本郷和人『べらぼう』「日本橋は元は吉原のあったところ」「こちとら天下御免」と言い放った忘八。幕府公認遊郭が日本橋に作られたのっぴきならない理由とは…家康進出からの吉原の歴史
2025年2月27日(木)17時34分 婦人公論.jp
(イラスト:stock.adobe.com)
日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物“蔦重”こと蔦屋重三郎の生涯を描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ドラマが展開していく中、江戸時代の暮らしや社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「吉原」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
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ドラマの舞台“吉原”とは
前回のエピソードでは、蔦重が手掛けた吉原細見『籬の花』が評判となったことで吉原が大いににぎわいました。その結果、小芝風花さん演じる瀬川は客をさばききれず、他の女郎たちが相手をする始末までに。
その状況を見て、蔦重が一喜一憂する中、瀬川の新たな客として盲目の大富豪、鳥山検校(市原隼人さん)が現れます。
次回は「身請け」の話のようなので、この先の瀬川と蔦重がどうなるか気になって仕方ありませんが…。
今回はドラマの舞台である、吉原についてあらためて記したいと思います。
江戸を一から作った家康
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を討伐し、さらに伊達政宗など奥州諸家を屈服させて天下統一を果たしました。そして北条氏が治めていた広大な関東の地には、徳川家康が移ってきます。
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その家康は江戸を本拠とし、新しい領国づくりに励むことに。
家康がやってくる以前から、江戸はなかなか立派な町だった、なんていう人がいますが、これはウソ。
だいたい、北条氏は江戸を重視していませんし、当時の武蔵の中心は河越です。また、鎌倉から北に延びて府中や川越を通り、高崎に抜けていく鎌倉街道が交通のメイン。
家康は江戸を一から作った、と言って間違いではない。
何もないところに町をつくるということ
家康はおおぜいの家臣団を連れて江戸に入った。そのため江戸の都市機能は、急ぎ整備されていくことになります。
ほとんど何もないところに町をつくる。
人口減少でインフラにお金もかけにくい現代からすると、なかなか無茶なようにも感じますが、当時はこういうことがしばしばあった。
その一番良い例は、秀吉が作った肥前・名護屋でしょうか。
朝鮮出兵のため、極めて短期間に人口10万人の都市ができあがりました。
江戸で所帯を持てる男はエリートだった
江戸には関東一円から工事の仕事を求めて、人がやって来ました。京や上方からは商人が。職にあぶれた浪人も集まってくる。
こうして江戸は急速に拡大していくのですが、問題は住人の男女比です。
江戸中期でさえ、男性2、女性1の割合だったと言うことですので、初期には男性比率はもっとずっと高かったはず。
つまり、江戸で所帯を持てる男は少数であり、それだけでエリート。
一方、独身男が多いとどうなるか。
外食産業が盛んになり、遊女屋も繁盛していくことになります。
「遊郭設置」の陳情
関ヶ原の戦いが終わって江戸に武家政権が作られるようになると、江戸の町の整備は更に加速して進められます。そして武家屋敷や寺社を設けるために、遊女屋などはしばしば移転を強要されました。
そのため、遊女屋の主たちは相談し、遊郭の設置を幕府に求めます。陳情は数度に及びましたが、なかなか受理されませんでした。
しかし、ついに慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(甚内とも。元は駿府の娼家の主人)を代表として陳情した際に、願いが受理されたのです。
そして受理から5年、大坂の陣で豊臣氏が滅びた後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊廓「葭原」の設置が許可されました。
その際、幕府は、江戸市中には遊女屋を他に一切置かないこと、遊女屋の建物や遊女の衣服は華美でないものとすることを申し渡しました。
つまり、葭原=吉原以外での遊女の活動は違法である、ということです。
ヨシが茂っていたから「吉原」
けれども実際は、江戸の町には吉原以外にも多くの遊女屋が営業することに。
そうした店が集まったところは岡場所と呼ばれました。岡場所は市ヶ谷、谷中、根津、赤坂、高井戸、回向院前など、色々な場所にできていきます。
品川・内藤新宿・板橋・千住の四宿は色町としても有名ですが、ここにいた遊女は宿場の奉公人の扱いで、半ば公認の存在でした。
規模を把握するべく、1772年にお上によって上限とされた人数を見ていくと、千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人となっています。実際にはこれ以上の遊女がいたのでしょう。
なお当初、幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりに該当します。
江戸湾海岸に近くヨシが茂っていたそうで、「吉原」の名はここから来ています。
ドラマの中で地本問屋のリーダー・鶴屋に対し、伊藤淳史さん演じる大文字屋が「てめえらののさばってる日本橋は、元は吉原のあったとこじゃねえか」、安達祐実さん演じる大黒屋のりつが「こちとら天下御免ですけどねえ」と言っていましたが、このあたりの背景を知っておくと、ドラマがより深く楽しめるかもしれません。
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