朝ドラ『虎に翼』見合いの席で寅子が語った「エアガール」とは?戦後初の「スチュワーデス」一期生の募集は、昭和26年に新聞広告で行われた

2024年4月2日(火)11時30分 婦人公論.jp


写真◎AC

2024年4月1日から始まったNHK朝ドラ『虎に翼』は、女性として初めて裁判長も務めた三淵嘉子氏をモデルとしたオリジナルストーリー。激動の昭和を生き抜いた「五黄の寅」年生まれの猪爪寅子(伊藤沙莉)が、法という翼を手に入れ、女性初の弁護士、のちに裁判官となるまでが描かれます。気が進まないまま3回目のお見合いをした寅子は、見合い相手の横山太一郎(藤森慎吾)に、女性の社会参加や『エアガール』について熱く語ります。エアガールとは当時どのような人たちがなっていたのか…。日本航空(JAL)の一期生たちを追った中丸美繪さんのノンフィクションをもとにした記事を再配信します。
*******
人気俳優の広瀬すずさんが初のキャビンアテンダント(CA)役を務めた、2021年3月20日放送のドラマ『エアガール』(テレビ朝日系列 夜9時〜)。日本人が日本の空を飛ぶことは許されていなかった時代。太平洋戦争後初のCAたちの奮闘を描いたドラマだ。原案は、日本航空(JAL)の一期生たちを追った中丸美繪さんのノンフィクション『日本航空一期生』(中公文庫)。「空のお仕事=“エアガール”」を目指した女性たちとはーー。
※本記事は、『日本航空一期生』の一部を再構成しています

* * * * * * *

神話の1ケタ、化石の2ケタ、美貌の100期…


スチュワーデス一期生の小野悠子(旧姓竹田)にあったのは、港区白金台にあるホテルである。

「わたしが日本航空につとめたのはもう大昔の話で、現在の日本航空とは会社の形態も社員の数もぜんぜん違う時代だったのです」

悠子はわたしが取材したときには80歳を越えていた。

足こそは数年前に転倒したためにスムーズとはいかなくなったが、年齢より10歳以上若くみえ、日本航空に入社した20代にはそうとうの美貌だったことが、その顔立ちからわかった。

わたしが日本航空に入社したときには、「容姿端麗」の条件はなくなっていたからこそ応募もできたのだが、かつてはそんな空恐ろしい条件があった。

それは社内のダイナミズムになんとなく反映されていて、歴代のスチュワーデスは「神話の1ケタ、化石の2ケタ、美貌の100期、知性の200期、体力の300期」といわれている。

ジャンボジェット機の登場により大量輸送時代となり、それに対応するためにスチュワーデスの入社試験に初めて体力測定がとりいれられた300期以降、客室乗務員は大幅に増えた。400期以降となると諸説入り乱れ、実際には選りすぐりを集めたとの説もあるが、先輩たちからは「向こう横丁の400期」「どうでもいい500期」などと揶揄されたものである。さらに600期代のスチュワーデスについてとなると、もうそんな冠もつかなくなったのか、どうだったのか。

民営化後は、契約社員制度もとりいれられ、「契約何期」という呼称も使われるようになった。

さて、調べてみるとスチュワーデス一期生の募集にあたっては、以下の文面で小さな求人広告が新聞掲載された。

「ただ〈飛びたい〉という一心で応募してしまったの」


  エアガール募集
 
 資格 20—30歳身長一、五八米以上体重四五瓩—五二、五瓩迄
 容姿端麗新制高校卒以上英会話可能東京在住の方
 採用人員 12名履歴書写真上半身全身各一身長体重記載同封郵送
 締切 八月二日(当社到着の事)面会日を通知する
    東京都中央区銀座西八丁目一番地
    電話銀座(五七)〇一〇三—四・〇八四五・四二二二・六三六一
     日本航空株式会社創立事務所

この広告は昭和26年7月20日から22日にわたって、毎日、読売、産経、朝日、東京、日本経済新聞の各紙に掲載された。とはいっても8行だけのごく小さな広告で、これに目を留めるには、新聞を詳細に見ていなければわからないはずである。

日本はまだ占領下にあったものの、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結がなり、国際的地位をやっと回復した時期だった。

前年6月には朝鮮戦争が起こり、この戦争が特需をうながし、経済は復興にむかいつつあった。この年の正月からNHKラジオで紅白歌合戦がはじまり、9月には名古屋、大阪などで民放の本放送がはじまった。ヴェネチア国際映画コンクールで黒澤明監督の「羅生門」がグランプリに輝いたのもこの年である。日本はようやく戦後の混乱と窮乏から抜け出そうとしていた。


『日本航空一期生』中丸美繪・著

悠子は日本航空のエアガール募集広告を眼にして、躊躇することなく応募した。この小さな広告を目にして、唐突に悠子の胸に「飛びたい」という欲求がわいた。戦後禁止された民間航空の再開は国民的関心事で、航空に関する政治的なやりとりなども新聞紙上を賑わわせていたのである。

小野悠子はまっすぐにわたしを見つめながら、その応募したころの気持ちを優しいおだやかな口調で語っている。

「エアガールがどんな仕事をするかなんて、まったく考えなかった。ただ〈飛びたい〉という一心で応募してしまったの」

これからは飛行機の時代である。日本航空は国内線をまず飛ぶが、国際線をもつことを視野にいれていることも知った。習得した英語も活かせる職場だろう。悠子が望んだまさに憧れの職業だった。悠子はさっそく履歴書などを送付した。

ところが広告の小ささにもかかわらず、さらに掲載から10日間だけの募集期間にもかかわらず、日本航空の創立事務所には1300通にのぼる履歴書が送付されたのである。

日本航空に31年間つとめた大先輩


スチュワーデス一期生の金林政子(旧姓伊丹)に会ったのは、渋谷の日本料理店である。政子は1年に何回かは日本航空の後輩たち数人と会食の機会をもつ。この日も39期、47期生、破綻によって退職となった400期代の年若い3人の後輩たちと会う日だった。

政子も悠子同様、昭和3年生まれで80歳を越えていたが、足元を見ると靴はピンヒールである。すでに高いヒールの靴をはかなくなってしまったわたしにとっては、その年齢でヒールの靴を毎日はいているということは驚異だった。長く社交ダンスを習っていて、いまだに気力体力知力ともに充実している様子が、その声の張りや大きさからもうかがえる。バイタリティ溢れるこの先輩は、20代のときにはどんなに溌剌とした、輝くような女性だっただろう。

「わたしは14年間飛んでいました。35歳で職場結婚、38歳で出産して退職したけれど、数年後にふたたび日本航空に戻ったわ。訓練所で着物の着付けなどを教える教官として17年間。結局、日本航空には出産をはさんで31年間つとめていたことになるの」

それほど長い日本航空勤務の端緒となるエアガール募集に応募したころのことについて問うと、即座に答えが返ってきた。

「じつは日本航空のエアガール募集を知ったのは、応募締め切りの当日のことだったの」

つまりそれは、昭和26年8月2日ということになる。

そのころ政子は銀座にあるサヱグサに勤務していた。エアガールという仕事が、実際にどういうことをするのかはよくわからなかった。
「けれど、サヱグサにお勤めするよりも高給を得られると思ったの」

肩に一家の家計がのしかかっていた


政子には稼がなければならない事情があった。政子が生まれたとき父は56歳で、すでに退役軍人となっていた。戦時中までは恩給が支給されていたが、敗戦後はそれもなくなり、政子の肩に一家の家計がのしかかっていたのである。

ある日、母の嫁入り道具だった置物や着物などが一夜にしてなくなった。借金もあったから、そのカタにもっていかれたのだった。兄一家は満州で敗戦をむかえていた。翌年の秋に無一文となって引き揚げてきた。

さて、日本航空の募集は知ったものの、その日が締め切りというぎりぎりであった。

履歴書をなんとか出さなくてはならない。履歴書を書くことはたやすいが、そこに貼り付ける写真がいる。現在のように即席の写真ボックスなどない時代である。政子はサヱグサの向かい側にある松坂屋の写真部に急ぎ、履歴書用の写真をとった。写真ができるまでにはなんと数日を要するという。

履歴書が間にあわない! 写真を貼った履歴書はととのわないが、なんとかならないものだろうか。応募に間にあわせることはできないだろうか。

政子は思い立つとその足で、日本航空の創立事務所にむかった。松坂屋からはすぐ近くで、こうなったら体当たりしか手段はないと思ったのである。

「そうですか、履歴書はないのですね。お名前は伊丹政子さん?」

応対してくれたのは江頭という男性である。

「履歴書はあとでお届けします。さっき松坂屋で写真を撮っていただきましたから、数日中には持参することができると思います」

「そうですか。わかりました。ところで、伊丹さんはどちらにお住まいですか。ああ、池尻ですか。では来ていただかなくても、僕は桜新町ですから、会社の帰りにいただきにいきましょうか。伊丹さんのお宅はどういうご家族?」

のんびりとした、人情味にあふれた時代だった。

伊丹は父のこと、満州引き揚げの兄のこと、自分のこと、家庭の事情でどうしても日本航空につとめたいと思っていることなどを率直に話した。まだ両親にはこの応募のことは相談していないということを除いて。

こんなときには、退役したとはいえ陸軍中将だった父の経歴は物を言った。

突然、飛び込んでいったものの、なんとか応募に間にあわせてくれることになったのである。直接持参したことで、これが事実上の面接試験ともなったようだった。


東京営業所で訓練を受ける一期生(『日本航空一期生』より)

記者たちも駆けつけた二次試験の面接


さて、日本航空のエアガールの一次審査は書類審査で、二次審査の面接は8月7日と政子は伝えられた。このエアガールという和製英語は当初のみで、これはすぐに当時、世界的に通用したスチュワーデスという呼称に変わった。

書類審査合格の通知をもらい、伊丹政子が二次試験に出向いたのは丸の内にある日本工業倶楽部だった。

志願者1300名のなかから二次試験に進んだのは、英会話ができて、容姿、教養とも満点と自負する自薦他薦の女性たち168名だった。

四コマ漫画になるほど、マスコミの話題をさらっているスチュワーデスの二次試験は面接である。会場は華やかな雰囲気で満たされ、30名を越える記者たちも駆けつけていた。

英語で面接するのはJDAC支配人ポール・ラストンとパン・アメリカン航空支配人夫人だった。

伊丹政子は英語に自信はなかった。聖心女子学院の英語科ではマザーたちから教えてもらっていたが、戦時中は敵性語として英語を学ぶことが禁止されていた。英語は知っているものの、流暢な会話はできない。でも面接での観光問答ぐらいはこなすことができた。この時代に育って、女性で英語がしゃべれるなんてごくごく特殊な人たちであると、政子は達観していた。

日本語で面接したのは、日本航空社長である柳田誠二郎と美代子夫人、日航の役員たちや女医だった。唯一顔が認識できたのは、女優の千葉早智子だった。

居並ぶ試験官のまえに進むと、「スチュワーデスの仕事はこれこれこういうことだが、大丈夫か」とか、「住所は」などと型どおりの質問が浴びせられた。

最後の言葉は「近くご通知を」と言われ、退散する。

これで40人が選ばれ、その後さらに三次試験があるという。いったいどうなるか。政子には、しかし、不思議に三次試験に進める自信があった。

「ここが日本航空の本社です」


三次の筆記試験が終わると、まもなく試験係が現われ、唐突に5人の女性の名前を呼んだ。

冒頭の竹田悠子はちょっと不思議に感じた。合格なのだろうか、まだ採点はおわらないはずなのに。5人はお互いに眼を見合わせたが、すぐに外に待っていた車に乗せられた。

いったいどこに連れて行かれるのだろうか。みな同じような気持ちでいるのは明らかだったが、言葉はなかった。緊張しきっていたのである。

車は発車し、5分も走らないうちに停車した。「ここが日本航空の本社です」と付き添ってきた社員が説明した。階段をあがって案内されたのは畳敷きの部屋である。「これが本社なのかしら」と悠子はちょっと拍子抜けした。

部屋のなかには中年の男性が二人いた。彼らは満面の笑顔で悠子たちを迎えた。

「おめでとう。あなたたちはスチュワーデスの試験に合格しましたよ」

それまでなにも知らされずにここまできた5人は驚いて顔を見合わせた。このとき同行したのが悠子のほかに、前述の伊丹政子、荒木佐登子、佐々木喜久子、土井玲子だった。

「まだ身体検査の結果がわかっていないけれど、とにかくみなさんは抜群の成績でした」と言われた。

そして、試験・招待飛行が八月二十七日に迫っていると伝えてきた。

占領下での日本航空の創設ということで、スチュワーデスについてはリッジウェイ最高司令官夫人の「査察」がある。そのために、その日に間に合うように制服をつくらなければならないから、今からさっそく制服の採寸をはじめる、というのである。5人はまた顔を見合わせずにはいられなかった。

一期生のうち最年少は19歳


最終的に15人の合格者が8月15日には選出されたことが報道される。「選ばれた空の花十五輪」などと新聞ははやしたてた。

一期生のうち最年少は19歳の川本多美江だった。学生時代水泳の選手だった川本は健康美にあふれた美少女だった。東京・青山の商家に生まれ、早口の東京弁で色浅黒く、卵形の顔と均整のとれた体格で微笑むとえくぼがかわいらしかった。

スチュワーデスは29歳が最年長で、あとはほぼ22歳前後だった。企画室部長の伊藤良平の回想によると、採用にあたって社内では、「良家の子女を採用して日航のスチュワーデスとしてつくりあげる」という意見が圧倒的だったという。そのなかで独特な意見をいろいろいったのが森村勇で、「容姿端麗な八頭身美人を採用方針に」と提案したのも彼だった。

現在のようにテレビタレントやファッションモデルといった被写体が豊富な時代とちがって、ようやく戦後の食糧難の時期から抜け出しかけた時代には、この女性の新しい職業であるスチュワーデスは、マスコミの絶好の標的となっていく。

婦人公論.jp

「朝ドラ」をもっと詳しく

「朝ドラ」のニュース

「朝ドラ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ