五木ひろし「太陽みたいな人だった石原裕次郎さん。Tシャツに短パン、ビーサンが似合う昭和の大スター」

2024年2月10日(土)20時0分 婦人公論.jp

昭和、平成、令和と時代とともに日本の歌謡界を牽引してきた歌手・五木ひろし。長い芸能生活の中で、多くの歌手や俳優、文化人、政財界の要人と交流を深めてきた。前回の連載に登場した高倉健とある意味対照的なキャラクターの持ち主も、五木ひろしの芸能生活に大きく影響を与えていた。その人物とは、やはり20世紀を代表する大スター、石原裕次郎。今、明かされる交流秘話とは——。(構成◎吉田明美)

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Tシャツに短パン姿の裕次郎さん


石原裕次郎さんに初めて会ったのは、テレビ番組だったんです。僕がデビュー2年目ぐらいだったかな? すでに大スターであり歌手でもあった裕次郎さんと僕の2人の歌番組が企画されたんです。

収録はスタジオだったんですが、僕は当然早めに着いて待機していました。緊張もしていましたよ。そしたら黒塗りのロールスロイスがすーっと入ってきて、ドアが開き、ビーチサンダルが見えました。え?と思ったら、Tシャツに短パン姿の裕次郎さんです。これがかっこいいんですよ。いきなりやられましたね。(笑)

なにしろ、子どものころに映画館のスクリーンで見ていた人ですからね。10歳にもならない頃の記憶ですが、福井の映画館へ誰かに連れていってもらったんです。超満員で立ち見の中、人と人の間をちょこちょこと縫って前の方まで行ってスクリーンを見上げたら、裕次郎さんが映っていた。作品は『嵐を呼ぶ男』で、彼はドラムのステッキをかっこよく振っていました。(笑)

そのご本人が目の前で短パンにTシャツで立っている! その場がパーッと明るくなって、すごいオーラでしたね。とにかく周りを明るくする太陽のような方でした。でも決してえらそうにはしていない。

収録の合間に気さくに話しかけてくれて…。裕次郎さんってヨットマンでしょう?その仲間と海に出ると、いろいろなヒット曲を替え歌にして歌っていたらしいんですよ。『よこはま・たそがれ』も、男ばかりの船の上で、ちょっときわどい替え歌になっていたぞと教えてくれました。そうやって海の上で楽しんでいらしたんでしょうね。とてもテレビでは歌えないですが。(笑)

僕は福井の日本海を見て育っているけれど、あちらは太平洋。神戸の須磨で生まれ、小樽にもいらっしゃったけど、逗子とかヨットのイメージが強いですよね。明るさが全然違うんですよ(笑)。でも、2人とも海が好きという共通点もあり、その番組がきっかけで一気に親しくなりました。

〈歌手同士〉という立場で対談


その後、数年経って、僕がラスベガスから帰ってきたころに、雑誌で対談させていただく機会がありました。僕が、そのころちょうど、英語の大切さが身に沁みていて、本当は1年ぐらい休んで留学したいんだけど、それもかなわずにいるという時。裕次郎さんとは、英語の歌を歌うのは大変だね〜という苦労話などが出ましたね。裕次郎さん自身は英語は堪能だったんですが、歌となるとまた違うんです。

僕も、英語の上達のために、3年間、アメリカ人の男性をマネージャーにして普段の会話も英語にしたりしましたが(笑)、やはり小さいころから英語になじんでいるというのが必要だなあと感じましたね。

だから、僕の3人の子どもたちには、それぞれ海外留学をさせました。今は、その甲斐もあって僕の夢を子どもたちが叶えてくれた感じですね。外国から日本を見るのはとてもいいこと。今の日本は、海外の影響を受けていろいろな街づくりや企業体系ができている。3人ともグローバルに生きてくれているのは頼もしい限りです。

裕次郎さんとは当初は〈歌手同士〉という立場でお会いして親交を深めましたが、裕次郎さんの映画って、必ず主題歌があって、それが全部ヒットしていたわけですから、すごいですよね。裕次郎さん自身は、俳優より歌のほうが好きだとおっしゃっていたみたいです。

でも、今だから言えますが、歌うときは必ずカンペだったんですよ。「俺は俳優なんだから歌詞なんて覚えないよ」ってね。(笑)
それなのに、1965年に全国縦断のリサイタルを敢行してるんですよね。今みたいにプロンプターもない時代だし、いったいどうやって乗り切ったんだろう。(笑)

俳優であり歌手でもあった


俳優であり歌手でもあったけれど、どちらも自分から望んでなろうと思ったわけではなく、決して心から楽しんでいたわけではないと、近くで見ていて感じたことがあります。

裕次郎さんは、1958年に『わが青春物語』という自叙伝を出版しています。それによると、20代のときから、なにかというとビール。レコーディングのときも、ヨットでも、けんかをした後もいつもビール。本当にビールを飲むのが好きだったみたいです。

俳優も歌手も、目指してなったわけではないのに、どんどん有名人になっていったんですから、運命ですよね。

もとはと言えば、兄の石原慎太郎さんが小説『太陽の季節』を書いて芥川賞をとったために、これを原作とした映画ができて、弟の裕次郎さんがプロデューサーの水の江瀧子さんにスカウトされ、俳優の道を歩むことになったわけですが、それも含めて運命だったという気がします。

ビールを飲まなくてはやっていられないほど、シャイだったのかもしれません。
海、ヨット、ハワイ…。傍から見ると、満ち足りた生活のように見えますが、どうだったんでしょうね。

石原裕次郎さんとのお付き合いを通して、渡哲也さんとも親しくさせていただきましたが、渡さんも残念ながら他界されてしまいました。
天国でボスの裕次郎さんとまた仲良く語り合いをしているのが目に浮かびます。

※次回は「五木ひろしが語る〜〜昭和歌謡史(8)」をお届けします。

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