木野花『ブギウギ』で家政婦「大野さん」を熱演中。美術教師になるも、ストレスと片頭痛で「命に係わる」と退職、役者の道へ

2024年3月17日(日)12時0分 婦人公論.jp


「撮影現場や芝居の稽古場に行くと、若い人によく言われるんです。〈木野さん、なんでそんなに元気なんですか!〉と」撮影=岸隆子

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NHK連続テレビ小説『ブギウギ』では、スズ子を支える家政婦さん「大野晶子さん」を熱演、舞台や映画、ドラマで独特の存在感を見せる木野花さん。2023年には、演出家として読売演劇大賞・優秀演出家賞も受賞しました。自他ともに認める元気印の木野さんですが、体の痛みで動くこともままならなかった時期があったそうです。
(構成=村瀬素子 撮影=岸隆子)

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痛み止めを飲み、足を引きずりながら


ありがたいことですが、昨年後半からオファーをいただいたお仕事が立て込みまして、近年一番の忙しさでした。『ブギウギ』の収録で毎週大阪に通い、映画『熱のあとに』『じょっぱり—看護の人 花田ミキ』に出演。

役者業と並行し、演劇ワークショップで演出していた芝居の発表会もあってと、常に仕事が重なり、ほぼ休みなく働いて……。この状況を乗り切れるか、私! と半ば体力気力を試されてる気分で思わず気合が入り、気がついたら終わっていました。(笑)

撮影現場や芝居の稽古場に行くと、若い人によく言われるんです。「木野さん、なんでそんなに元気なんですか!」と。なんででしょうね。76歳になりましたが止まりませんね。うるさいくらい元気なようです。

今は健康な私ですが、60代の中頃は歩くのもつらい状況にありました。50代後半から脚の付け根が痛み始め、病院に行くと、変形性股関節症との診断。

この病気は、大腿骨と骨盤の間にある軟骨がすり減り、歩くたびに痛みが出てきて脚を動かしづらくなります。私は外股で歩くクセがあったので、年を重ねるうちに軟骨が激しくすり減ってしまったようです。

さまざまな治療法があるなかで、私は人工関節に置き換える手術を選択しました。ところが、医師に「もっと年をとってからのほうがいいでしょう」と言われたのです。人工関節は経年劣化していくため、下手に早く手術をすると、高齢になってから再度処置をすることになるとのこと。「限界まで我慢してください」と言われました。

そう言われても痛みはおさまりません。脚が痛いと、体と心までギュッと硬くなっていきます。それでも仕事は休まず、痛み止めを飲み、杖をついて、足を引きずりながら舞台に立っていました。7年前のある日、とうとう最後に残った軟骨がボロッととれた感覚があり、痛くて脚が動かせなくて、ようやく手術をする決断をしたのです。

手術後のリハビリは最低でも3ヵ月かかり、その間は歩けませんよ、と医師に告げられました。最初、硬くなった筋肉をほぐして伸ばすのですが、それが痛くてね。でも目標がありましたから、つらくはなかった。

3ヵ月後に稽古が始まる舞台にどうしても出演したかったんです。明治時代の物語で、和服を着て立ったり座ったりするシーンがあるので、股関節を動かせないと演じられません。なんとか治すしかない!

元来が凝り性で。理学療法士さんに言われたメニューよりさらにきつい訓練を課して追い込んでいたら、医師に「ちょっとやりすぎです。筋肉が炎症を起こしています」と注意されたほどでした。

おかげさまで、3ヵ月で完全に歩けるようになり、舞台に出演。「この年齢で、ここまで早く機能が回復した人は珍しい。アスリート並みです」と医師も驚いていましたね。

人工関節を入れて歩けるようになってからは、文字通り、体がフワーッと解放された感じでした。痛みがないってすばらしい。体だけでなく精神的にもどんどん明るくなって今に至っています。脚もすっかり回復して、痛みなくスタスタ歩けるようになりました。

美術教師から一転、演劇の世界へ


ありがたいことに、体は股関節以外にトラブルはないのですが、ストレスに弱い体質で、それが原因で病気になったことがあります。

私は美術が好きだったので、大学は地元・青森の弘前大学教育学部に進み、中学校の美術教師になりました。これが本当に向いていなかった!(苦笑)

授業は楽しかったのですが、職員室での人間関係が苦手。当時は教師の世界にも男尊女卑が当然のようにまかり通っていて、1年目の私には、先輩方にお茶を出すという役目が待っていました。

ところが、なんせ新米教師ですから、休み時間は授業の教材を揃えたり準備することが多くて、ついお茶を出すのを忘れてしまう。気がつくと、先輩が私の机にポンと湯のみを置いていくんです。全員分の湯のみ茶碗を覚えて、今日こそお茶を出すぞと自分に言い聞かせて、休み時間を待っていたのを思い出します。

そんな環境に馴染めず、胃が痛ーくなっていって……。やがて片頭痛で朝も起きられなくなりました。医師は、「ストレスです。治すには環境を変えるのが一番」と。そのとき初めて、精神を病むと体に影響が出ることを知りました。これはもう教師をやめないと命に関わる、と迷わず退職したんです。

そんなとき、たまたま美術雑誌で目にしたのがアングラ演劇の特集記事。唐十郎さんや寺山修司さんが活躍していた時代です。それまで演劇の世界とは無縁だったけれど、本能的にピンときたんです。私が目指すのはこっちの道だと。

幼少期、下北半島の大自然の中で育ち、木登りしたり海に潜ったりして遊んでいたからでしょうか。遊びといえども命がけで、本能というか第六感のようなものが鍛えられた気がするのです。人生の要所要所で、勘が働くほうに導かれて歩いてきました。

このときがまさにそう。第六感に従って、東京の演劇養成所で学ぶことにしました。3年と期限を決め、ものにならなかったら青森に帰る覚悟で、母にもそう宣言してね。

上京後は、必死で勉強しました。演劇に関するあらゆる知識・技術を身につけようと、演劇専門書や脚本を読み漁り、バレエ教室に通ったり、いろんなジャンルの芝居を観て歩いたり。

アルバイトをしながらだから大変でしたけど、1人ではなく、みんなで話し合いながら芝居を作る過程が新鮮で、創造的で、どんどん興味が湧いていきました。好きになったらこっちのもんです。文字通り寝る間も惜しんで取り組めました。

ちょうど3年経った頃、仲間5人と女性だけの劇団「青い鳥」を結成します。自分たちで台本を書き、演出を手がけ、演じる、集団創作という方法で芝居作りを始めました。私はどちらかというと舞台美術や演出のほうに魅力を感じていて、役者にはあまり自信がなくて。「青い鳥」退団後も、舞台の演出の仕事がメインで、お声がかかれば時々ドラマや映画に出演するという感じでした。

転機が訪れたのは48歳のとき。「劇団☆新感線」からオファーがあり、W主演の一人を務めることに。私は、劇団時代から、自分は脇役向きだからと主役は避けてきました。主役はセリフが多いし、責任も重いですから。長い間逃げてきたツケが、とうとう回ってきたと思いました。

主役なのに何もできないんです。演出家の指示をこなせませんし、細かい段取りも覚えられません。「青い鳥」は自分たちの劇団だから自分の得意なところを自己流にやって済ませてきたけれど、人さまの書いたセリフを、演出家が望むように言うのが、これほど難しいことなのか。私は今まで役者として何をやってきたんだろうと、悔しくて情けなくて涙が出ました。

でも悔しかったからこそ、このままで役者をやめるわけにはいかないという欲が芽生えたんです。それからは心機一転、覚悟を決めました。本気になって役者業に取り組もう、それでダメだったら役者をやめよう、と。

そのスタートが50手前。ようやく役者として行けるかな、と思ったのは60歳過ぎです。演出家が私に何を望んでいるか、その狙い、段取りの意図……。それを自分の中で咀嚼して、私なりの役作りや表現を目指そう、そう思ったらガゼン楽しくなって、ようやく役者業に追い込みがかかってきた気がします。

<後編につづく>

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