能楽師・観世清和「学習院初等科で天皇陛下と同級生。御所の庭で野球をしたことも。〈パイロットになりたい〉の作文は、能の師匠である父への密かな抵抗」

2024年2月19日(月)12時30分 婦人公論.jp


「当時、野球ブームで、宮様が『観世君、ちょっとみんなを集めて放課後に御所で野球しない?』って」(撮影=岡本隆史)

演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは——。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第25回は能楽師の観世清和さん。学習院初等科で天皇陛下と同級だったという観世さん。東宮御所の庭で野球をしたこともあったと思い出を語ります。幼い頃から父親の指導の下、能の稽古に励んでいた観世さん。中学2年の時に「今日から大人の稽古をするから」と言われたそうで——(撮影=岡本隆史)

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天皇陛下と放課後に野球を


室町時代に能楽を大成させた観阿弥・世阿弥の子孫として二十六世観世宗家を継承している観世流宗家、観世清和師。その凜として品格のある舞台姿からはとても近寄りがたい気がするが、お会いするとすぐに心を開いて親しくご対応くださった。まずは学習院初等科で天皇陛下と同級だった話題から。

——そうなのです。初等科1年生の時から東、中、西とあるクラスのうちの中組で、同級生でした。宮様は徳仁(なるひと)親王で、私は観世ですから、五十音順で教室の席が決まる本来ならばお席が離れるのに、「君はお能の家の子で声がよく通るから後ろの席、宮様のそばへ行きなさい」と先生に言われましてね。

他にもやはり観世流の関根祥人君や、宝生流の金井雄資君、和泉流の野村万之丞君もおりまして、なぜか能楽チームが宮様の学友でした。当時、野球ブームで、宮様が「観世君、ちょっとみんなを集めて放課後に御所で野球しない?」って。

東宮御所は、四谷にある学習院初等科から権田原の坂を下ってすぐなのですよね。御所のお庭にはしっかりホームベースもあり、軟球ですが楽しかったです。しかし私は放課後に能の稽古があるので、毎回は伺えない。宮様もそのうち、私を誘おうと一瞬顔を見て、「あ、君はお稽古だよね」。わかってくださっていました。

また、高学年になったある時には、宮様が突然、「時雨を急ぐ〜紅葉狩〜。次、何だっけ?」と、謡曲『紅葉狩』の冒頭をお謡いになられた。びっくりし、「お稽古されてるのですか?」って伺ったら、ちょっと笑って、「ウン」とも「まぁ」とも曖昧にお答えになられました。あの時のことはよく憶えています。

中等科からは目白に移り、宮様は歴史のクラブに入部され、またオーケストラでヴィオラを演奏されるなど、野球のお誘いはなかったですね。でもここ銀座に観世能楽堂を移転させる前にございました、渋谷区松濤の観世能楽堂の当時の舞台開きにはお出ましいただきました。

伝統芸能の名家に生まれた子息は、一度はそのレールに乗ることに疑問を持つらしい。やはり御多分にもれず、小学校高学年の時の作文に、「将来は日航のパイロットになりたい。でもやはり難しそうなので、能楽の道へ」と書いたとか。

——あれは父に対する秘かな抵抗……と今では思います。能の家に生まれ、父が師匠。それで、お能が好きだから能楽師にはなりますが、パイロットになりたいという秘かな夢もあるんだぞ、ということを言いたかったのでしょうね。

うちの父は少し変わったところのある人でした。早くに父親を亡くして、八歳で家元を継承しました。当時は成城学園に通っておりましたが、担任の先生が、「このまま家元として大きくなっては人生の勉強が足りない。うちに住み込みの書生として来て、そこから通学しなさい」とおっしゃって、1年と3ヵ月、書生を体験したそうです。

朝食の支度の手伝いから風呂掃除、先生の着替えのお世話とか。そのことは父がかなり晩年になってから聞きましたが、「あの体験は私の宝だよ」と言っておりました。

いろんな思いがあったんでしょうね。何か思いつくと、「ちょっと書斎に来なさい」と呼ばれるのです。そこでたとえば、「お前、学校へ行く大切さがわかるか」と問われる。「勉強することでしょ」「いや、一番大切なのは友達を作ることだよ。これからの人生、周りは全部能楽師になるのだぞ。だからいろんな友達を作って、大切にして長くつきあいなさい」とね。

また、父は一家団欒ということも気に掛けてはいるのですが、食事の時も明日の舞台のことを考えていて、私が何かしゃべると「清和、黙って食べなさい」とぴしゃり。しかし子供の発言を遮ったバツの悪さもあるのか、突然「はい、どうぞ」なんてね(笑)。急に言われてもしゃべれないでしょ。やはり変わった人だったのかな、と今は思います。

「息は盗んでも罪にはならない」


中学2年の時、その父親である師匠から突然、ある申し渡しがあったという。それが第1の転機となる。

——そうですね。四歳で『鞍馬天狗』の「花見」で初舞台。それからはずっと手取り足取りの稽古で、いわば身体で教えてくれていたのですよ。それが中学2年の終わりごろ、父が「今日から大人の稽古をするから」と。

どう変わったかと言うと、「はい、『羽衣』の呼びかけを」と言われれば、天女の出の「のう、その衣はこなたのにて候」というところから始める。父は座ったまま、「のう、はもっと張って」と言ってくれますが、最後の「霞に紛れて失せにけり」までずっと私ひとりで通す。終わると、「あそこはこういう気持ちだから、こういうふうに謡うのだ」と。

それまではもっと上に飛び上がれとか、肉体的な形の稽古でしたが、精神論的な心の稽古に変わった。これはいきなりでしたから、やはりショックでした。一生自分はこれでやってゆくのかという、少し不安な気持ちになりましたので、やはりこれが最初の転機でしょう。


83年に観阿弥600年祖先祭能で初演した『道成寺』(写真提供◎観世宗家)

第2の転機となるのは、シテ方能楽師に共通して言える大曲『道成寺』の初演、ではないだろうか。

——はい。23歳の時でした。これで大人の能役者の仲間入り、とも言える曲でもあるのです。これを演らせていただけることはものすごく嬉しい。舞い終えたあと、他の曲にない充実感があるのです。

あの時、簡単な打ち上げで飲んだビールの最初のひと口目。美酒に酔うとはこのことかと思いましたね、偉そうに。(笑)

まぁ、この曲の初演までは山あり谷ありの道のりでしたから。たとえば「乱拍子」は、白拍子が鐘を目指して寺の石段を一段一段登る様子を特殊な足遣いで舞いますが、これは小鼓方と一対一で、真剣勝負のような稽古を重ねるのです。

その時は小鼓の先生の《息を盗む》わけですよ。父はやはり心配だったんでしょう。「息は盗んでも罪にはならないのだから、しっかり盗めよ」とね。

先日、息子の三郎太が『道成寺』を初演しましたが、その稽古の時、いつの間にか自分が父と同じ言葉を息子に掛けていて、何か胸に迫るものがありました。

<後編につづく>

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