ビリー・バンバンが『徹子の部屋』に登場。昭和歌謡の秘話を語る。弟・菅原進「盲腸がんに左半身麻痺、全て乗り越え、90代の兄弟デュオを目指す」

2024年2月20日(火)11時30分 婦人公論.jp


「孝はプロになるつもりはなかったようですが、デビューの話が持ち上がったとき、浜口先生が〈兄弟2人〉で組んだほうがいいと」(撮影:宮崎貢司)

2024年2月20日放送の『徹子の部屋』は、今、巷で再注目されている《昭和歌謡》にまつわるトークを特集。ビリー・バンバンも登場し、兄弟で歌うことになった結成秘話を語ります。今回は、弟の菅原進さんに、解散の真相や再結成の思いなど、2人の軌跡を聞いた、『婦人公論』2023年2月号の記事を再配信します。
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1969年、兄弟フォークデュオ「ビリー・バンバン」としてデビューした、菅原孝さんと菅原進さん。「白いブランコ」などが大ヒットし一躍フォーク界を代表する存在に。一度解散するも、再結成後はライブ公演や楽曲提供など息の長い活躍を続けている。いくつかの危機を乗り越えてきた2人の軌跡を、弟の進さんが語る(構成=村瀬素子 撮影=宮崎貢司)

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母の歌声、そして、もう一人の兄の存在


——デビューして54年。兄弟でこんなに長く歌い続けられるとは思いませんでしたね。

ステージを観てくださった方によく言われるんです、2人のトークが掛け合い漫才みたいでおもしろいと。兄の孝がしゃべりまくるから、僕は話をふられたら返すだけですけれど。兄が「なんだよ、まったく! お前の親の顔が見たいよ」と言えば、僕が「同じ親だろ!」ってね。これが鉄板ネタです。(笑)

僕らが音楽の道に進んだのは、母の影響が大きいですね。母は女学校時代に歌のコンクールで優勝したこともあるほどきれいな声の持ち主で、いつも台所で歌を口ずさんでいました。父は都庁に勤める役人で、こちらは音痴でねぇ(笑)。ありがたいことに、僕らは母に似たんです。

じつは、うちは3人きょうだい。孝の上にも兄がいました(享年53)。長兄は体が弱くて小さかったため、同級生にいじめられてね。それを次兄の孝が助けに行くんです。僕は「お兄さん、これ使いなよ」と棒を渡したりして。幼いながらも協力して長兄を守っていました。

そういう事情で、孝が長男の役割を務めていた感じです。孝は真面目で勉強もできる優等生。一方、末っ子の僕はのびのびと育ち、木登りしたり走り回ったり。幼い頃、きょうだいでピアノを習ったのですが、僕は手に土がついたまま稽古に行き、先生宅のピアノの鍵盤を黒くして怒られたのを覚えています。

中学生になると、僕はアメリカンポップスにハマりました。デル・シャノンの「悲しき街角」とか、ポール・アンカ、ニール・セダカなど……。母に小遣いをもらっては吉祥寺のレコード店へ。友だちとバンドを組み、我流で作曲もして、将来は音楽の道に進もうと決めていました。高校2年のとき、父の友人の伝手で、作曲家の浜口庫之助先生の門下生に。兄と一緒に先生の教室で歌と作曲を学んだのです。

その後、孝は慶應義塾大学へ進み、僕は青山学院大学へ。僕は友人とバンドを組んで没頭、アマチュアながらコンサートは超満員になるほど人気がありました。1967年にギターの僕と、コントラバスの孝、パーカッションのムッシュ中野(せんだみつおさん)の3人のバンドに。

孝はプロになるつもりはなかったようですが、デビューの話が持ち上がったとき、浜口先生が「兄弟2人」で組んだほうがいいと。声が似ているので絶妙なハーモニーが生まれることを見抜いてくださったんです。


ビリー・バンバンとして54年。3歳年上の兄・菅原孝さん(右)と、菅原進さん。「僕らの癒やし系のハーモニーが、時代を超えて皆さんに愛されていて嬉しいです」と進さん(写真提供:ハブ・マーシー)

解散後は酒浸りに。救ってくれた母の言葉


在学中の69年「白いブランコ」でデビュー。72年「さよならをするために」が80万枚を売り上げ、『NHK紅白歌合戦』にも出場。フォーク・ブームに乗り人気を博した。76年に解散し、孝さんと進さんは別々の道を歩む。

——デビューして数年間は、雨で中止の日以外、365日コンサートでした。僕らは学生だったし、マネージャーもアマチュアの頃からの仲間。九州でコンサートをした翌日に北海道、なんて無茶なスケジュールを入れちゃうから夜行列車で移動しましたよ。1日に学園祭3つ掛け持ちはあたりまえ。若さと体力があったから忙しいなかでも楽しかった。

兄(以下・孝)とはもともと音楽の趣味や考え方が違っていました。僕は音楽一筋。兄は学問も好きで、ほかの仕事をしても成功していたと思う。毎日一緒にいると、ちょっとした違和感が徐々に膨らんでいき、「解散しよう」と。

ただ、解散の〈真相〉に関してはどうもお互いの見解が食い違っていて。兄は「弟が『アメリカに進出したい』と言うから解散した」と。僕は「いや、そんなことは言ってない!」。これ、今でもモメています。(笑)

解散後、兄は語りの才能を生かして、司会業などタレントとして活躍。一方、音楽にこだわる僕に仕事は来ず、友だちと酒を飲んでばかりいた。音楽の勉強のためアメリカ行きも考えたけれど結局実行せず。だらしないよね。今思うと海外に行ってたら、ビリー・バンバンの再結成もなかったでしょう。行かなくてよかったのかなとも思う。

当時は、そんな状態だから夫婦関係もよくありませんでした。ある日、妻に決定的なことを言われて。「もう音楽はやめてほかの仕事をしたら」と。音楽しかない僕には酷な言葉です。今なら幼子を抱えて不安だった妻の気持ちもわかりますが、結局、それがきっかけで離婚しました。

その頃は喘息の発作が出て歌うこともできず、どん底の日々。そこに手を差し伸べてくれたのが兄、正しくは、おふくろです。「進が喘息で苦しんでいるから、孝、見に行って助けてあげて」と母が兄に伝えたのです。


「正直、『ビリー・バンバンは終わった。もう二度とステージに立てないだろう』と思いました」

解散後は、兄と疎遠になることもなく家族ぐるみで会っていました。ただお互いに仕事の話には触れず。でも、僕の体調を心配して訪ねてきた兄は、僕に「再結成しよう」と言ったんです。1日だけのイベント出演と言われたけど、自分から解散を申し出た手前、即答できなかった。

しばらく考えて僕から「よろしく」と頭を下げました。兄は度量が大きい人だから、何も言わず僕を受け入れてくれた。8年ぶりに2人で歌ったのですが、これが何の苦労もなくぴったりハモって。こうして84年に再結成。「自分の居場所はやはりここだ」と素直に思えました。母はビリー・バンバンの一番のファンだから、喜んでくれて嬉しかったです。

がんに脳出血……あきらめかけたが


再結成後、87年から焼酎「いいちこ」のCM曲で話題に。順調に歩み始めたが、孝さんは当時の事務所社長の連帯保証人だったため借金を被った。2014年にはともに大病を患う。

——毎月それなりの金額を返済して、悔しかったと思う。家族のために使うならともかく、赤の他人の尻ぬぐいだからね。でも、厳しいことを言うようだけど自分で責任をとるしかない。僕自身も放蕩に離婚……いろんなことをしてきましたからね、自分にもそう言い聞かせてきました。

病気になったのは僕が先です。2014年5月、検査で盲腸にがんが見つかったらステージIIIまで進行していました。開腹手術の前に息子たちが来てくれて、これで最後かもと思いましたが、幸い手術は成功。兄が脳出血に倒れたのは、その2ヵ月後です。

当時、兄は仕事のあと、ひとり暮らしの母の家に行き、身の回りの世話をしていました。ある夜、兄がトイレで倒れているのを母が発見。僕に電話してきたからすぐ救急車を呼んだ。命は助かったものの、左半身に麻痺が残りました。

不思議だよね、2人一緒に重病になっちゃって。お互いを見舞って「早く元気になれよ」と励まし合ったけど、正直、「ビリー・バンバンは終わった。もう二度とステージに立てないだろう」と思いました。

でもね、奇跡的に復活できたんです。僕は、手術後回復し、再発もありません。兄はもともと負けず嫌いで努力家。リハビリも頑張りました。杖を使って自宅の廊下を10往復とか、麻痺した左足を固定して右足で自転車漕ぎ10キロとか、リハビリの先生に言われた以上に負荷をかけてトレーニングするんです。自分が決めた目標は絶対達成する。昔から変わらない、兄のそういう姿勢は尊敬します。

兄の体調もよくなって、約1年後の15年6月に山梨県で行われたフォークコンサートで復活を果たしました。兄は車椅子に座っての歌唱ですが、温かい拍手を浴びて感無量でした。その後、東京・立川でのコンサートには母も来てくれて。僕らの出番が終わって客席の母のところに行くと、笑顔で「よかったよ、本当によくできたよ」って、言葉はそれだけ。

母はね、僕らがいいときも悪いときも、顔を見れば心の中がわかるから、余計なことは言わない。それが母の愛なんだと思う。母は16年に96歳で亡くなりました。大往生だけど、僕らの病気で延期になっていた、45周年のコンサートも見てほしかったな。

目指すは、90代の兄弟デュオ


——印象に残っている兄の言葉ですか? お互い、昔っから余計なことは言わないからなあ(笑)。あ、そうだ、ひとつ思い出した。何かの取材のとき、兄がぽろっと口にしたんです。「進は一番歌がうまいからな」って。

面と向かって褒められたことなんかないからね。ちゃんと僕のことを認めてくれているのだと胸が熱くなりました。僕が兄をどう思っているかというと、そうだな、一言で言えば、尊敬しています。今日は本人がいないから素直に言えるね。(笑)

兄のことは昔から「お兄さん」と呼んでいます。今だに口ゲンカはしますよ。今年で兄は79歳、僕は76歳。2人とも孫がいるいい年なのに(笑)。ケンカの理由は思い出せないくらい些細なこと。まぁ、お互いに理解して心が通じ合っているから、好き勝手言えるんでしょう。

昨年公開された『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』では、挿入歌を任されました。僕が作曲し、2人で歌ったのが「ココロありがとう」。ケンカしながらも仲がいい僕らの〈兄弟愛〉が、作品のテーマとリンクするということでオファーをいただいたようです。全国の子どもたちに僕らの歌声を届けることができて光栄でした。孫にも自慢できましたし。(笑)

数年前からYouTubeを開設して、ビリー・バンバンの菅原進として新しいことに挑戦しています。たとえば、Adoさんの「うっせぇわ」をカバーさせていただき、ビリー・バンバンふうに僕が歌う動画をアップしました。映像も、笑いとペーソスを交えたチャップリンの短編映画のようだと好評で、再生回数は117万回以上というから驚きです。

僕のサウンドでゆっくり歌っているので、「うるさくない、『うっせぇわ』(笑)」「菅原さんが歌うと抒情詩」というコメントも。若い人が僕の歌で盛り上がってくれるのは嬉しい。

今も兄はリハビリを頑張っています。来年は55周年ですし、もちろんまた一緒にステージに立ちたい。僕らの目標は、90歳になっても2人で歌うことです。昔の声とは違うけど、年齢なりの味わいがあるはずだから。90代の兄弟デュオ、実現できたらかっこいいなと思っています。

婦人公論.jp

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