第二電電(現KDDI)創業時に、稲盛和夫が半年も自問自答した疑問とは?

2024年4月23日(火)4時0分 JBpress

 稲盛和夫氏の経営哲学は、経営者を中心とする勉強会「盛和塾」を通しても広まった。出身者には、パソナグループ創業者の南部靖之氏、元サッカー日本代表監督の岡田武史氏など、のちに著名なリーダーとなった人たちもいる。盛和塾は1983年にスタートし、2019年末に閉塾したときには、国内56塾、海外48塾、約1万5000名の塾生がいたという。本連載では、『一生学べる仕事力大全』(致知出版社)に掲載されたインタビュー「利他の心こそ繁栄への道」から内容の一部を抜粋・再編集し、稲盛氏が自身の人生と経営について語った言葉を紹介する。

 第4回は「盛和塾」に込めた思いと第二電電(現KDDI)創業時の葛藤を振り返る。

<連載ラインアップ>
■第1回 稲盛和夫は、なぜ自衛隊の幹部候補生学校に入ろうと考えたのか
■第2回 若き稲盛和夫が「会社を辞める」と瞬時に決意した上司の一言とは?
■第3回 「給料を上げてくれ」と迫る従業員たちに、稲盛和夫が返した一言とは?
■第4回 第二電電(現KDDI)創業時に、稲盛和夫が半年も自問自答した疑問とは?(本稿)
■第5回 稲盛和夫が指摘、一流大出身の幹部が経営する企業が“お役所体質”になる理由(5月1日公開)

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■「盛和塾」で訴えかけていること

——昭和63年に発足した若手経営者の勉強会「盛和塾(せいわじゅく)」、これはお世話になった京都へのご恩返しとして始められたのですよね。

 盛和塾の前身に当たる盛友塾を始めたのは昭和58年のことです。京都の若手経営者たちが生きた経営学を学ぶ勉強会を開催してほしいと申し入れてきました。私が今日まで会社を発展させることができたのは、周囲の先輩経営者の方々から教えを受けたおかげであり、それを今度は若い世代に伝えていくことがご恩返しになると思って、ボランティアで始めることにしました。

 最初は25名でスタートしましたが、次第に参加者が増えていきました。昭和63年に盛和塾と改め、30年経った現在は1万2000名を超える会員が集まって、国内56塾、海外41塾という規模に広がっています。

盛和塾:1983年に稲盛氏が京都の若き経営者たちから「いかに経営すべきかを教えてほしい」と依頼されたことを機に始まった会。その後、全国各地に拡大し、36年の活動を経て、2019年末の閉塾時には、国内56塾、海外48塾、塾生数は約1万5000名にまで及んだ。

——古(いにしえ)の聖人は心のあり方を人々に説いていますが、稲盛名誉会長は心のあり方と同時に会社を繁栄させる道も中小企業の若い経営者に示してこられました。まさに無量の陰徳を積み重ねてこられた人生だと思います。

 中小企業の経営者の方々というのは、だいたい利発でリーダーシップがあって、「自分が偉くなってお金持ちになりたい」という動機で会社をつくっている人が多いんです。

 私はそういう方々に、「皆さんが本当に幸せに豊かに生きていきたいと思うなら、まず従業員を幸せにしていかなければなりません」。つまり、「他の人をよくしてあげようという心がなければ、自分自身も決して幸せに豊かにはなっていきません」と、利他の心というものを訴えていきました。

 その結果、「いままであらぬ方向を見ていた社員たちが皆、心を1つにして、ついてきてくれるようになりました」とか「盛和塾で利他の心を教わったことで、会社が甦(よみがえ)ってきて、うまくいくようになりました」と言って、喜んでいただいていますので、非常によかったなと思っています。

 盛和塾は利他の心をベースにした経営者の方々が集まっておられますので、和気藹々(わきあいあい)として私自身にとっても非常に楽しい会です。

■「動機善なりや私心なかりしか」

——第二電電(現・KDDI)を創業される時も、「動機善なりや、私心なかりしか」ということを絶えず問い掛けられたと。

 第二電電を立ち上げようと思ったのは、日本の電気通信の自由化があって、当時NTTが独占しておった事業に乗り出すことができるようになったからです。いままで高かった電話料金を安くしてあげることが、世のため人のためになると信じたものですから、電気通信事業に参入しようと。

 ただし、すぐに参入の意思表示をしたわけではありません。毎晩寝る前に、「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答し、そういうことを半年くらい続けた時に、「動機は善だ。私心は一点の曇りもない」「日本国民のためにやるべきだ」と確信して、参入を公表すると共に、昭和59年に第二電電を設立しました。

——一番不利な条件の中から出発されました。

 考えてみますと、無謀な挑戦であったことは事実で、同時に国鉄や道路公団も通信事業に乗り出してこられました。彼らは新幹線の側溝に、あるいは高速道路沿いに光ファイバーを引けば、簡単に長距離通信はできるわけです。ですから、我われも当時の国鉄総裁のところに行って、「光ファイバーを1本引くのも2本引くのも一緒だから、ぜひ私どもの光ファイバーも引かせていただきたい」とお願いしました。けれども、それはけんもほろろに断られました。

 しようがありませんから、大阪から東京まで山の峰々に大きなパラボラアンテナを建てて、それを無線で繋ぐという方法を取りました。いま考えてみても、鉄骨を重機で山のてっぺんまで引き上げて、そこに大きなパラボラアンテナをつくるというのはお金もかかりますし、非常に大変なことでしたが、よくやったなと思いますね。

稲盛和夫(いなもり・かずお)
昭和7年鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。34年京都セラミック(現・京セラ)を設立。社長、会長を経て、平成9年より名誉会長。昭和59年には第二電電(現・KDDI)を設立、会長に就任、平成13年より最高顧問。22年には日本航空会長に就任し、27年より名誉顧問。昭和59年に稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。毎年、人類社会の進歩発展に功績のあった方々を顕彰している。

<連載ラインアップ>
■第1回 稲盛和夫は、なぜ自衛隊の幹部候補生学校に入ろうと考えたのか
■第2回 若き稲盛和夫が「会社を辞める」と瞬時に決意した上司の一言とは?
■第3回 「給料を上げてくれ」と迫る従業員たちに、稲盛和夫が返した一言とは?
■第4回 第二電電(現KDDI)創業時に、稲盛和夫が半年も自問自答した疑問とは?(本稿)
■第5回 稲盛和夫が指摘、一流大出身の幹部が経営する企業が“お役所体質”になる理由(5月1日公開)

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筆者:藤尾 秀昭

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