34歳で開発した「一太郎」が大ヒットしたが…Windows95に敗北した女性が58歳で再び会社を立ち上げるまで
2025年5月29日(木)7時15分 プレジデント社
「一太郎」東京都港区のメタモジ本社で語る浮川初子さん - 提供=読売新聞
提供=読売新聞
「一太郎」東京都港区のメタモジ本社で語る浮川初子さん - 提供=読売新聞
■日本語ワープロソフト「一太郎」大ヒットのその後
赤いパッケージに毛筆の書体で書かれた商品名。日本語ワープロソフト「一太郎」が、発売されたのは1985年8月28日だった。
34歳の時にこのソフトを開発した女性プログラマー浮川初子さんには、痛快な思い出がある。
1万円札を同封した現金書留の山、山、山——。ネット通販がなかった時代、ソフトの購入代金が郵送で届き、金庫に入りきらないほどになった。
一太郎は、日本語の文章をパソコンで書くという行為を当たり前にした国産ソフトだ。パソコンの職場や家庭への普及を背景に、爆発的なヒットを記録した。
ソフトの名前は「日本一になれ」と願って付けた。2歳年上の夫、和宣さんと2人で創業した徳島市のソフトウェア開発会社「ジャストシステム」は、日本を代表するソフトウェア会社に成長した。ただし、話には続きがある。
「本当によく稼いでくれました」
ジャストシステムの専務でもあった初子さんは、しみじみ語る。
1986年の春、当時35歳の初子さんは、徳島県の秘境・祖谷(いや)渓谷を訪れていた。前年8月に「一太郎」を世に送り出し、その後に急ピッチで開発した新バージョンもようやく発売。社員をねぎらおうと、社長の和宣さんと企画した2泊3日の社員旅行だった。
■社員旅行中にかかってきた1本の電話
「大変なんです!」。
宿泊先に電話があり、慌てて会社に戻った。新バージョンの購入を申し込む現金書留が殺到していたのだ。
1通につき1万円札が3枚。開封するハサミを持つ手がすり切れた。金庫に入りきらず、取引先銀行の行員が駆け付け、その場で札束を数えて持ち帰った。そんな日が何日も続いた。
「これに懲り、それからはカード払いにした」と、初子さんは笑う。
日本語の文書作成に主にワープロ専用機が使われていた当時、一太郎は、パソコンで同じことを可能にする画期的なソフトだった。
ローマ字での仮名入力、長い文章を一気に変換する「連文節変換」機能、頻出単語が上位にくる辞書——。ソフトの心臓部が「ATOK(エイトック)」と名付けた日本語入力システムのプログラムだ。ソフト本体から独立して動き、ATOKがあれば、他社のソフトでも日本語入力ができる。
発売当初の一太郎は定価5万8000円。年1万本売れれば「ヒット」だった時代に、1年足らずで3万本を突破し、10年以上もベストセラーに君臨した。
IT関連出版社のインプレスで、パソコン入門書シリーズの編集長を務める藤原泰之さんは「縦書き、原稿用紙にも対応したまさに日の丸ソフト。官公庁や学校でも広く使われ、国内でのパソコンの普及を強力に後押しした」と、一太郎が果たした役割を熱く語る。
画像提供=浮川初子さん
1996年9月、店頭に山積みされた「一太郎」 - 画像提供=浮川初子さん
■夫が営業、妻が開発担当
一太郎は、どのようにして誕生したのか。
79年創業のジャストシステムは、最初はオフィス用コンピューターの販売会社としてスタートした。
徳島市出身の初子さんは、愛媛大学工学部電子工学科で1期生として学び、大学で出会った和宣さんと結婚。最初は2人とも会社勤めだったが、和宣さんが「コンピューターの時代が来る」と、思い切って起業した。
創業時の社屋は初子さんの実家で、社員は夫婦2人だけ。社長の和宣さんが営業、専務の初子さんがソフト開発の担当だ。「何をどう売るかを考えるのが夫で、技術で支えるのが私」。それは、後々まで変わらない2人の役割分担となる。
1台600万〜1000万円と高価な機械を売るため、考えたのが日本語入力システムの改善だった。扱っていた機種の一つはカタカナしか表示できず、メーカーに技術開発を提案した。
しかし、「忙しいんです。自分たちでやってくださいよ」と断られた。これが一太郎への第一歩だった。
和宣さんは、初子さんに自分たちだけで開発できるかを相談した。初子さんはあっさり答えた。
「できるよ」
■10年で売上高は2億→195億円に
開発した仮名漢字変換システムは、「四国にすご腕の会社があるらしい」と評判を呼んだ。そこで、和宣さんは自社ブランドのワープロソフト開発を決意した。
いずれパソコンの価格は下がり、1人1台の時代がくる。その時に必須なのがワープロ機能だという読みがあった。
発売した「一太郎」は、時流に乗った。
パソコンの出荷台数は、80年には年9万台程度だったが、85年に120万台、90年に200万台と急拡大。メーカー各社は家庭への普及に力を入れ始めた。
罫(けい)線が簡単に引ける操作性、既製の伝票の枠にぴったり印刷できる機能など細かな工夫がユーザーの支持を受け、一太郎は事実上の「標準ソフト」としてパソコンと一緒に販売された。「1台売れるたび、チャリンチャリンとお金が入ってきた」と、初子さんが語る時代である。
一太郎は94年、ビジネスソフトとして初の累計200万本を達成。この年のジャストシステムの売上高は195億円と、10年前の2億円から急成長を遂げた。従業員800人超、自社ビルを持ち、表計算や図形ソフトも手がける国内有数のソフトメーカーに飛躍した。
■「ウィンドウズ95」という黒船
しかし、業界地図を一変させる出来事が起きた。95年の「ウィンドウズ95」の発売である。
ビル・ゲイツ氏率いる米マイクロソフトが開発したこの基本ソフト(OS)によって、パソコンは画面をクリックするだけでソフトを起動、インターネットに接続できるようになり、劇的に使い勝手が向上した。
日本でも同年11月から販売が始まり、4日間で20万本を売り上げた。
脅威だったのは、マイクロソフトが、OS人気を背景に一太郎と競合する同社のワープロソフト「ワード」の販売攻勢をかけたことだった。「日米のソフト大手の覇権争い」とメディアが書き立て、各社が「標準ソフト」をワードに急速に切り替え始めた。
マイクロソフトの手法はOSやソフトの抱き合わせ販売ではと日米で問題視され、日本では98年、一部が独占禁止法違反と指摘されたが、すでに遅かった。
ジャストシステムはこの年、赤字に転落。研究費や人員を削減し、営業に力をいれて10億円、20億円を稼いでも、「標準ソフト」の地位を奪われては焼け石に水だった。
2009年4月、立て直しのため、制御機器大手「キーエンス」の傘下に入った。浮川さん夫婦は一から育てた会社を去った。
■再び夫婦で立ち上がる
「下り坂の何年間かは、本当につらかった。今となれば、一太郎の商売を安易にやっていたのがまずかったんだと思います」
とはいえ、いま考えてもほかにやりようがあったとも思えない。
悔やむとすれば、資金繰りの問題で、研究中の技術を途中で諦めたことだ。ネット事業「ジャストネット」は、楽天のようなネット通販に育つ可能性があった。米企業から20億円で買い取った文書検索システム「コンセプトベース」は、グーグルのような技術に発展させることができたかもしれない。
「マイクロソフトの戦略に敗れたのが全て」。
その言葉に、業界の荒波にのまれた悔しさをにじませる。
その思いから、一緒にジャストシステムを離れた技術者らと09年12月に設立したのが新会社「MetaMoJi(メタモジ)」だ。
「メタ」はギリシャ語で「超える」という意味があり、「モジ(文字)」、すなわち一太郎を超える意気込みを込めた。和宣さんは60歳、初子さんは58歳。再び社長と専務としての挑戦だった。
衝撃を受けた技術革新があった。新会社を設立直後の10年1月に発表された米アップルのタブレット端末「iPad」だ。スティーブ・ジョブズ氏が開発した端末は、手軽に持ち運べ、指一本で何でもできた。洗練された技術が、マイクロソフトの覇権を揺るがす予感があった。
■鳴りやまぬハト時計の音
メタモジは、iPad用に日本語を手書きで入力するシステムの開発に着手した。11年2月に発売したメモアプリ「7notes(セブンノーツ)」が初の製品だった。
この時も愉快な思い出がある。
社員の一人が会社のパソコンに、アプリが1本売れるたび、「ポッポー」というハト時計の音が鳴る仕組みを組み込んだ。
ところが、発売翌日の正午にそれを起動すると、「ポポポポポポポポッポ」という、おかしな音が響いた。セブンノーツが、アップルのカテゴリー別アプリランキングで1位を獲得。売れ行きに音のテンポが追いつかなかった。
でも、よく売れていることだけはわかった。社内で自然と拍手がわき起こった。
■若手技術者に託す夢
初子さんが「鉛筆一本で稼げる」とプログラマーを志して半世紀になる。成功と失敗、そして再起を経験して語るのは、めまぐるしく変化するIT業界の魅力だ。
読売新聞社会部「あれから」取材班『「まさか」の人生』(新潮新書)
「誰かが変革を生み出し、その変革にチャンスをもらう。そこから価値のあるものを生み出すところに、開発の楽しさがある」
もちろん一人ではない。発想力に富み「コンピューターには無限の可能性がある」と語る和宣さんと、「可能性を使える形にするのがエンジニア」と話す初子さんは良きパートナーだ。二人で開発したメタモジのソフトは、学校や建設会社、放送局といった様々な現場で使われている。
そして一太郎と「ATOK」もまた、初子さんらが離れた後のジャストシステムで、着実に販売実績を重ねている。
メタモジの若手社員は、一太郎の大ヒットを知らない世代だ。22年に入社した本間奨悟さんは「社長と専務が時代を築いたレジェンドと知って驚いた」と明かす。
初子さんは今、そんな若手技術者に夢を託す。「100年後も役に立つ技術を生み出す。そういう会社にしたいと思っているんです」
[2023年6月11日掲載/大重真弓]
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読売新聞社会部「あれから」取材班
過去のニュースの当事者に改めて話を聞き、その人生をたどる人物企画「あれから」を担当。メンバーは社会部の若手記者が多い。人選にこだわり、取材期間は短くても3カ月。1年近くかけることもある。2020年2月にスタート。ネット配信でも大きな反響を呼び、連載継続中。サイトはhttps://www.yomiuri.co.jp/feature/titlelist/%E3%81%82%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89/
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(読売新聞社会部「あれから」取材班)