Z世代が知らない昭和のビール大戦争、シェア6割のキリンはなぜ陥落したか

2023年7月5日(水)6時0分 JBpress

(*)本稿は『日本のビールは世界一うまい!酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

 戦後のキリンは家庭用中心の戦略により、一般家庭への冷蔵庫普及と相まって、シェアをぐんぐん伸ばしていく。1960年代には旺盛なビール需要の拡大に対応し、複数の新工場建設をはじめ設備投資を積極化させる。

 我が国の高度経済成長に比例するように、キリンは急成長を遂げていく。

 沖縄が返還された1972年にキリンは60.1%のシェアを獲得。ついには6割を突き抜けた。この72年から85年までの14年間、キリンのシェア(販売ベース)は常に6割を超えていた。

 最大は76年の63.8%。86年も59.9%と、ほぼ6割を維持していたので、圧倒的な首位だった期間は実質的に15年連続、さらに71年のシェアも59.5%あり16年連続だった、とも捉えられる。

 もっとも、この頃のキリンはこれ以上売り上げを伸ばせない状況に陥る。73年以降、独占禁止法(独禁法)に抵触し、会社が分割される危機に直面したためだった。

 キリンは国から助けられたわけではなく、あくまで企業努力により高いシェアを獲得した。なのに、独禁法により身動きがとれなくなってしまう。

「頑張れば必ず勝ってしまう。しかし、勝利は自分たちを分割という名の破滅へとみちびいてしまう」(70年代に入社したキリン元幹部)という状況だった。

 キリンが6割強、サッポロ2割強、アサヒとサントリーの合計が2割弱という長期にわたるシェア固定化も、このキリンの独禁法という事情が絡んでいた。

 仮に独禁法の制約がなければ、キリンのシェアはさらに拡大した可能性は高い。戦費調達を目的にしていたビール税があった戦前、大日本麦酒は、生産量シェア(販売量シェアとほぼ同じ)で75%を占めた。

 ただし、大日本は合併により規模を拡大したため、「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」など、複数のブランドをもっていた。これに対し、戦前に唯一大日本に対抗していた三菱系の麒麟は、戦後も「キリンラガー」一択で6割のシェアを獲得していった。

 ここに、戦前の大日本と戦後のキリンとの違いがある。キリンが多ブランドを展開していくのは、80年代からである。


キリンビールが6割のシェアを維持できたのはなぜか

 メーカーのキリンに代わり、一部のキリン系特約店(問屋)が酒販店を選別する動きも生まれていく。

「ラガー」は供給よりも需要の方が多く、どこかで調整弁が必要だった。90年代前半までの、酒販免許が酒販店だけに交付されていた時代、全国に酒販店は約15万軒あった(ちなみに、現在はコロナ禍前の2018年で3万7086店。この大半は飲食店に酒類を配送する業務用向けをもっている)。

 有力な飲食店にビールを納めているなどで、売り上げの大きい酒販店には「ラガー」を積極的に納めた。逆に売り上げ規模が小さいところ、あるいは旧大日本との関係が強い酒販店には、「ラガー」の納入を控える形で調整したのである。「このため、キリンは特定の酒販店からは恨まれていました」(同キリン元幹部)と言う。

 いずれにせよ、6割超のシェアを握るキリンの生産計画を中心に、ビール業界は動いていたのである。14年もの長期にわたってだった。

 それにしてもなぜ、キリンは1970年代前半から80年代の半ばまで、6割を超えるシェアを維持し続けられたのか。

 80年代半ばまでのキリンは、「バドワイザー」をもつアンハイザー・ブッシュ(現在はアンハイザー・ブッシュ・インベブ=ABインベブ)、オランダのハイネケンとともに、世界でも三指に入るビールの超大手だった。

 キリンのシェアのほとんどすべては「ラガー」で占められたが、アサヒの元社長だった樋口廣太郎は社長時代の91年、筆者に次のように語ったことがある。

「戦後生まれの団塊世代がみんな飲んだから、6割のシェアを維持できたんだ。というのも、団塊世代が初めて飲んだビールが、当時一番売れていたキリンラガーだった」

 団塊世代とは、戦後の1947年から49年の3年間に生まれた約800万人の“塊”を指す。団塊世代は人数が多いだけに、小学校の運動会にはじまり、高校および大学受験と、同期の競争が激しかったことで知られる。ただし、幸運だったのは就職環境だった。

 73年秋のオイルショックまで、我が国は空前の好景気が続いていた。このため、高卒者も大卒者も、多くは大手企業に入社した。この点は、団塊の子供たちである団塊ジュニア世代が就職氷河期に当たったのとは異なる。

 出世したかどうかは人によるが、団塊世代のたいていの人は生活に窮するようなことはなかった。


団塊の世代が育てた「ラガー」

 そんな世代が大人になったとき、一番売れているビールは「ラガー」であり、初めて飲んだビールは「ラガー」だった。彼らが「ラガー」を支持した結果、キリンのシェアは6割を超え、6割超のシェアをキープし続けたのだ。独禁法と隣り合わせのまま。

 居酒屋に入り「とりあえずビール」という慣用句は、団塊世代が「ラガー」に対して使い定着していったともいえよう。

 団塊世代が愛して育てたのが、ホンダN360であり、ソニー製品であり、キリン「ラガー」だったのだろう。

 ビール業界は「ガリバーと三人の小人」などと、揶揄されるようになる。

 九州の工業高校を卒業して大手自動車会社に71年に入社したHは、エンジンの排ガス測定工程に配属される。いまと違いマニュアルも教育訓練もない時代で、先輩の背中を見ながら仕事の技を盗んでいったそうだ。

 先輩の多くは5、6歳年上の団塊世代。彼らはみな厳しくて、ときにはスパナさえ飛んできて、激しく叱責されたという。

「先輩は、スパナをどう投げれば人に当たらないか熟知していました」とHは言うが、仕事中には高い緊張感が要求されていた。ちょっとしたミスが、工場では重大な事故につながるためだった。

 しかし、昼は鬼のように厳しい先輩たちも、夜になると必ず飲みに連れていってくれた。すべて奢ってくれて、昼はなぜ怒ったのかを、膝詰めで説明してくれる人もいた。

 こうして工場現場の高い技能は伝承されていったのだが、毎晩通う居酒屋のテーブルにあったビールは、なで肩の瓶だったそうだ。

 ちなみに、キリンはなで肩の瓶、他の三社はいかり肩(肩張り、とも呼ばれた)の瓶である。また、タカラビールはキリンと同じなで肩瓶だったそうだ。

 もっとも、強すぎる状態が長期に継続したことは、やがて弊害も生んでいく。


「殿様商売」になっていたキリンの営業

 新しい挑戦や努力をしなくとも、キリンは勝ってしまうのだ。個人や組織の実力によってではなく、酒販店が一般家庭にビールを配達するという確立した仕組み、そして「ビールならキリン」というある種の“流れ”によってだった。

 高いシェア、安定した財務という見た目とは裏腹に、会社組織にとって最も重要である「活力」が、いつの間にか喪失されていったのである。

 ビール会社のメインの舞台である営業は、本来は売り込むのが仕事である。しかし、キリンの場合、営業活動を本気で行うと、売れてしまい、その結果として会社が分割されてしまう。

 どこの酒販店も、最も売れている「ラガー」を置きたがった。それゆえ、問屋はキリンの営業マンをお茶やコーヒーでもてなし、「一箱でも多く、ラガーをまわしてください」と嘆願したという。

 その結果、キリンの営業マンの仕事は、本来あるべき「売り込み」ではなくなっていた。どこの問屋にどのくらいの数を割り当てるかという「調整」、決定した数量の「通達」がその仕事と化していた。

 いわゆる「殿様商売」になっていて、顧客との接点となる酒販店や飲食店まで、キリンの営業マンが足を運ぶことはなかった。つまり、営業マンが育ってはいなかったのだ。

 ちなみにシェアが6割を超えているだけに、キリンの賃金は旧大日本の2社に比べて、高かったそうだ。


どぶ板で磨かれたアサヒビールの営業伝説

 高いシェアに安住するキリンとは逆に、アサヒの営業マンたちは、「どぶ板」を駆けずり回っていた。問屋は言うに及ばず、酒販店、居酒屋や食堂などあらゆる業態の飲食店、映画館、各種劇場、バー、キャバレー、風俗店などなど。ビールが存在するところには必ずアサヒの営業マンが訪れていた。

 アサヒは一般家庭から相手にされてなくて、販売量の大半は飲食店などの業務用だった。当時のビール市場は家庭用7割に対して業務用が3割(ちなみにコロナ禍前の2019年は、ビール、発泡酒、新ジャンルのビール類として家庭用75%弱、業務用25%強の割合。業務用の大半はビールで占められた)。

 アサヒはその3割の市場で戦っていたため、売り上げは増えなかった。工場の稼働率は低く、古いビールが流通在庫として滞留していたのである。

 そうした状態にあっても、何とかシェアの低下を防がなければならない。そのため、アサヒの営業担当者は酒販店を直接訪問。一般家庭へ配達するキリン「ラガー」の大瓶(633ミリリットル入り)が20本入ったビールケースから、大瓶一本を抜き取り、アサヒビールに差し替えていた。

 時には、2本、3本替えたり、大胆にも箱の四隅をアサヒのビールに替える“辣腕営業マン”もいた(アサヒ社内では“四隅作戦”などと呼んでいた)。

 世田谷を担当していた営業マン、平野伸一(79年入社。後にアサヒビール社長)は四隅を“冷えたアサヒ”に替え、軽トラへの積み込みは平野が行い、配達先で店員には「すぐ飲めるように、冷えたのを4本入れておきました」と言ってもらっていた。

 営業マンは何度も酒屋に通い、互いの人間関係がつくられていたから成立した手法だった。

「酒屋の冠婚葬祭には必ず顔を出せ」

 先輩営業マンから助言を受け、若い平野は忠実に従った。特に、通夜と告別式には、アサヒを扱っていない酒屋を含めてすべて参列したそうだ。この頃は地域の酒販組合の力が強く、組合幹部たちは礼服姿で焼香の列に並ぶ平野の姿を毎回見ていた。

「今どきの若者と違い、平野君は感心だ。分け隔てがない。アサヒを扱っておやりなさい」

 土浦を担当していた営業マンは、朝から市内にある“特別な劇場”に通った。毎日かぶりつきに座り、最初は立ち売りのオジサンと、次に支配人と親しくなり、販売するビールをアサヒに替えてもらう。

「いいよ、ビールは何だっていいから。客はビールを飲みに来ているわけじゃないもの」

 支配人に気に入られて、やがては楽屋に出入りできるようになると、その営業マンは踊り子さんたちのアイドルとなる。アイドルのために、踊り子たちは行きつけの飲食店で、「私、ビールはアサヒしか飲まないの。替えてちょうだい」と言ってくれるようになる。

 この結果、土浦でのアサヒのシェアは一気に上がったという。こうした一騎当千の営業マンが、アサヒにはたくさんいた。


スーパードライ大逆転の下地

 当時のアサヒの営業部隊には、営業マンが営業活動で集めた飲食店や酒販店に関する詳細なデータがあった。家族構成、経営者の趣味、最終の決定権者(実はお祖母ちゃんという店も)、町内会をはじめ外部との人間関係など。代々の営業担当が脚で稼いで、蓄積された情報であり、門外不出の一方で部門内では共有されていた。

 後にアサヒビール社長になる荻田伍は1982年に、関東支店販売課長になる。関東は、キリンもサッポロも強く、東京と群馬県に工場を持つサントリーも勢力を伸ばしていた。関東は巨大市場ではあるが、アサヒにとっては逆境の地でもあった。

 関東支店のメンバーが顔を揃えるのは、月曜朝の営業会議の時だけ。次の月曜まで、メンバーは担当地域で営業に励む。投宿してである。荻田も現場を廻ったが、毎朝6時になると宿泊先の公衆電話から、部下たちの宿泊先に次々と電話を入れた。巾着袋に入った大量の十円玉を握りしめながら。

「オイ、元気か?」
「アッ、おはようございます……」

 それぞれの声色だけで、受話器の向こう側にいる部下の様子を瞬時に掴めた。「困っていることがあるんじゃないか」。営業成果や数字は一切問わない。任せている部下とのコミュニケーションを大切にし、チーム力アップを目指した。

 2019年からアサヒビール社長、23年から同会長を務める塩澤賢一は、1981年に入社。アサヒの強い京都支店から85年、関東支店に異動し、栃木県北部を担当した。京都の時と比べ、どうしても厳しい営業を強いられてしまう。

「どうだ、塩澤、大丈夫か……」荻田は毎朝、課員で一番若い塩澤にも電話を入れてくれた。「荻田さんの電話に、ずいぶん助けられました。どんなに苦しくとも見ていてくれる上司が、私にはいたのですから」と塩澤は話す。

「シェアは落ちていましたが、4社の中で営業力は一番強かったと思います」(荻田)というのは本当だったろう。苦しい環境は、人もチームも育てていた。

「裕福な家から孝行息子は生まれない」という喩えよろしく、キリンの営業部門とは裏腹だった。

※第2回「スーパードライのヒット前夜、窮地のアサヒを救ったタイガース優勝の奇跡」に続く(7月6日公開予定)

筆者:永井 隆

JBpress

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