黒柳徹子 42年ぶりにトットちゃんを書いたわけ「戦争中は1日に大豆15粒、栄養失調だったことも。子ども3人を育てた母親の奮闘に感謝」

2024年3月6日(水)12時30分 婦人公論.jp


第5回野間出版文化賞の贈呈式での黒柳徹子さん(撮影◎本社 奥西義和)

国内で800万部、海外では2500万部のベストセラーとなり、多くの人々に愛される物語。その続篇を上梓した黒柳徹子さんは長年、ユニセフの親善大使として世界中の戦争や飢餓、病気などで苦しむ子どもたちを支える活動を続けています。徹子さんが変わらず抱く思いとは(構成=篠藤ゆり)

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戦争のことを書こうと決心して


42年前に出版された『窓ぎわのトットちゃん』では、トモエ学園に通っていた小学校時代のことを書きましたが、青森へ疎開するところで終わっています。

どう考えてもあれよりおもしろいものは書けないと思っていたんですけど、考えてみたら、父の出征や疎開先での経験とか、戦争中のことはぜんぜん書いていなかったんですね。

やっぱり戦争のこと、敗戦後の経験、そしてもう少し成長したトットのことを知っていただこうと思って、『続 窓ぎわのトットちゃん』を書きました。

戦争が始まってしばらくたつと、子ども心に、世の中がどんどん変わっていくのを感じました。何かを買うとき、必ず並ばなきゃいけないとか。そのうち、並んでも何しても、食料もモノも手に入らなくなる時代が来て。食べられるものが、1日に大豆15粒だけだった日々もありました。

戦争中のことを書いている途中、いろいろなことを思い出し、本当にイヤな時代だったとつくづく思いました。今も心にずっと棘みたいに刺さっているのが、小学生のころ、駅前で出征兵士を見送る人たちを見かけて、一緒になって日の丸の小旗を振って「バンザ〜イ!」と大声をあげたこと。

小旗と一緒にスルメを1切れもらえたので、お腹がすいていた私はスルメ欲しさに思わず小旗を受け取ったんです。その後も何度かバンザイをしに駅前に行ったことを、今でも後悔しています。それを私は自分の「戦争責任」だと思って今日まで生きてきたのです。


自宅の庭で父・守綱さん、母・朝さん、弟・明兒(めいじ)さんと。明兒さんは昭和19年に病没。服はすべて母のお手製(写真提供◎黒柳さん)

疎開先で母の奮闘ぶりにびっくり


1944(昭和19)年に父が出征。45年3月には東京大空襲で遠くの空が真っ赤に染まるのを見て、母は私たち3人の子どもを連れて疎開することを決めました。

以前リンゴを送ってくださったことのある青森の農家の方を頼って、突然押し掛けるような形だったけれど、受け入れてくださってね。農園のリンゴの作業小屋に住まわせてもらうようになりました。

疎開先での母の奮闘ぶりには、本当に驚きました。当たって砕けろ精神というのかしらね。最初は農協みたいなところで働いていたけれど、私が栄養失調で身体じゅうにおできができたので、タンパク質をとらせようと思ったみたい。

野菜を籠いっぱいに詰めて背負って、列車を乗り継いで八戸港に行ってね。野菜とお魚を物々交換して帰ってきて、煮魚をつくってくれるんです。私のおできはあっという間に治りました。

普段の食事は野菜入りのすいとん汁と蒸したじゃがいも。東京にいたころの大豆だけよりは恵まれていたけれど、卵や鶏肉を口にしたことはなかったです。

戦後もしばらく青森にいたんですけど、母は東京でいろいろなものを仕入れて青森で売る、いわゆる「かつぎ屋」といわれる行商をやるようになって。そのうち、音楽学校の声楽科で鍛えた喉を活かして、地元の結婚式や宴会に呼ばれて歌って、引き出物をもらってきたり。引き出物の甘いお菓子をもらえるとうれしかったわね。

母は北海道のお医者さんの娘で、お嬢様育ち。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の声楽科に通っていたころ、ヴァイオリニストだった父と出会って結婚しました。母は、父からものすごく大事にされてました。

平和な時代、父と出かけるときはすっごくおしゃれをして。父は新交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートマスターをしていて、母は父が出るコンサートがあると、それはきれいにして出かけるの。

その母が、疎開先ではモンペを穿いて大きな籠を背負って、たくましくなっていってね。本当にびっくりしました。

考えてみたら、あのころ、母は30代なんですね。3人の子どもを空襲から逃れさせ、食べさせることまで、すべて一人でやらなくてはいけなかった。

父は敗戦後はずっとシベリアの捕虜収容所に抑留されていました。帰ってきたのは終戦から4年後の暮れです。その間、母は女手ひとつで3人の子どもを育てながら、働きに働いて行商で貯めたお金で東京の焼け落ちた家を再建しました。本当にすごいなぁと思いますし、母には感謝しています。

母は95歳で亡くなりましたが、死ぬ日までいつも通り普通に話していました。

亡くなるちょっと前、そういえば私はこんなにたくさんの方にインタビューしているのに、母にインタビューしていなかったことに気づいて。「ママが100歳になったらインタビューしていい?」と聞いたら、「どうせするんだったら、95の今、したほうがいいわよ」と言われて、いろいろなことを聞いたんです。

私が生まれる前のことや、知らなかったことを全部話してくれました。あのとき聞いておいてよかったな、と思います。

テレビは平和に寄与できる


戦後、日本でのテレビ放送スタートと同時に、NHKの専属俳優としてテレビで仕事を始めました。NHKの入社試験の経緯は『続 窓ぎわのトットちゃん』にも書いていますが、思い出すと自分でもあきれるくらい失敗の連続で。よくもまぁ、採用してくれたものだと思います。入社したのは1953年ですから──えぇ〜っ、もう70年!? びっくりしますよね。

ここまで長く続いた理由のひとつに、かつてアメリカのNBCのプロデューサーだったテッド・アグレッティーさんの存在があります。アグレッティーさんはNHKがテレビ放送を始めるにあたり、技術的なことも含めて、さまざまなアドバイスをしてくれた方。

放送開始に先立って、私たちNHKの関係者を前にした講演で、「テレビというのは、今世紀最大のメディアであり、そのうち戦争さえも家のテレビで観られる時代が来るだろう。テレビには力がある。その国がよくなるも悪くなるもテレビにかかっている。そして私は、テレビは永久の平和に寄与できると信じている」とおっしゃったんです。

その言葉に、心から感動しましたね。もし自分がテレビに出ることによって、平和の手助けができるんだとしたら、これほど素敵なことはないと思ったんです。

ですから76年に『徹子の部屋』を始めてからは、毎年、終戦記念日が近づくと、さまざまなゲストの方に戦争体験を語っていただく企画を続けてきました。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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