ムツゴロウ「動物学科のときに行った油壷で初めて賭けて打つ麻雀をやって。やる以上は徹夜で、死ぬ思いで打った」
2024年3月21日(木)12時30分 婦人公論.jp
(写真:Photo AC)
ナチュラリストであり、動物研究家でエッセイストだった、ムツゴロウこと畑正憲さん。2023年4月5日に亡くなられたムツゴロウさんですが、実は無類の麻雀好きで、日本プロ麻雀連盟最高顧問という肩書もお持ちでした。そのムツゴロウさんの一周忌にあわせて刊行される『ムツゴロウ麻雀物語』より、「動物との交流もギャンブルも命がけだった」ムツゴロウさんの日々を紹介いたします。
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科学の本ばかりある中に『麻雀放浪記』が
神田(かんだ)に親しい友だちが住んでいる。
その一家はカタブツばかりであり、理科系でかためたような家でもある。医者、物理学者、化学者などがずらりと揃っているのだが、その家に阿佐田哲也さんの著作がずらりと並んでいた。科学の本ばかりある中に、『麻雀放浪記』が入ると異様に目立つ。
「どうしたんですか。誰が好きなんです、麻雀を」
と訊いたら、実は、ときた。隣の分家にマアちゃんという変わり者がいて、麻雀が飯より好きだったという。裏に土蔵があって、その二階がマアちゃんの部屋だったが、阿佐田さんが毎日のようにきて一緒に打っていたそうだ。
「あれを好きと言うのね。くる日もくる日もですからね。顔なんて、蒼(あお)じろくなって、生きてるのか死んでるのか分からないようになっても打ってるんですから」
「戦時中?」
「そうね、戦争中もやっていたようね。いや、戦争になってから、余計烈(はげ)しくなったかもね。そうそう、たしか、近所にバレるといけないと気を遣ったりして」
「マアちゃん、どうしました」
「いなくなったの」
「消えたのですか」
「突然いなくなったの。それでね、イロさんの書くものの中に、マアちゃんが出てこないかって、みんなで調べたりしたのよ」
だから著作が揃っていたわけである。
年齢が十違うだけで
後日、阿佐田さんに会って確かめると、話はやはり本当だった。
「よく行きましたよ。土蔵の二階でねえ。ボクが打ち始めの頃でした。ほら、覚えたての頃は熱中するでしょう、あれですよ」
「夢中で打った頃ですね」
「若かったから」
「マアちゃんはどうしました」
「死にました」
「え、行方不明だと言ってましたが」
「自殺したんです」
「…………」
「船に乗って行って、どこそこで飛びこめば死体が上がらないからとか言ってました。これから死ににいくというので、皆で拍手し、行ってこいと送り出したんですよ、あれは」
そういう時代だったのだろう。私よりも六、七年先に生まれた人たちは、嵐(あらし)をまともに喰らっている。年齢が十違うだけで、ずいぶん違う生き方を強いられているのだ。
それが初めての、賭けて打つ麻雀であった
私は麻雀を、大学二年の冬におぼえた。これはオクテの方である。
満州じこみだと威張る父、寮で習いおぼえた兄が相手だった。私はルールブックを読みながらついて行った。たわいもない家族麻雀であり、一荘(イーチャン)をこなすのに四時間かかったりした。
動物学科に入ってから、同級生五人が、すべて打てるので驚いた。さほど上手くはなかったが、実験のしこみをした待ち時間などにヘイを乗りこえて前の雀荘(ジャンそう)で遊んだものである。金は賭けず、マイナスになったものが、ゲーム代を払うという健全そのものの麻雀だった。
油壷(あぶらつぼ)の臨海実験に行って、まず訊かれたのが、麻雀が打てるかということだった。当時の油壷には、娯楽がまったくなかった。松林と海があるだけであった。そこで、所員たちは、夜ともなれば卓を囲むわけである。
だが、マジメなものもいて、メンバーがなかなか揃わない。揃ったとしても、夜型人間と昼型人間とがいて、すれ違いになったりするのである。夕食を食べてから頭が冴え始めて、朝日が昇るまで実験室にこもるものがいて、周期が合わないのである。
だから学生がやってくると、嬉しくって仕方がないのである。遊び好きの研究生は、舌なめずりをして待っていた。
まだ、北風(ペーフォン)まである一荘麻雀だった。点数の計算だって、切り上げなしの頃である。
たまに研究生で打ち手が揃うと、一荘百回を一荘と呼び長期戦になるそうだった。
やれるかと訊かれたので、打てますと私は答えた。レートは、千点十円だった。
それが初めての、賭けて打つ麻雀であった。
やる以上徹夜であり、死ぬ思いで打った
東の一局。
起家(チーチャ)をひきあてた私には、七対子(チートイツ)もようの手がきた。どうしたらいいかなと思っていたところ、中盤で有効牌がたて続けに三枚やってきて四暗刻(スーアンコー)が出来てしまった。トン、トン、トンとリズミカルにやってきたあの感触は今もって忘れられない。無重力状態の中で泳いでいるような気分だった。
それから病みつきになった。
眠る時間を割いて打つようになった。
動物相手の実験はきびしくて、五日間、ほとんど眠らせて貰えないようなこともあった。
変化していく命が相手だから、眠ってなんかおれないのである。僅(わず)かに、三度の食事の時、食べながら眠るくらいだった。
ふらふらになっていながらも、六日目に先輩に挑戦したりした。やる以上徹夜であり、死ぬ思いで打った。
麻雀というゲームが体に合っていたのだろうか、負けはめったになく、おれは強いのだという自惚(うぬぼ)れが芽生え始めてもいた。
しかし、打つ相手に恵まれなかった。理科系の学生は忙しくて、他のことにうつつを抜かしてはおれないのである。学校に一週間ぶっ続けで泊まりこむことなどあって、アルバイトも出来ないので資金にも乏しかった。
私のビギナー時代は、阿佐田さんに比ぶべくもなかった。熱中して、一週間居つづけることなど出来なかった。世の中が平和になって、人びとが本業にいそしみだしていたからでもあろう。
※本稿は、『ムツゴロウ麻雀物語』(中公文庫)の一部を再編集したものです。