「1兆4000億円の負債」でも社内は明るかった…Jリーグ元チェアマンが語るリクルート復活の理由

2024年5月23日(木)8時15分 プレジデント社

東大をはじめ有名大学卒がごろごろいた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/mizoula

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2014年にJリーグチェアマンに就任した村井満氏は、当時経営危機に直面していたJリーグの再建に辣腕を振るった。リクルート出身の村井氏がサッカーの世界に転身したのはなぜだったのか。ノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏の書籍『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)より紹介する——。

■「地味でぱっとしない」社会人としてのスタート


「マネジメントの才能は後天的」——。


これはリクルートの創業者である、江副浩正(えぞえひろまさ)が残した言葉である。


芸術や音楽やスポーツでの天才少年・少女は存在するが、ビジネスの世界に天賦(てんぷ)の才能は存在しない、というのが江副の考え。少なくとも、村井満のキャリアを振り返ると、その指摘は驚くほどに符合する。


「凄腕のビジネスパーソン」として、Jリーグチェアマンに迎えられた村井であったが、社会人としてのスタートは実に地味でぱっとしないものであった。


経営者となってからも、屈辱的な失敗を何度か経験している。


リクルートにおける村井のキャリアは、1983年から2013年までの30年間。その間のトピックスをたどっていくと、チェアマン時代に行った決断の「出典元」となるようなエピソードが頻出する。


「異端のチェアマン」によるJリーグ改革を考察する上で、30年にわたるリクルート時代の検証は不可欠。この時代について、村井自身に振り返ってもらった。


■東大をはじめ有名大学卒がごろごろいた


日本リクルートセンターに入社したのは1983年、私が23歳の時でした。リクルートに社名変更するのが1984年ですから、その前の年になります。


同期入社は150人くらい。今でこそ誰もが知る大企業ですが、当時のリクルートは、それほど有名ではありませんでした。ですから大卒の新入社員は、そんなにいないだろうと思っていたんです。


ところが実際に入社してみると、東大をはじめ有名大学卒がごろごろいて、しかも個性派揃い。リーダーシップが強いやつもいれば、宴会で引っ張りだこになる芸達者なやつもいて、こんなに癖の強いのをよく集めてきたなと思いました。


新入社員の半数くらいが女性だったことにも、リクルートの採用方針が色濃く表れていたと思います。


写真=iStock.com/mizoula
東大をはじめ有名大学卒がごろごろいた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/mizoula

■社員の輪に入れなかった


当時のリクルートの社長は、創業者の江副浩正さん。江副さんは、経営オペレーションよりも採用を優先するような人で、東大の学生が訪ねてくると、会議を抜け出して面接することもざらでした。


クオータリー(四半期)ごとに、全社員の前に出てきて話をされていましたが、江副さんとは直接対話できる距離感ではなかったですね。


私が配属されたのは、東京の神田営業所。社内でも最も小さな営業所のひとつで、主な仕事は求人広告取りでした。


最初の頃はキツかったですね。1日100件のアポ取り電話とか、朝から夕方まで飛び込み営業とか。


外回りの厳しさもさることながら、オフィスにいる時も気が休まりません。昼休みとか、社員が仲良くご飯を食べているわけですよ。その輪に入れなくて(苦笑)。学生時代からの群れたがらない性格は、相変わらずでした。


写真=iStock.com/recep-bg
社員の輪に入れなかった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/recep-bg

■「引っ込み思案な社長」との運命的な出会い


そんな私に、営業先で運命的な出会いがありました。秋葉原で栄(さかえ)電子を起業されていた、染谷英雄(そめやひでお)さんという社長です。


当時は従業員が20人もいない、小さな会社でした。


染谷さんは山形の出身で、高校は進学校だったのですが、家庭の事情で東京に出て就職したそうです。


高校の求人票に「富久(とみひさ)無線電機」というのがあって、無線だったら人と話すことはないだろうと思って応募したら、家電量販店だったと。


実は染谷さん、とても引っ込み思案な性格で、人前で流暢(りゅうちょう)に話をすることができなかったそうです。


■結婚式の前にも顔を出していた


それまで私が抱いていた「社長」のイメージは、豪放磊落(ごうほうらいらく)でコミュニケーション能力が高くてオーラもある、というものでした。


ところが、自分のパーソナリティと重なるような経営者もいることを知って、ものすごいカルチャーショックを受けたんですね。


それからは、毎日のように栄電子に通い続けました。2年目の12月、私は家内と結婚式を挙げるのですが、式場に向かう前にも栄電子に顔を出していました(笑)。それくらい染谷さんに影響を受けていたし、学んだこともすごく大きかったです。


栄電子に入り浸っていた頃、私の業績は悪いままでしたが、どこかで吹っ切れたんでしょうね。


そのうち、自分の担当エリアにある会社すべてを回るようになりました。飛び込み営業を繰り返しているうちに、見る見るダンボール箱が名刺であふれ返るようになります。


「とにかく立派な経営者にお会いしたい」と思うようになったのが理由でした。


■江副氏もあまり社交性がないタイプだった


そうやって、営業の面白さややりがいは感じられるようになったのですが、すぐに成績が上向くことはありませんでした。リーダーやマネージャーへの昇進も、決して早くなかったように思います。


リクルートでは管理職になると、江副さんの『マネージャーに贈る言葉20章』というパンフレットが配布されるんです。


その第1章に「マネジメントの才能は後天的」というのがありました。


《マネジメントの才能は、幸いにも音楽や絵画とは違って、生まれながらのものではない。経営の才は、後天的に習得するものである。それも99%意欲と努力の産物である。その証拠に、10代の優れた音楽家はいても、20代の優れた経営者はいない。》


聞くところによると、江副さん自身も社交性があまりない人だったそうです。カリスマ経営者というタイプでもなかった。


そうして考えると「あ、俺みたいなタイプでもいいんだ」と考えられるようになりました。


写真=時事通信フォト
江副氏もあまり社交性がないタイプだった(インタビューに応える元リクルート会長江副浩正氏、2003年2月25日) - 写真=時事通信フォト

■政財界を揺るがした「リクルート事件」


リクルートに入社して5年くらいは、そんな感じで自分の中にあったコンプレックスが、少しずつ解消されていった時代でした。


リクルート事件が発覚したのは1988年、入社5年目のことでした。


平成生まれの方は記憶にないと思いますが、これは戦後日本における最大の企業犯罪かつ贈収賄と騒がれた疑獄(ぎごく)事件でした。


リクルートの関連企業で不動産を扱っていた、リクルートコスモスの未公開株が賄賂として政治家や官僚に流れていたことが発覚して、政財界を揺るがす大事件に発展したんです。


多くの逮捕者が出て、その中にはリクルートの会長だった江副さんも含まれました。


江副さんはこの年、会長を退任しています。


■逆風は筆舌に尽くし難いものだった


リクルート事件は、私のその後のキャリアにも大きな影響を与えることになりました。


社内が動揺する中、私は営業から人事への異動を命じられます。事件の影響によって、リクルートから離れる社員や採用内定者の辞退続出を防ぐことが目的でした。


会社全体の人事部門だけでなく、求人や情報誌など、さまざまな部署にも人事セクションを置くことで、細やかに対応する。そのための人員が必要となって、私にも声がかかりました。


ちょうど営業の面白さに目覚めて、成績も上がってきていた頃だったので、非常に不本意な辞令でした。けれども、それが自分の天職となるわけですから、人生とはわからないものです(笑)。


1991年、今度は会社全体の人事部門に異動することとなりました。


リクルート事件の発覚から3年が経っていましたが、その影響は長期化の様相を呈していて、ビジネス面での逆風は筆舌に尽くし難いものでしたね。


リクルートという社名を見ただけで「求人広告は出さない」とか「教育トレーナーなんてやってもらいたくない」とか。そういう拒否反応が、本当にすごかったです。


写真=iStock.com/ImpaKPro
逆風は筆舌に尽くし難いものだった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/ImpaKPro

■「有利子負債1兆4000億円」でも社内は明るかった


それでも好景気が続いていた頃は、まだ増収増益が続いていました。それが一気に崩れたのが、異動から1年後の1992年。バブル崩壊後は、もうどうにもなりません。


当時のリクルートの有利子負債は、およそ1兆4000億円という天文学的な数字でした。今でいう銀行の貸出金利、当時は「公定歩合」と言っていたのですが、およそ5%ですよ。1兆4000億円の貸出金利が5%ということは、700億円の利子を毎年返さなければならない計算です。


しかも、景気がどんどん冷えていくし、事件による企業イメージの悪化で、クライアントからの注文もなかなか入らない。


それでも社内の雰囲気は、決して暗くはなかった。むしろ明るかったくらいです。


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「1兆4000億円の負債」でも社内は明るかった(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Delmaine Donson

■危機的な状況でむしろ愛社精神が広まった


会社が危機的な状況になってから、愛社精神が一気に広まったようにも記憶します。当時のリクルートの社章はカモメだったんですが、カモメのバッジをつけて営業や接待に行く社員も増えていきます。銀座の寿司屋に行けば、塩を撒(ま)かれた時代ですよ。


事件以降、世間にとってのリクルートは、悪の象徴のような扱いでした。そんな逆境にあっても、従業員のベクトルさえ合っていれば、会社は倒産しない。そういう確信が得られた時、人事という仕事に対して、やりがいが感じられるようになりました。


この頃、人事部門の仲間たちと銀座の小料理屋で、夜中の2時とか3時まで「リクルートらしい人事とは何か?」について、侃々諤々(かんかんがくがく)と議論を続けていたことを思い出します。


■「いずれ紙媒体はインターネットに駆逐される」と議論


それぞれの業界には、生業の本質があります。銀行であれば「秩序」、メーカーなら「協働」、それならリクルートの場合は何か?


われわれは日々、さまざまなコンテンツを扱っていて、メディアの形態もまた変わっていく。


実はリクルートでは、1990年代半ばの段階で「いずれ紙媒体はインターネットに駆逐される」ことが議論されていたんです。あれだけ情報誌を出していながら。


1995年の流行語大賞に「インターネット」がノミネートされました。ちょうどウィンドウズ95が発売され、コンピュータと通信の融合が一般の人々にも普及する中、導き出された結論が「変化」でした。


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「いずれ紙媒体はインターネットに駆逐される」と議論(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/komta

■リクルートの人事制度を一気に改革


リクルートの本質が「変化」であるなら、人事の評価軸も営業成績ではなく「新しい価値を創造できること」であるべきではないか——。


そこから、リクルートの人事制度を一気に改革していきました。


階層別研修制度は、すべて廃止。浮いた予算は、インターネットをテーマとした外部講師による社員教育に充てていました。


そして法定外の寮や社宅、新幹線通勤などの福利厚生も全廃にして、社員の能力開発にシフトしていきました。


2000年に人事担当の役員になると、3年勤務を前提とした社会人版新インターンシップのようなCV(キャリア・ビュー)制度を創設しました。3年勤続したら100万円の退職金を出す。という制度です。


組織の中にどんどん人が流入する中、人と共に新たな情報がどんどん組織に入り込んでいけば、活力が増していくわけです。


■1兆4000億円の有利子負債は2006年に完済


もちろん、反対意見もありましたよ。「3年で追い出される会社に、自分の子供を入社させたい親がどこにいるんだ?」なんて言われたこともありましたが、意に介しませんでした。


「リクルートという会社は、雇用は保障できないけれど雇用される能力は保障したい」


そんな全社メールを出したこともありました。


当時はリクルートという会社を「変化」一色に塗り潰すことばかりを考えていましたね。


ちなみに1兆4000億円の有利子負債は、2006年に完済しました。


■Jリーグ開幕はTV観戦


「1993年5月15日、村井さんはどうされていたんですか?」


チェアマンになって以降、Jリーグ開幕をどこで迎えたのか、たまに質問を受けることがあります。実はあの試合、どうしてもチケットが手に入らなくて、TV桟敷(さじき)で観戦していたんですよね。国立競技場で歴史を目撃した人たちが、とても羨ましかったです。


写真=iStock.com/by sonmez
Jリーグ開幕はTV観戦(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/by sonmez

プレーヤーとしてのキャリアは高校まででしたが、その後も私はサッカーファンであり続けました。そうした中、「国内サッカーがプロ化する」という話を聞いて、ものすごくワクワクした気持ちになったものです。


やがて私の地元が、浦和レッズのホームタウンになります。


そして1992年に始まったナビスコカップ。浦和の初戦の相手は、当時のジェフユナイテッド市原で、私は大宮公園サッカー場のゴール裏で観戦していました。


浦和レッズとの付き合いは、そこからでしたね。以来、Jリーグの社外理事になるまで、ずっと4人のサポーター仲間とシーズンチケットを購入していました。


■わずか2歳の長男を亡くす


日本代表のワールドカップ予選にも、何とかスケジュールをやりくりして参戦しました。フランス大会のアジア最終予選は、アウェイも含めてほぼ行きましたよ。もちろん(本大会出場を決めた)ジョホールバルにも。


試合が終わったら、翌日の出社に間に合わせるために、余韻に浸ることなく大慌てで空港まで戻りました。


ジョホールバルといえば1997年ですから、当時の私の役職は人事部長ですよ。本来ならば、仕事そっちのけでサッカーを応援している部下を叱りつける立場だったわけで、本当に洒落にならない話ですよね(笑)。


なぜ、これほどまでにサッカーに夢中になっていたのか?


もちろん、競技そのものが好きだったというのもあります。それとは別に、私が28歳の時に長男を亡くしていたことも、関係していると思っています。


私は25歳で家内と結婚して、翌年に初めての子供が生まれます。けれども、その子はわずか2歳で亡くなってしまいました。ちょうど私が、リクルート事件の対応で忙殺されていた頃です。


朝、起きたら、息をしていなかった——。


幼児性突然死でした。


私もつらかったですが、家内はもっとつらかったはずです。


■「心の底から喜怒哀楽を表現できる人間になろう」と決意


2歳の子供って可愛い盛りで、わんわん泣いたかと思うと、不意に屈託のない笑顔を見せるじゃないですか。その喜怒哀楽が、とても美しく尊いものに感じられたんですね。


喜怒哀楽を解放したときの表情って、確実に人を引きつけるんですよ。


一方の自分はといえば、どうだったでしょうか。仕事とはいえ、嬉しくないのに作り笑いをしたり、言いたくもないお世辞を口にしたり……。


いったい自分は、今まで何をしていたんだろうか。そんなことを深く考えるきっかけとなったのが、28歳の時に直面した長男の死だったんです。


おりしも、リクルートが潰れるかどうかという時期でした。社内はもちろん、顧客とも表面的な付き合いではなく、感情を表に出して本気でぶつかり合う。そうすることで、何とか打開策を手繰り寄せることができるのではないかと思ったんです。



宇都宮徹壱『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)

あの日を境にして、私は決意しました。心の底から喜怒哀楽を表現できるような、それこそ子供のような表情ができるような人間になろう——。


もちろんビジネスの世界で、しょっちゅう喜怒哀楽を露(あら)わにするわけにはいかない。でもサッカーの世界でなら、応援しながら感情を爆発させることができるじゃないですか。悔しがったり、絶望したり、時々ブーイングして、勝ったら喜びを爆発させて。


まさにサッカーの世界って、喜怒哀楽そのものじゃないですか。


だからこそ私は、ずっとサッカーに夢中だったんだと思っています。


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宇都宮 徹壱(うつのみや・てついち)
写真家・ノンフィクションライター
1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科を修了後、TV制作会社勤務を経て1997年に独立。国内外で「文化としてのフットボール」を追い続け、各スポーツメディアに寄稿。「フットボールは世界を知る窓」を信条に、今も少しずつ取材領域を広げている。2010年に著書『フットボールの犬』(東邦出版)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、2017年に『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)でサッカー本大賞2017を受賞。個人メディア「宇都宮徹壱ウェブマガジン」、オンラインコミュニティ「ハフコミ」主催。
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(写真家・ノンフィクションライター 宇都宮 徹壱)

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