なぜ高野連は批判されても「酷暑の甲子園」をやめないのか…「球児の憧れだから」だけではない"苦しい大人の事情"
2024年10月25日(金)16時15分 プレジデント社
■日陰になる「銀傘」を拡張予定
今年は数々のドラマを生んできた阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)の開場100周年イヤーである。王貞治、清原和博、イチロー、松井秀喜、松坂大輔、ダルビッシュ有、大谷翔平……。日米で活躍した多くのプロ野球選手が、甲子園から巣立っていった。
写真=時事通信フォト
閉会式の後、記念撮影をする優勝した京都国際と準優勝の関東一の選手ら=2024年8月23日、甲子園[代表撮影] - 写真=時事通信フォト
その「聖地」は、次なる100年に向け、装い新たに生まれ変わる。いや、「完全復活」と呼んだほうが正しいだろうか。球場を運営する阪神電鉄が、内野の一部座席を覆う「銀傘(ぎんさん)」と呼ばれる屋根を、一、三塁側のアルプス席まで拡張する計画を発表した。拡張後は、アルプス席の約7割を覆うことが可能となり、中段付近の日照時間は真夏の1日あたりで約6時間減少する見込み。11月から着工し、2028(令和10)年3月に完成予定だ。
会見に出席した阪神電鉄の谷本修取締役は「昨今の真夏の猛暑など、環境の変化に柔軟に対応していくことが大切」と話せば、日本高野連の寶馨(たから・かおる)会長も「大変有意義な素晴らしい計画。連係して高校野球の未来を描きながら、さらなる発展に努めていきたい」と同調する。今や観客の猛暑対策として欠かせないものとなった銀傘の拡張を歓迎する声は多い。
■かつてはサッカー、ラグビー、歌舞伎も開催
甲子園球場は、開場した1924(大正13)年が、暦の干支を構成する「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」それぞれの最初である「甲」と「子」が60年ぶりに重なる縁起のよい「甲子(きのえね)」の年だったため、その名が付けられたことは有名な話だ。
ただ、完成時は「甲子園大運動場」という名称で、もともとは野球以外の他競技も開催することを念頭に設計されたことはあまり知られていない。今でも12月にはアメリカンフットボールの学生日本一を決める「甲子園ボウル」が行われるほか、かつては高校サッカーや高校ラグビーの全国大会、さらにはスキーのジャンプ大会や、歌舞伎も開催された。銀傘は、雨中でも試合や催し物を観ることができる、いわば「雨よけ」として設置されたのが始まりなのだ。
当初、内野のメインスタンドまでを覆っていた鉄製の屋根は「鉄傘(てっさん)」と呼ばれ、1931(昭和6)年にはアルプス席(1929(昭和4)年完成)まで拡張。「大鉄傘(だいてっさん)」と呼ばれるようになった。ただ、雨よけとして誕生した鉄傘は、従来の目的とは別の用途で好評を博した。
それは、真夏に開催される「全国中等学校優勝野球大会」(現・全国高等学校野球選手権大会)を日陰で観ることができるということだ。特に日焼けを避けたい女性から大好評で、野球ファン開拓に多いに役立った。
■「お陰で女性ファンもふえた」しかし…
第14代球場長を務めた川口永吉さんは、著書『甲子園とともに』(1969年、昭和44年刊)の中で「女性ファンを喜ばせた鉄傘」の小見出しを打ち、「あの鉄サンのお陰で女性ファンもふえた。直射日光に当たらず、野球を観戦——女性本来の“美”をそこなう心配が甲子園に来てもなかったからである」と記している。
ただ、甲子園にも、戦争の暗い影が忍び寄ることなる。1942(昭和17)年、軍が主導し、文部省が主催した「全国中等学校錬成野球大会」(別名・幻の甲子園)を最後に、大会が中断すると、1943(昭和18)年、太平洋戦争の最中に、軍部への金属供出のため、すべての鉄傘が撤去された。1トンあたりの価格は90円(当時)、全体で9万円という安値で売られたが、結局放置されたまま、軍事利用されることはなかったという。
その後、スタンドは高射砲陣地、グラウンドも内野は芋畑、外野は軍用トラック置き場など、軍事施設となった。広島に原爆が投下された1945(昭和20)年8月6日には大空襲を受け、三日三晩燃え続けたという記録も残る。大会自体は終戦の翌年から開催されたが、GHQに接収されていたため使用できず、1947(昭和22)年にようやく甲子園での大会が復活した。
■あまりの猛暑に「足がつる」球児が続出
屋根が戻ってきたのは1951(昭和26)年、撤去から8年後のことである。アルミニウム合金の一種であるジュラルミン製で作られたことから「銀傘」と呼ばれるようになった。その後、1982(昭和57)年にはアルミ合金製でリニューアルされた。
2007(平成19)〜10(平成22)年に行われた「平成の大改修」では、開場当初のように、内野スタンドの両端まで覆われる現在の「4代目銀傘」が誕生した。材質もガルバリウム鋼板製に切り替わると、屋根上には太陽光パネルも設置され、年間で約19万3000キロワットを発電。これは甲子園で行われるプロ野球のナイトゲーム開催時の照明が年間に消費する電力量の約2倍に相当するという。
また、屋根に降った雨水を地下タンクに貯蔵する機能も設置。敷地内の井戸からくみあげる井戸水と合わせて、グラウンドへの散水やトイレの洗浄水として、年間に使用する水量の約65%をまかなうなど、時代に合わせ、その姿を変えてきた。
だだ、変化を続ける甲子園と同様、真夏の気温も大きく様変わりしてきた。気象庁によると、甲子園にほど近い神戸の8月平均気温は、甲子園が開場した1924年は27.5℃だったのに対し、今年は観測史上最高となる30.2℃と、100年で3℃近く上昇した。
毎日のように熱中症警戒アラートが発令され、屋外での運動を控えるように促される中、近年は試合中に足がつる球児が続出している。各校応援団が陣取るアルプス席では、熱中症で緊急搬送される生徒や観客も少なくない。
■「甲子園ドーム化構想」が浮上したことも
高野連や球場も段階を追って猛暑対策を進めてきた。2019(平成31、令和元)年にアルプス席や外野席にエアコン計28台、12カ所の入場門には各1台ずつ壁付型扇風機をそれぞれ増設。アルプス席の一部の床には遮熱塗装を施した。
2023(令和5)年からは5回終了時に10分間の休憩時間を設ける「クーリングタイム」、そして今年から、炎天下の時間帯を避けて午前と夕方の3試合に分ける「2部制」を開幕から3日間の日程で導入。銀傘の拡張を前に、新たな100年へ向けて議論を重ね、行動に移してきた。
長い歴史の中で、ドーム化が検討されたこともある。1990年代、甲子園に隣接していた「甲子園阪神パーク」(2003年、平成15年閉園)が赤字続きで閉園が検討される中、その跡地と周辺地を加えた用地にドーム球場を建設するという計画が浮上した。
実際に1993(平成5)年には「(同年秋に開始する)西梅田再開発事業が終了する10年後を目処にドーム球場の建設を始めることを検討している」という報道もされたほどだ。
しかし、1995(平成5)年に起こった阪神・淡路大震災や、バブル崩壊の余波などの影響から、ドーム建設事業は正式発表されることはなかった。当時は今のように暑さも厳しくなく、莫大な建て替え費用がかかることも白紙撤回の一因となった。
■「ナイター開催」は公平ではない
甲子園はその後、球場本体の構造強度の検査結果を踏まえ、基礎部分のみを残して大改修を終えた。もしこの時にドーム化されていれば、少なくとも酷暑の問題はクリアできていたのかもしれない。
2009年夏の甲子園決勝(写真=百楽兎/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
それでは、開催時期をずらしたり、2部制4試合にしたり、他ドームでの開催はできないのだろうか。
まず、前提として、高校生の本分は学業だということ。長期的に学校を休める時期は、シーズンオフの冬休みを除けば、春休みと夏休みしかない。春休みに開催される選抜は出場32校、試合数31試合に対し、夏の選手権は各都道府県大会を勝ち上がった49代表が48試合を戦う。開催期間も当然長くなるため、夏休みに行う以外、選択肢はない。
2部制4試合も不可能ではないが、そもそも放課後の練習時間を制限されることの多い公立校が、夜の遅い時間帯に試合をやること自体、不自然に思えて仕方ない。ナイター設備の下、長時間練習ができる私学との不公平感も生まれる。検討が始まった7イニング制が導入されたら試合時間は短くなり、選手の負担は減るが、野球の根本ルールが変わるため、現場からは反対の声も多い。
■もし、近隣の京セラドームを借りるとしたら…
ドーム球場での開催も現実的には難しいだろう。一番の理由は、甲子園の球場使用料が無料だからだ。1915(大正4)年に阪急電鉄が所有する豊中グラウンド(現大阪府豊中市)で産声を上げた中等学校の全国大会は、1917(大正6)年の第3回大会から、阪神電鉄が鳴尾競馬場の馬場内に開場した鳴尾球場(現兵庫県西宮市)へと移った。
ただ、野球人気が上がるにつれ、観客数増加への対応に追われた。阪神電鉄は、主催者の大阪朝日新聞社からの本格的な野球場建設を打診されたこともあり、1924(大正13)年の第10回大会に合わせ、わずか4カ月半という短期間で甲子園を完成させたのである。
このような経緯に加え、阪神電鉄も電車運賃と沿線開発によって収益を上げられたこともあり、今でも春夏の大会開催時は、グラウンド整備費用等こそ請求するが、球場の使用料そのものは請求しないままとなっている。
もし、ドーム球場に場所を移すとなると、負担額はいくらになるのだろうか。
京セラドーム大阪(大阪府大阪市)の場合、公式サイトに掲載されている会場使用料(税別)は、基本料金(8時間)が平日300万円(延長料金=1時間20万円)、土日祝日が400万円(延長料金=1時間30万円)となる。
■「非商業性」を貫くがゆえの苦しい懐事情
各校3日間の練習日も含め、計17日間球場を使用した今夏大会に当てはめてみれば、平日11日間、土日祝日は6日間借りることになり、会場使用料だけで5700万円かかることになる。1日4試合となると、設営撤去の時間を含め8時間で終わることはなく、延長料金が上乗せされる。
スタンド席も1000席で10万円の費用が発生するため、仮に1日2万席を抑えれば200万円、14日間で2800万円がかかる。ドームビジョンや駐車場のオプション、消費税を加えれば、1大会で1億円はゆうに超えるだろう。
高野連は非商業性を貫くがゆえ、全試合放送するNHKや大阪朝日放送などからの放映権料はゼロ。春夏合わせ10億円ほどの入場料収益を軸にやりくりしなければならない。甲子園から使用料を請求されない限り、使い続けたいのが本音だ。
今夏大会の開会式。選手宣誓を行った智弁和歌山の辻旭陽(あさひ)主将は、「僕たちには夢があります」と切り出し、こう続けた。
「この先の100年も、ここ甲子園が、聖地であり続けること。そして、僕たち球児の憧れの地であり続けることです」
先人たちが守り、受け継いできた日本最古の球場が、100年先も変わらず球児たちの聖地であるために……。現状に満足することなく、さまざまな知恵を出し合いながら、必要な対策を講じていく必要がある。
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内田 勝治(うちだ・かつはる)
スポーツライター
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社ではプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツビジネス全般を行う。
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(スポーツライター 内田 勝治)