野村萬斎「十代の頃、父・万作の『三番叟』の舞をカッコいいと思った。ロックへの思いと同じく、自分の中の躍動感が狂言とも呼応すると気付いて」

2024年3月29日(金)12時30分 婦人公論.jp


「私が十代の頃、初めてかっこいいなと思った舞が父・万作の『三番叟(さんばそう)』なんです」(撮影:岡本隆史)

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演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは——。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第27回は狂言師の野村萬斎さん。狂言師でありながら、俳優、演出家、プロデューサーとして活躍する萬斎さん。ロンドン留学、三谷幸喜さんとの出会いなど、様々なカルチャーショックが糧になっているそうで——。(撮影=岡本隆史)

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『三番叟』は野村家のライフワーク


狂言師の野村萬斎さん、ではあるけれど、俳優、演出家、そしてプロデューサーとしての幅広い活躍ぶりがめざましい。

それでいて、30年前にNHK大河ドラマ『花の乱』(94年)の細川勝元役や朝ドラ『あぐり』(97年)のエイスケ役で颯爽と登場した際の〈白皙(はくせき)の美青年〉のイメージを、今も保ち続けているのがすごい。

——子供の頃、さあ、近くの小石川植物園へザリガニ取りに行こうかな、と思っても、家に父がいるとそこで稽古が始まっちゃうので、出かけられないんですね。

小さい頃はそれでも従順だったんですが、反抗期になると少し不貞腐れるところもあって、稽古中の態度が悪かったのか、父から扇とかいろんな物が飛んでくる。

ですから蜷川(幸雄)さんが灰皿投げるとか、黒澤(明)さんが怖いっていうのは、僕らにとっては別に当たり前のことじゃないかと思えます。

のちに、息子の祐基(ゆうき)に対して僕が物を投げたこともあると思いますよ。まぁぶつからないようには投げますけど、これ、こちらが我慢ならないんだというアピールになりますからね。

それで私が十代の頃、初めてかっこいいなと思った舞が父・万作の『三番叟(さんばそう)』なんです。当時、僕はロックに凝っていたりとか、マイケル・ジャクソンが全盛期だったりしたので、そういうものをかっこいいと思う感覚と、自分の中の躍動感が狂言とも呼応する、ということがわかったわけです。

萬斎さんが『三番叟』を披いた(初演)のは17歳(84年)の時。これが第1の転機だろうか。

——そうですね。あれは千駄ヶ谷の国立能楽堂がオープンして間もなくでね、舞台の木が乾燥しきってないので硬くて、踏んでもあまり足拍子の音がしないんですよ。響きが悪いとどうしても返りの音を求めて強く踏みますから、終わったら足の裏がアザだらけになっていました。

『三番叟』は僕にとっても父にとってもライフワークでして。上演回数がとても多く、歌舞伎や文楽など他分野との共演を何度もしています。

先日は金沢で息子の裕基が中村鷹之資(たかのすけ)君(人間国宝・五世中村富十郎さんの長男)と、24歳同士のフレッシュな『三番叟』を、能登半島地震からの再生の祈りをこめて舞ったのが好評でした。

そういう20代の『三番叟』と、50代の僕が今やるものは違いますし、父は90代。父の域になると解脱するというのか、すべてを超越した精神性がマジカルに見える境地に到達するみたいですね。そこが芸道の面白いところですよね。

いつ頃だったか、父が、来日した舞踊家のショナ・ミルクの踊る『ボレロ』を観てきて、「これは『三番叟』に似てる」と言ったんです。『三番叟』は死からの再生、冬が終わって芽が出て花が咲き実が生って、つまり五穀豊穣を祈るという概念。

そこで狂言師の考える『ボレロ』として、仮死状態の者が冬の眠りから覚めて、春を迎え夏を過ぎ、秋には実ってまた違うステージに飛んで行く、死ぬというよりは転生する、という概念にして考えました。

具体的には2011年、当時僕は世田谷パブリックシアターの芸術監督で「MANSAI◎解体新書」というシリーズをやっていて、ゲストの首藤康之さんと「『三番叟』と『ボレロ』が似ている」という話をしたんです。その時、首藤さんが「なんちゃって三番叟」を、僕が「なんちゃってボレロ」を即興で踊ったりしたのです。

三谷さんの芝居はカルチャーショック


第2の転機は萬斎さん27歳(94年)の時、文化庁芸術家在外研修制度でロンドンに留学して主に演出法を学んだこと、かと。

——ええ、あの頃からワークショップということが盛んになってきて、テアトル・ド・コンプリシテ(共犯者)という劇団のサイモン・マクバーニーのワークショップにはずいぶん影響を受けました。ここには狂言に近い身体的要素もありましたからね。

一方、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのオブザーバーとして稽古場をよく見に行ったりもしましたけど、こちらはシェイクスピアの王道で、〈喋る演劇〉として典型的なイギリス演劇を学びました。

ワークショップでは海外の方に英語で狂言を教える経験も。狂言の演技術や演出法を分析して、これをどうほかに生かせるかを考えたことが、その後に繋がっていきます。

そして帰国後に作ったのが『まちがいの喜劇』を翻案した『まちがいの狂言』になるんですが、それをロンドンのグローブ座で2001年に上演。02年に凱旋公演をし、その結果、世田谷パブリックシアターの芸術監督に就任という流れになったわけですので、留学は転機でしたね。

留学の成果の一部は、三谷幸喜作・演出『ベッジ・パードン』(11年)に出演した折にも表れている。

萬斎さんが「ロンドンの下宿先の部屋の絨毯が張り替えられたばかりで、とても土足で出入りする気にならなかった」と三谷氏に話したところ、早速それがロンドン留学中の夏目漱石(萬斎さんの役)が、お客に靴を脱ぐように求める設定として活かされていた。

——三谷さんの芝居に出るってことが、僕にとっては一種、転機に近い、カルチャーショックでしたね。それまで現代劇といってもシェイクスピアくらい。蜷川さんの『オイディプス王』というギリシャ劇にしても、どちらかと言えば時代劇なんですよね。まして木下順二作『子午線の祀り』の平知盛役となれば、アドバンテージはこちらにありますよね。

ところが三谷さんの『ベッジ・パードン』となると、共演者が大泉洋君だったり、ミュージカルのトップスター浦井健治君だったり、浅野和之さんに至っては11役もつとめて——これ、漱石がロンドンで出会った人々がみんな同じ顔に見えた、っていう設定なんですね。それにベッジという漱石の下宿先のお手伝いさんが深津絵里さん。

こういう方たちは三谷さんが割合よく起用する、言わば彼にとっての〈お気に入りのおもちゃ〉(笑)。僕は三谷さんの芝居は初めてだったので、彼も「これはどう使えばいいおもちゃなのかな」と考えたのでしょう。

公演が終わる頃、「萬斎さんに絶対やってもらいたい役がある」と言われた。それがテレビドラマ「勝呂武尊(すぐろたける)」シリーズ、アガサ・クリスティー作品を原作とした三谷版のポアロ役なんです。

探偵役は非常に個性的な、絶対的存在感が必要という信念が三谷さんにはあり、たとえば『古畑任三郎』の田村正和さんみたいに、ほかとは交わらない強烈な個性がないと成立しない。

「だから萬斎にポアロを」となるんですが、原作のポアロはベルギー人という設定で、これはヨーロッパ社会では少々浮いた存在なんですね。それを出すためにちょっとしゃくれた喋り方をして、びっくりされたようですけど、おかげさまでシリーズ三弾まで行きました。

<後編につづく>

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