林家正蔵さんが『徹子の部屋』に登場。三世代同居を語る。母・海老名香葉子「林家正蔵、三平、美どり、泰葉…4人の子と落語家一門を育て上げ」

2024年2月28日(水)11時0分 婦人公論.jp


「私は嫁がうちに来てくれるとき、『私の片腕になってほしい』と思いました。いまや嫁が2人いるから、両腕そろったわね。(笑)」(撮影:宮崎貢司)

2024年2月28日の『徹子の部屋』に落語家の林家正蔵さんが登場。今年で結婚40年を迎えるるという正蔵さん。三世代同居での心得や円満の秘訣を語ります。そこで、今回は林家正蔵さんの母・海老名香葉子さんが、2人の息子の妻への信頼や、これまでの人生について語った『婦人公論』2021年4月13日号の記事を再配信します。
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落語家・初代林家三平さんの妻として、4人の母として、おかみとして、多くの人と深い人間関係を築きながら、さまざまな人生の転機を乗り越えてきた海老名香葉子さん。「情の貯蓄もしましょうね」と話す、その意味とは──(構成=山田真理 撮影=宮崎貢司)

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100年もののぬか床を嫁にお任せして


今日はようこそおいでくださいました。まずは一服なさってくださいね。いまお茶を出したのが、次男(二代目林家三平さん)の嫁のさっちゃん(女優の国分佐智子さん)です。次男一家はすぐ近くに住んでいて、こうして私にお客様があるときは手伝いに来てくれるの。あとは週に1回、この家の書斎と洗面所、廊下、私の部屋の掃除をしてくれます。

さっちゃんは海外で暮らしていたこともあったから、こういう東京・下町の《江戸っ子》暮らしはびっくりすることも多かったと思います。「女優さんなので、落語家の家になじめるかしら」と心配もしましたが、意外と表に出るより裏方が性に合っていたようで。細かい仕事をこつこつきちんとこなしてくれる働き者です。

私が同居しているのは、長男(九代目林家正蔵さん)夫婦と孫3人。正蔵の嫁のゆっ子ちゃん(有希子さん)が家事はもちろん、お弟子の面倒や仕事関係のお付き合いまで「おかみ」としての務めをやってくれています。私は2、3年前から台所に立たなくなりましたし、100年もののぬか床もお任せしました。

ゆっ子ちゃんは、次女・泰葉の同級生の従妹だったんですよ。遊びに来ると「おばさま、ごきげんよう」と可愛らしく挨拶してくれるから、「なんておとなしくていい子なの」と思っていました。それがいまでは、私の主催してきた東京大空襲の行事「時忘れじの集い」で50人近い弟子たちをたばねて、「何やってんの、右よ右!」って。正蔵襲名のときに、石原軍団の専務さんにも「さすがの仕切りだ」とお褒めいただいたくらい、頑張ってくれていました。

うちは落語家という商売を先代から継いでいる家だから、当人たちの頑張りはもちろん、それを支える嫁姑がちゃんとしてないとダメ。そこの関係がぎくしゃくしていたら、家の中がまとまりつかないじゃないですか。私は嫁がうちに来てくれるとき、「私の片腕になってほしい」と思いました。戦力というと厳しい言い方になるかもしれないけれど、一緒に家を守ってくれる人がほしかった。いまや嫁が2人いるから、両腕そろったわね。(笑)

弱音を吐けると気持ちが楽になる


いまの私は、嫁たちがいなかったらとても生きていかれません。美どりと泰葉という娘が2人いるけれど、嫁のほうがいい。嫁がいちばんです。娘たちはそれぞれ20代で家を出ましたけど、ゆっ子ちゃんがお嫁に来てくれて37年。娘と暮らした年月より、嫁と過ごした時間のほうが長いのですもの。さっちゃんも結婚してしばらくは同居しましたし、嫁同士も仲良しなのがうちの自慢ね。

昨日も、さっちゃんが焼きたてのクロワッサンを「お母さん、食べますか」と持って来てくれました。でもポロポロこぼれるもんだから、「私、こういうの嫌いなのよ。あんぱんみたいに食べやすいパンがいいわ」と言ったの。そしたらゆっ子ちゃんが「お母さんは口が悪いから。さっちゃん、ごめんなさいね」ってすかさず謝ってくれて。

ゆっ子ちゃんは毎日、料理の本など見ながら一所懸命に食事を作ってくれます。でも私、美味しいまずいもはっきり言うの(笑)。嫁も「そんなはずないですよ!」って言い返すし。そうして言いたいことを腹や胸にためないでぽんぽん言い合えるのも、情が通った間柄だからでしょう。

この歳になると、毎日どっかしら痛かったり痒かったり、調子が悪くなるものです。私の姑も80歳を過ぎた頃から、「香葉子、腰が痛いのよ」「頭がふらふらするの」って、毎朝必ず言ってきたものです。当時は内弟子が大勢いて、朝ごはんの支度だけでもてんてこまい。

でもハイハイと話を聞いて、「後で一緒にお医者さんへ行きましょう」と答えれば、姑も安心してくれる。私もいま、同じことを嫁に言っては、「お母さん、ちょっと待ってください」と答えてもらうと何だか少しほっとします。弱音を吐ける相手がいるというだけで、気持ちが楽になるんですね。

ですから私が今後もし寝付いて、お尻の始末をしてもらうようになっても、嫁にだったら頼めます。娘でも平気ですけれど、でも嫁がいちばんって思います。

二人の娘——美どりと泰葉との距離感


私は新聞の身の上相談をやっていましたから、「歳をとったら、やはり頼りになるのは実の娘だ」と考える人がいるのも知っています。むしろ、血のつながらない嫁ではなく、気心が知れた娘にあれこれ頼みたいという人のほうが多いかもしれません。

でも私は「ちょっと具合が悪いから来て」と呼び出してまで、娘の世話になりたいとは思いません。毎日の生活を支えてくれているのは嫁なのに、「頼りになるのは娘だ」みたいな態度をとられたら、嫁も嫌な気持ちがするじゃない。

それに長女の美どりは向こう(峰竜太さん)との家庭がありますし、幸せに暮らしてくれればいい。泰葉は療養中ですから、生活をちゃんとしてくれればいい。2人とも60を過ぎたいま、彼女たちの人生にうるさく口は出しませんし、同様に、実家のことで気をわずらわせる必要もないと思っています。

とはいえ、電話をときどきくれます。別に用はないのだけど、「お母さん、何してる?」「あなたはどう?」なんてね。美どりは先日誕生日だったので、「私が一所懸命産んだんだから、しっかりやんなさいよ」ってちょうど言ったところ。

そうして電話ではしょっちゅう話していても、娘たちは普段の私の生活までは知りません。だから、私が最近めっきり出不精になって外へ出なくなっているのに、誕生日に高価なハンドバッグが届いたり(笑)、「こんな派手なセーターを着ていくところなんてないわ」なんてことも。

あんまり私が「あれも嫌だ、これもいらない」と言うものだから、美どりには「お母さんにプレゼントしても張り合いがない」と嘆かれています。でもしょうがないのよ、江戸っ子は言いたいことを腹にためておけないんだから。向こうもそうですが。

おかみの仕事第一で子育ては二の次だった


私は東京大空襲で、兄をのぞいて家族全員を亡くしました。和竿づくりの名人だった父との縁で、三代目の三遊亭金馬師匠の家にご厄介になり、その家に姑が出入りしていたことから、夫(初代林家三平さん)と結婚することになりました。

長女の美どりが2歳を過ぎた頃から夫は一気にテレビの人気者となり、お弟子も増え、私は姑とともにおかみの仕事に邁進してきました。それと並行して、上から下まで17歳離れた子ども4人を育ててきたのです。

ですから子どもの同級生のお母さんには、「海老名さんはPTAに1回も出てこなかったわね」といまでも言われてしまうの(笑)。運動会などの行事も、ほとんど姑に行ってもらっていて、子どもたちもそれが当たり前と思っていたようです。

夫は女の子に優しかったから、娘たちは父親っ子。「男子厨房に入らず」の世代で家のことは何もできない人でしたけれど、子どもだけは可愛がって、目に入れても痛くないと言っていました。

長男の正蔵は、小さい頃からとにかくイタズラがひどくて。「プロレスラーになりたい」と裸で大暴れするような子で、ときにはお尻を叩いたり、手をぴんぴんとしたり。言葉でっても、まるで効き目がありませんでした。結婚前にも、あんまり夜遅くまで遊んでくるものだから、玄関でゲンコをおみまいしたことがありましたっけ。(笑)

一方で次男の三平は、言葉で説明すると「わかったあ」と言って、次からはもうしない。小学校4年生で父親を病気で亡くしてからは、よりしっかりとした性格になりました。昔から親思いで、嫁にも「泰ちゃん(本名・泰助)は本当に孝行息子ですね」と言われるくらい優しい子です。

家では「おふくろ」、外へ出れば「おかみさん」


娘たちはいずれ家を出るものと思っていましたが、正蔵は15歳で父親の弟子になり、三平も大学生の時に夫の弟子のこん平(故・林家こん平さん)に入門して噺家になりました。そうなると、家では「おふくろ」でも、一歩外へ出れば「おかみさん」。私も、ほかのお弟子と同じような気持ちで接してきました。

いま、正蔵は古典一筋に勉強を重ね、落語協会の副会長としてよく務めています。三平も『笑点』のレギュラーをはじめ、いろいろな番組で皆さんに可愛がっていただいています。

親子でもきょうだいでも個性が違うのですから、昭和の爆笑王と呼ばれた父親の背中を無理して追う必要もないでしょう。それぞれいい大人なのに、いつまでも父親と比べられるのはちょっとかわいそうと思っています。

真面目な三平などは「僕にはまだ足りないところがある」なんて申しますし、まあもうちょっと八方破れにできればいいかなと思うこともありますけど。「きみはきみの道で一所懸命やればいいじゃない」と言いながら、ときどきダメ出しもしています。

こん平の家族と笑いあうほど、いい最期だった


子育ての話をしてふと胸をよぎるのが、2020年末に亡くなったこん平のことです。15歳で田舎から出てきた当時は、いつも私にぴったりくっついて。「こん平」って名前も私が付けたんですよ。39歳で真打昇進を決めたとき、お披露目の準備に追われた私が心筋梗塞で倒れたこともありました。

こん平は16年ほど患っていて、いよいよ危ないと連絡を受けて自宅へ駆けつけたときのことです。家族やお世話になった方々がベッドを囲んで話しかけますが、フンでもなければスンでもない。

それで私ね、「何やってんの、しっかりしなさい! 私は心筋梗塞で死にかけたって、87歳のいまも働いてんのよ!」ってってやったの。そしたら急に私の手をぎゅーっと握って離さない。「何か言いたいなら手をあげて」と言ったら、もう片方の手をすーっとね。後で「一緒に連れてかれるかと思った」とこん平の家族と笑いあうほど、本当にいい最期でした。

それがね、人の情ってものですよ。血がつながっていてもいなくても、同じ家で同じ生活をして、互いに思いあっていれば家族になれる、情が通う。歳をとるまでに多少のお金を貯めるのもいいけれど、「情の貯蓄もしましょうね」って私はよく言うんです。

87歳になったいま、私はいちばん幸せです。11歳で孤児になって、それからずっと働きっぱなしの人生。でもいまは、たくさんの人の情に助けられて笑顔で過ごしていられるのが、何より嬉しい。みんなに感謝──特に嫁たちに感謝しながら(笑)、戦争の悲しみの体験と、今日の平和の大切さを伝えていきたいと思っています。

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