林家木久扇『笑点』の卒業を決めた理由「30歳から出演して、もう86歳。歌丸さんとの海外旅行話は、葬儀でも大笑いに」

2024年3月31日(日)12時30分 婦人公論.jp


「視聴者の方にとっても、ある日突然の悲しいお別れになってしまうわけで……。それじゃいけない、僕は元気なうちに笑顔で《卒業》しようと決めました。」(撮影:木村直軌)

半世紀以上にわたりお茶の間で親しまれている演芸番組『笑点』。その初期からレギュラーメンバーとして出演し、黄色い着物が目印の林家木久扇さんが、2024年3月で番組から卒業することを発表しました。その理由を訊ねてみると(構成=山田真理 撮影=木村直軌)

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毎週試験を受けているような


3月に『笑点』を卒業することを発表してから、いろんな人に「残念だ」「寂しい」とお声をかけていただいています。55年も大喜利のメンバーでいさせてもらって、いつの間にやら最年長。僕も86歳になりました。

この年までテレビのレギュラーをやっている人って、世界でも珍しいんだそうです。黒柳徹子さんは僕より年長だし番組の回数も多いけれど、あちらは司会者。お笑いだけで週に1回、テレビに出続けているのは僕しかいない。

もちろん番組は楽しいし、人を笑わせることも大好きです。ただ大喜利というのは、毎週試験を受けているようなものでね(笑)。問題出されて回答して、それも自分らしく面白くなきゃっていうのは、けっこうハラハラドキドキするものなんですよ。

ほかにも寄席や地方公演の仕事もあるし、全国ラーメン党を立ち上げたり本を出したり。要は55年間、ずーっとホッとする時間がなかった。もっと自分をワクワクさせる時間を持ちたいと考えるようになったのです。

そうなるとやっぱり、自分の寿命というのが気になってくる。番組では、初代司会者の立川談志さんをはじめ、前田武彦さん、三波伸介さん、三遊亭圓楽さん(五代目)、桂歌丸さんたちが亡くなってしまいました。

大喜利メンバーの林家こん平さん、三遊亭小圓遊さん、三遊亭円楽さん(六代目)もね。そのたび何回も悲しみがあって、でも、落語の番組だから笑って乗り越えなきゃいけなくて。それもつらかったですね。

最初からいた人は、みんな死んじゃったんです。視聴者の方にとっても、ある日突然の悲しいお別れになってしまうわけで……。それじゃいけない、僕は元気なうちに笑顔で「卒業」しようと決めました。

去る人がいれば新しく入ってくる人もいる。ここ最近で大喜利メンバーの若返りが進んできたのは、良いことだと思っています。桂宮治さんは明るくてふてぶてしくて、先輩を上手に立てているようで、腹の中では何を考えているのかわからないところがある。

春風亭一之輔さんは、毒のあるインテリジェンス。僕が座布団もらって喜んでると、「じじぃのくせに」とぼそっとつぶやく間がとてもいい。お二人が番組の空気感を変えてくれたと思います。

落語家というのは、いっちょ前になるまでに何十年という年月がかかります。芽のある人を早く発見して世に出しておくことは、落語界にとって大事なこと。『笑点』でも出演者が亡くなったり病気で退くことになって初めて、「なんとかしなきゃ」と大騒ぎするんじゃなく、つねに新しい人を探してキープしておくことが必要でしょう。

僕が23年の8月に卒業を発表してから、半年以上の時間がありました。僕の次が誰になるかはまったく知らないし、人選にもノータッチです。まあ誰になろうと僕と比較されるわけだから、よっぽど面白くなきゃ大変だと思いますけれどね。(笑)

話題の山を何度も作って


僕が『笑点』に初めて出たのは、30歳のとき。番組を立ち上げた談志さんのカバン持ちをしていた縁で、まずは「若手大喜利」に呼んでもらい、その2年後に大喜利のメンバーになりました。

談志さんはブラックユーモアが大好きでね。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ってビートたけしさんで有名になったギャグも、もとは談志さんの口ぐせだったんです。番組も当初は談志さんのそうした世界観がウケていたのだけれど、いかんせんブラックユーモアというのはお茶の間に向かない。

「このままでは番組が成功できない」ということで、メンバーを大幅に入れ替えた。あの頃がいちばん波風の立っていた時代でした。

大喜利メンバーとのお付き合いで思い出深いのは、歌丸さんと二人でシンガポールと台湾とタイへ行ったこと。関西のクイズ番組に一緒に出たら優勝しちゃって、僕は嫌だなあと思ったのだけど(笑)、歌丸さんは初めての海外だからというので一緒に行くことになったんです。

これがまあ珍道中でね。タイは出国する時に持ち出せる通貨に制限があって、当時の日本円で30万円以上持っていると税関で取り上げられちゃうんです。歌丸さんは初めての海外ってことで、張り切って100万円くらい両替していて。

「没収されたらもったいない」というので、タイの空港のトイレに二人で入って、お互いの体にお札をペタペタ貼って隠そうとしたんです。

それで体中ガサガサさせながら搭乗口へ行って、「僕らの乗る便はどれですか」と聞いたら、空港職員さんが「あれです」って飛んでる飛行機を指さした。つまり乗り遅れちゃったの。その話を歌丸さんの葬儀でしたら、せっかくしんみりしてたのにみんな大笑いになりました。(笑)

番組としていちばん思い出に残っているのは1978年、番組初のサンフランシスコでの海外収録でしょうか。日本テレビ開局25周年記念の企画でもあったので、ロケも大がかり。サンフランシスコ名物の路面ケーブルカーで、車掌さんがジャズの曲に合わせてベルをチンチーンって鳴らす様子なども撮影して。

大喜利は、現地に住む日本人と日本語勉強中のアメリカ人で大入り満員。座布団運びは、ミス・サンフランシスコが務めてくれました。その大喜利で僕は、さっきケーブルカーで聞いた「セントルイス・ブルース」って曲に「いやんばか〜ん」って歌詞を乗せて歌ったんです。

そしたら会場は大爆笑。ものすごい拍手とピーピーって口笛で盛り上がりました。日本に帰ってからレコードにすると、15万枚のヒット。子どもから大人まで真似してくれましたよね。

僕は大喜利メンバーに入った当初、自分をどう売り出していくか迷った時期がありました。その時、は大好きだった嵐寛寿郎さんの『鞍馬天狗』を真似した、「杉作、日本の夜明けは近い」というセリフで自分なりのキャラクターを打ち出すことができた。

「いやんばか〜ん」はそれに続くヒットでしたし、その後も木久蔵ラーメンを始めると「まずい」だの「保健所が入った」だの茶化してもらって笑われて。そういう話題の山を作るのが、自分でもうまいなあと思います。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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