ムツゴロウ なぜ私の身に人の死を<普通のもの>と受けとめようとする習慣がついていたのか?「医者の家に生まれ、狭い私の勉強部屋はしばしば手術室になった」

2024年3月22日(金)12時30分 婦人公論.jp


(写真:Photo AC)

ナチュラリストであり、動物研究家でエッセイストだった、ムツゴロウこと畑正憲さん。2023年4月5日に亡くなられたムツゴロウさんですが、実は無類の麻雀好きで、日本プロ麻雀連盟最高顧問という肩書もお持ちでした。そのムツゴロウさんの一周忌にあわせて刊行される『ムツゴロウ麻雀物語』より、「動物との交流もギャンブルも命がけだった」ムツゴロウさんの日々を紹介いたします。

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人の死に対して、私は冷静さを粧うのが好きだった


テレビで五味(ごみ)さんの訃報(ふほう)に接した瞬間から私は落ち着かなくなっていた。

青山の事務所の中を、煙草(たばこ)をふかしながら歩きまわった。椅子(いす)に座ると、五味さんの、細い、やさしい声が聞こえる気がした。五味さんとは特別の付き合いをしてきたわけではないのに、このままでは済まないという思いがあった。

これは私にしては珍しいことだった。

冠婚葬祭とまとめてもいいと思うが、特に人の死に対して、私は冷静さを粧(よそお)うのが好きだった。冷淡と言っていいぐらいに、そうかとだけ頷(うなず)いて、死にまつわる悲しさを心の中の小箱にしまいこんでピンと鍵(かぎ)をかけてしまうのだ。

死は、その人にとって、祝福さるべきものだという、ひそかな思いがありもした。生きていくことは、痛苦と汚辱にみち、片時も心が安まらず、だからこそ人は、生の歓喜を大声で歌いたがるのだ。

死が訪れさえすれば、体を造り上げる細胞の一つ一つ、数十億、数百億ある細胞の一つ一つが、活動することから解放され、緊張をといていく。

細胞の死


動物学を学んでいた頃(ころ)、何度、細胞の死に接したことか。

生きている細胞の中には、絶え間のない動きがある。熔岩(ようがん)の流れに似た、重っ苦しい流れが起こって、ラグビーボールの形をした核がぐらりと揺れたりする。細胞の中には、大小さまざまの粒が浮いていて、それぞれに光りながら、無秩序に動きまわっているように見える。

研究の徒として私が選んだのは、細胞の中のその得体の知れぬ動きの中に、必ずあるに違いない、法則性を発見することだった。何かきまりがあれば、それは命というものが持つ、不可思議な秘密の、最も原始的なものだと言えるだろう。

夜を徹して、私は細胞をいじくりまわした。単細胞の生物のこともあれば、人から採取した生きている細胞のこともあったりした。

動きはある—あるけれども、人の智恵(ちえ)ではくくれない。気まぐれとしか思えない、乱雑なもののようでもあった。しかし細胞が数え切れぬほど集まって一つの生物体を構成すると、一見分かりやすい形になってしまう。

紅茶の中には、透明なエチルアルコールを注いだ


私は生命のやぶの中に首を突っこんで、いく晩も夜を明かした。

夜が白んでくると、酔ったようになっていたものだ。少年小説の中に出てくる、秘密の洞窟(どうくつ)を探検したような気分になっている。

誰もいない研究室で、湯をわかし、紅茶をいれるのが常だった。紅茶の中には、透明なエチルアルコールを注いだ。

そのアルコールが、人の死体を洗った後のものだというのが、何故か非常に気に入っていた。医学部の方で、人の死体から何かを抽出した後の廃棄物である、どろどろに濁った赤紫の液体を貰(もら)ってくる。それを蒸溜(じょうりゅう)したものだった。

アルコールの酔いは、ボクシングのストレートパンチに似ていた。胃の腑(ふ)に落ちたその瞬間、体中に酔いの電気が走った。

畜生め


私はシャーレやフラスコを片付けた。飼っている無数の細胞たちに、餌(えさ)である培養液を与えた。

表に出ると、始発の都電が待っていたが、それには乗らず、風に吹かれるようにして歩いた。銀杏(いちょう)並木が季節を教えてくれ、牛乳配達の荷台では瓶がなっていた。

畜生め、と思う。生きている細胞って奴は何と分かり難い動きをするのだろう。

それに比べれば、細胞が死ぬ時には、みんな同じ表情になった。粒の動きがふっと停まり、全体として、かたく、黒い感じになる。それから膜がゆるんで、中に含まれている無数の粒は、自分勝手に原形質の中に浮くようになる。生きているという呪縛(じゅばく)から解き放たれて粒がよろこんでいるようにも見えた。

私は立ちどまり、何度も何度も、細胞が死ぬ瞬間を思い起こしたものだった。そのような朝が、何年も続く青春だった。

死は、好ましいものとして映ってもいた


医者の家に育ったことも、死をあっさり受けとめたいと願う態度につながっているのかも知れない。

私の父は、困難な条件の下で医業を続けてきた。人里離れた開拓団の医者だったから、入院室などは持ち得ず、家族の住居はそのまま病院だった。重病人がやってくると、同じ屋根の下に置くしかなかった。

日本へ戻ってからも、貧乏だったので病院が建てられず、便所の横にあった狭い、私の勉強部屋は、しばしば手術室になった。

小さい時から人の死に接しているので、死を、普通のものとして受けとめようとする習慣が身についているのだ。

病人が家の中で苦しんでいる。その病人に死が訪れると、家の中の空気まで変わる気がした。丁度、細胞の死と同じように、空気の顆粒(かりゅう)が呪縛から解き放たれ、本来の軽やかさを取り戻した気がした。

病人の肉体だって、もう、闘う必要がなくなって、ゆったりと手足を伸ばしていた。死は、好ましいものとして映ってもいた。

そういう受け取り方は、しかし人の社会の中では、特殊なものであるようだった。私は祖父、祖母の葬式にも列席しなかった。僅(わず)かに、自分の父の葬式に座っただけだった。

※本稿は、『ムツゴロウ麻雀物語』(中公文庫)の一部を再編集したものです。

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