インド中華料理」


世界中どこに行ってもある可能性が高い料理をひとつ挙げるとすれば、それは中華料理になるだろう。インドでもご多分に漏れず、中華料理がある。ただ、かなり独自の進化を遂げているという点が特徴的だ。こうした料理をインドでは「インディアン・チャイニーズ」、つまり「インド中華料理」と呼んでいる。


筆者が何人かと一緒に、デリーの中華料理店へ夕食を食べに行ったとしよう。そのときのオーダーは次のようなものが考えられる。


スイート・コーンスープ/チキン・ロリポップ/ゴビ・マンチュリアン/チリ・パニール/シェズワン・フライドライス/アメリカン・チャプスイ/デーツ・パンケーキ


この中で「引っかかる」キーワードがあるとすれば、そのひとつは「マンチュリアン」ではないだろうか。マンチュリアンとは「満洲の」「満洲人」といった意味だ。では、これは満洲料理を表すのかというと、そうではないのだ。実はこのマンチュリアン、中国ではなくインド発祥なのだ。考案したのは、ネルソン・ワンという中国系インド人。


ネルソン・ワンが生まれたのは、1950年。両親ともに中国系移民だったが、生後まもなくして父が他界し、ワンはやはり中国系の里親に引き取られることになった。新たな父親はシェフで、ワンは料理への興味を抱いていった。


■インド中華を代表するメニュー「チキン・マンチュリアン」


国境紛争後の対中感情の悪化を受けて、彼の里親はカナダに脱出することにした。ワンにも付いていく選択肢はあったが、彼だけはインドにとどまる道を選んだ。彼はカルカッタを去ることにし、1974年にボンベイ(現ムンバイ)に向かった。あるレストランに勤めていたとき、ある客からスカウトされ、インド・クリケット・クラブでシェフとして働くようになった。



笠井亮平『インドの食卓 そこに「カレー」はない』(ハヤカワ新書)

ある日、クリケット・クラブの客から、これまでにない新しい料理を作ってくれないかというリクエストがあった。そこでワンは、鶏肉を青唐辛子やにんにく、ショウガで炒め、ソイソース(中国醤油。日本の醤油よりも濃い)で味付けし、片栗粉を使ってとろみを付けた品を開発した。彼はこの新作を「チキン・マンチュリアン」と名付けた。


チキン・マンチュリアンは大ヒットした。ワンは1983年に独立し、中華料理店をボンベイにオープンした。チキン・マンチュリアンが看板メニューになったのは言うまでもない。その後、他の店もこの「中華料理」を取り入れていき、インド中華を代表する存在にまでなった。なお、メニュー案に示した「ゴビ・マンチュリアン」の「ゴビ」とは、「カリフラワー」のことである。


※「*」がついた注および補足はダイジェスト作成者によるもの


■コメントby SERENDIP


インドは世界有数の多民族・多宗教国家であり、当然ながら民族や宗教によって食文化に違いがある。とりわけ大きいのが宗教によって禁忌とされる食材が異なることだ。ヒンドゥー教では牛肉、イスラム教では豚肉が食されず、ベジタリアンの文化圏も少なくないという。それに加え、世界各地の料理の影響が及ぶのだから、本来は「インド料理」と一括りにするのも難しいのだろう。程度の差はあれ、同じことは日本をはじめとする各国・地域の料理にもいえる。分類にこだわりすぎず、食文化のバラエティを楽しみつつ、それに関係する伝統や歴史を辿ることで、より豊かな教養を身につけることができるのではないか。


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