『徹子の部屋』に女優・丘みつ子さんが登場。日課の運動を伝授「築83年の古民家暮らし。床張り、白アリ退治も夫婦2人で」

2024年3月4日(月)12時25分 婦人公論.jp


リビングのアクセントにしているのは、御殿場の染物店で求めた藍の暖簾。お客様を迎える扉がわりに(撮影:本社写真部)

2024年3月4日放送の『徹子の部屋』に丘みつ子さんが登場。43年前の結婚式の映像や、似たもの夫婦だという夫婦の生活について語ります。今回は築80年以上の古民家へ引っ越した理由や、リフォームの楽しさを語った『婦人公論』2021年3月9日号の記事を再配信します。
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陶芸を続けて約40年、個展もたびたび開いてきた女優の丘みつ子さん。自前の窯を持つべく神奈川県・箱根に居を構えましたが、思うところあって、いまは小田原へ。そこには、丘さんによって新たな命を吹き込まれたモノがたくさんありました(構成=丸山あかね 撮影=本社写真部)

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長年温めていた夢が叶った


この住まいは、今年で築83年。4年前、一目惚れで購入した家です。家も人間関係と同じで、ご縁があって出合うもの。「こういう家が欲しい」と具体的に思い描けば、引き寄せられるのだという気がします。

私は長年、「いつか蔵のある古民家に暮らしたい」と考えていました。夫婦で取り組んできた陶芸作品を蔵に収めて、ちょっとしたギャラリーにできたら……と夢を温めていたのです。

そんなある日、行きつけの美容院でたまたま隣に座っていた方が不動産屋さんだとわかり、「実は蔵つきの古民家を探しているの」と打ち明けました。古民家はなかなか不動産市場に出てきませんから、本当に軽い気持ちで。そうしたら、ほどなくして「小田原に一軒ありましたよ」と連絡をいただいたのです。


2020年の暮れに丘さん夫婦が箱根で作陶した壺。大人一人でなんとか抱えられるほどの大作だ

家造りの知識が豊富な、頼もしい相棒


さっそく見学に行くと、蔵つき、平屋で3LDKという広さの申し分のない家。元は旅館の女将さんが暮らしていたそうで、柱や梁、建具などの造りもしっかりしていました。「この家しかない!」と直感が働き、夫も賛成してくれたのでその場で即決。考えてみると私はいつもそうですね。20歳でスカウトされて女優になったときも、33歳で同い年の夫と結婚したときも。直感に従ってうまくいったことばかり。

すんなり購入に至ったものの、なにしろ1930年代に建てられた家ですから、大幅に改修する必要がありました。当初は1年くらいで改築できるかな、と思っていたのですが、甘かった。とりあえず暮らせる状態にするまでに1年半かかり、今も次々と出てくる不具合と格闘中です。

でも最近はキリがないなと思い始めています。古民家の暮らしに「パーフェクト」を求めること自体が間違っていたのよね。使い勝手のいい家を求めるのならば、新築すればいい。でも私たち夫婦は、すでにできているものではなくて、自らの力で作っていく過程を楽しみたいと思っていたわけですから。むしろこの家はうってつけなのです。

かつて工務店を営んでいた友人たちに内装を手伝ってもらいながら、夫と2人で改築しました。飛行機のパイロットだった夫は、数学を学ぶためにアメリカに留学していたとき、現地の人が納屋を移築する手伝いをしていた人。家造りの知識が豊富で手先も器用な、頼もしい相棒なのです。当時住んでいた箱根の家から、車で片道40分かけて週に5日通い、コツコツと手を入れていきました。

白アリ退治に床張りも自分たちで


改修するにあたって心がけたのは、「安心・安全な家」であること。まずは、家に巣くっていた白アリを退治することから始めました。夫と手分けして畳と床板をすべて引きはがし、車用のジャッキで20センチほど家を持ちあげ、朽ちた部分は取り除き、駆除剤を撒いて……。そのうえで斜めに傾いた床を水平に整えながら土台を作る。基礎からの大工事になってしまい、友人たちからは「よくそこまで自力でやったね!」と驚かれました。

現在の耐震基準を満たすように、壁は強度のある建材で作り直し、漆喰仕上げに変更。それから、断熱材を床下や壁に埋め込むなどしました。いくら古民家の暮らしが好きだといっても、この歳になると寒さと暑さへの対策は欠かせませんからね。

一番気を使ったのは、電気の配線です。古い家で火事が起こる原因は、ほぼ漏電だといいますから、天井裏の電気配線をすべて新調しました。キッチンも、ガスコンロからIHクッキングヒーターに交換。容れ物は古民家のよさを生かしつつ、防災と防寒対策を万全に施しました。

キッチンの隣の部屋のフローリングは、サクラやナラなど無垢の古材や廃材を譲り受けて、私と夫で一枚一枚張っていったもの。色や木目の出方の違いが面白く、味のある床ができあがりました。最初のほうに張った部分にはゆがみや隙間がありますが、それさえも愛おしいです。

キッチンとお風呂はそのままで


毎朝すみずみまでハタキをかけて、木肌や畳に触れると、その温かさに心がホッとゆるむ。そのたびに、「ああ、この家に住めてよかったわ」としみじみ思います。手入れをするたびにだんだん居心地がよくなっていき、愛着も増していく。手間暇はかかっても、一度、気に入った住まいで過ごす喜びを知ってしまうと、もう戻れませんね。

とはいえ、あえて目を瞑ったこともありますよ。システムキッチンに取り換えるには約200万円、バスタブを交換すると約80万円はかかると知って、「このままでいいわ」と。今も昔ながらのステンレス製の浴槽に浸かっています。経済的な理由もさることながら、まだまだ現役で使えるものを処分するなんて、と抵抗を感じたことが大きいです。

リビングと続きの部屋を合わせると約16畳と広いので、お客様がいらっしゃるときに部屋を分けて使えたらいいな、と思いました。とはいえ、障子をはめてしまうのもなんだかつまらない……。ふと思いついたのは、箱根の家で使っていた引き戸2枚をパーテーションとして再利用することです。試しに小田原の家の桟にはめてみたら、ぴったり! 思わずガッツポーズしました(笑)。昔の家は規格がほぼ統一されていますから、建具を使いまわせるんです。ほどよく空間を仕切ることができて、大満足。


箱根の家から竹編みの引き戸を運んできてはめ込んだ。上のプロペラは夫の愛機の部品

収納スペースとして新たに造った納戸の扉の取手には、お茶室で使用していた竹の結界(茶席で亭主と客の境界を示す茶道具)を使っています。モノを処分する前に踏みとどまり、「何かに使えないかしら?」と考える。そして新たな使い道を見つけだすのが、パズルをしているようでとっても楽しいのです。

どうしても処分できなかったモノ


私たち夫婦には、家造りに関してある程度の経験値がありました。東京・中目黒の一軒家から、それまで別荘として使っていた箱根の土地に移り住んだのは40代半ばのころ。すべては、私が陶芸に出合ったことから始まりました。夫も巻き込んで夢中になり、「アカマツで火をおこせる窯が欲しいね」という話になりまして。

「家も自分たちで造ろう」と言いだしたのは夫でした。約900坪の土地に生えていた250本くらいの木を伐採してブルドーザーでならし、ログハウスを建てたのです。陶芸を楽しむだけでなく、自家農園で野菜を育てたり、ミツバチを飼って蜂蜜を採ったりもしました。仕事があるときには東京に暮らす兄の家に泊まらせてもらい、都会と田舎、仕事とプライベートの間を、行ったり来たり。気ままな生活を30年ほど満喫しました。

ただ、歳を重ねるごとに、自然の中での暮らしが負担に感じられるようになってきたのです。零下17度にも及ぶ冬の寒さに耐え、農作物を荒らすイノシシなどの獣とも対峙しなくてはいけない。

夫とも、「70代になったらもう少し楽な生活に切り替えようか」と話し合うようになったのですが、転居するなら体力のあるうちがいいと考え、前倒しして68歳で実行に移しました。「いつか」「そのうち」などと言っている間に、私たちのどちらかにお迎えがこないとも限りませんからね。

内装工事が一段落した後は、箱根の家にあるモノの整理を進めていきました。敷地内に3棟建てた家から、収納がほとんどない平屋への大移動でしたから、持ち物を30分の1に減らす必要があって。家具に食器、衣類……吟味していたら未練が募るばかりなので、最後はなるべく見ないようにして、手早くゴミ袋へ入れていったのです。

大量に所有していた台本や仕事の資料は、思い切って処分。写真も10分の1くらいに減らしたでしょうか。若かりし頃の宝物ではありますが、「過去は過去。今の自分がすべて」と考えて、エイヤッとゴミ袋へ。不思議なもので、いざ捨ててみてもさみしいとは感じません。いつかはやらなければいけなかった持ち物の見直しを、60代のうちにできてよかったです。

一方で、どうしても捨てられないモノもありました。昔の襦袢や着物の質は素晴らしいものですから。コロナ禍で家にこもっていた昨年の春には、それらをせっせとマスクに作り直し、友人やご近所の方たちに差し上げたりもしました。とっても喜んでもらえたんですよ。

母の存在を感じられる家を求めて


人が理想とする家や暮らし方には、その人の価値観、あるいは人生観が表れるように思います。私が古い家にこだわるのは、子ども時分に家族と過ごした、木造の小さな一軒家が恋しいから。「母の存在を感じられるような家で暮らしたい」という思いが強いのです。


母が愛用したハタキを、先端の布を定期的に取り替えて、丘さんも大切に使っている

当時暮らしていた東京・王子は、濃い近所づきあいがあった町。幼稚園に行かなかった私は、いつも家で母との時間を過ごしていました。面倒見がよく大らかな母は、ご近所さんが家の前を通りかかれば、「ちょっとお茶でも飲んでいかない?」とよく誘っていたものです。おしゃべりをする賑やかな声や、温かな空気が客間に満ちていたことを、ハッキリと覚えています。

人に慕われ、裁縫や料理が上手だった母のような女性になりたい、と思いながら私は生きてきました。亡くなってから35年あまりが経ちますが、今でも母の「何とかなるさ」という口癖がよみがえるとともに、「母だったらどうするかしら」と考えることがあります。

箱根の家にゲストハウスを建てたのも、今の家に大人8人は余裕で座れる大きなダイニングテーブルを入れたのも、母が折に触れて「人が集まってくる家にしてね」と言っていたからです。

なにごともスピーディであることが重んじられる時代ですが、人との繋がりばかりは一朝一夕にはいきません。日頃からご近所さんとあれこれお話しして、いただきもののお裾分けをしたり、頂戴したり……この4年で、だいぶ地域との繋がりが深まったように思います。

とくに新型コロナウイルスに翻弄される生活になってからは、近くにいる人たちと繋がることの大切さ、ありがたさを痛感しました。人を介してモノや気持ちが巡っていく。これこそ、始末だと思うのです。

そして、年齢も年齢ですし、無理をすることはもうよさなければ、とも考えています。昨年末、久しぶりに箱根の窯で壺や器を焼いたのですが、夫と交代で7日間窯の火を見張るのは過酷な作業でした。そう遠くない日に、自力での窯焚きを断念せざるをえなくなるでしょう。

57歳のときには、27年間続けていたマラソンを「これ以上走ると肝臓を悪くしますから」と医師から止められて《卒業》したことがありました。女優業が多忙な時期に体を壊したことで始めたマラソンは、私にとって人生の一部になっていましたから、しばらくは諦めきれなくて……。体調を崩してしまうほど落ち込みましたね。

自分が愛していたことを手放すのは、身を切られるようにつらい。でも、未練がましく追いかけるより、「これからできること」に目を向けようと決めています。減ったぶんだけ、きっと風通しがよくなるはずですから。軽やかになった身と心で、人生をまだまだ楽しみたいんです。

越してきた時は、ここを終の棲家にするつもりでした。でも、朽ちていくモノに新たな命を吹き込む楽しさを知ってしまったので、「また家を造りたい」という気持ちがふつふつと湧いてきて。先日、「この家は人に貸して、もう一軒造らない?」と夫に言って呆れられましたが、いつか私はやり遂げてしまう気がしているの。(笑)

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