『サスティな!』でカップヌードルミュージアムへ!日清食品の秘密に迫る。朝ドラ『まんぷく』萬平のモデル・百福。<チキンラーメン>ができるまで

2024年4月6日(土)10時0分 婦人公論.jp


百福一人の手では追い付かず、家族総出の作業となりーー(写真提供:Photo AC)

2024年4月6日のフジテレビ『サスティな!』は【大人気!カップヌードルミュージアムへ!日清食品の秘密に迫る】です。倉科カナSHELLY&神尾楓珠MCの楽しく学べるSDGs番組。オリジナルのインスタント麺作りなどを通して、日清食品の秘密に迫ります。日清食品創業者をモデルにした朝ドラ『まんぷく』の記事を再配信します。
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2018年に放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「魔法のラーメン 〜家族総出で製品作り」です。

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家族総出で製品作り


1958(昭和33)年の春になりました。

即席麺は少しずつ完成に近づいていました。百福や家族の心と同じように、玄関先の桜の花びらも、心なしか華やいで見えました。試作品を作るところまで来ていましたが、百福一人の手では追い付かず、家族総出の作業となりました。

冨巨代と規矩の姉妹(仁子の姪)も手伝いました。仁子の父の郷里二本松からも親戚の森軍造が来てくれました。森は素朴な青年で、信用組合で働いていましたが、倒産の後も帰らず、池田の安藤家の前に下宿していたのです。猫の手も借りたい忙しさでした。宏基(次男)は小学校四年生、明美(長女)は小学校三年生です。親の手伝いをできる年頃になっていました。

「おーい、手伝え」という声を聞くと、宏基と明美は喜び勇んで小屋に駆け込んだものでした。

長男の宏寿はもう成人していました。仁子は人一倍気を使い、「宏ちゃん、宏ちゃん」と呼んで可愛がりましたが、知人の家に長く滞在したり、一人で中国大陸に渡るなど、なかなか家に居つかない子どもでした。

「えらいスープに詳しい人やな」


百福は毎週一回、大阪梅田の阪急百貨店地下一階にあった「鳥芳」という店で親鶏のブツ切りを五キログラム買いました。当時五キロで千五百円くらいしました。

その時に働いていた井元弘(後の鳥芳三代目)は普通の家庭で使う量ではないので、「いつも同じものを買われますね」とたずねました。すると百福は「ちょっと研究している」と答えました。

ある時、「トリの値段はどうして決めるのか」と百福に聞かれました。

井元の説明を最後まで聞くと、「けれども、品物にはA級もB級もある。スープを取るにはB級だけでもC級だけでもあかんのや。いろいろ混ざってないと」と言われて驚きました。

「えらいスープに詳しい人やな」と。

そして最後に、「分かった、毎日の値段はおまえにまかせる。おまえが決めてくれ」と言われ、「うれしかったけど、責任重大やと感じました。安藤さんとのやり取りで商売のやり方を勉強させてもらいました。チキンラーメンの最初のスープは鳥芳のトリで作った。それが自慢です」というのです。


『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

さて、スープ作りは仁子が担当しました。トリのぶつ切り、トリガラ、野菜に香辛料を加え、寸胴(ずんどう)鍋で五時間ほど炊き出します。トリの頭はきれいに洗います。百福はいつも、トサカを指さして、「ここからいいダシが取れるんだ」と言いました。

仁子ら女性軍は大きな声で一緒に歌を歌いながら働きました。ご近所にはうるさかったでしょうが、もう誰もそんなことは気にしません。不思議な高揚感が家族を包んでいました。

「食べ物には国境がない」


蒸しあがった麺は熱いうちに手でもみほぐし、竹で作ったスノコの棚に並べて陰干しします。水やり用のジョウロで麺にスープをふりかけて味をつけた後、金網でできた四角い型枠に詰め、百六十度の油が入った中華鍋にゆっくりとつけます。

麺を油で揚げる仕事は男手が必要になり、仁子の姉澪子の長男一馬と、四男那茅満(なつみ)が手伝いに来ました。

揚がった頃合いを見て引き上げると、麺は焼き菓子のように黄金色になっていて、香ばしいにおいが広がります。それを宏基が一個ずつ袋に入れました。明美はその袋を足踏みシーラーで閉じる役でしたが、シーラーの電熱部に触れてしょっちゅうやけどをしました。

実はこの頃、まだ国内で売れるめども立っていないのに、アメリカに輸出を始めていました。百福が親しかった貿易会社の知人に頼んで、サンプルをアメリカに送ってもらうと、すぐに五百ケースの注文が来たのです。

国内向けの製品は三十食ずつ段ボールに詰めていきます。アメリカ向けは、その段ボール六ケースをまとめて、さらに大きい段ボールに詰めました。一ケースの段ボールと区別するためにこれを単に“ボール”と呼んでいました。

ふたたび宏基の出番です。「作業の中で一番楽しかった」というボールに「MADE IN JAPAN」「EXPORT」と刷り込む仕事に熱中しました。これは百福がボール紙に筆で書いた文字を切り抜いて型紙にし、宏基がその上から墨を塗って転写したのです。

百福は「食べ物には国境がない」と感じていました。

「将来、ひょっとして世界的な商品になるかもしれないぞ」

そんなかすかな予感にふるえたのでした。

魔法のラーメン


百福は誰かにものを頼む時は、「チキンのスープを運んでくれ」などと、いつも「チキン、チキン」と叫んでいました。商品名がチキンラーメンになったのは自然の成り行きでした。

「油で揚げた後に出るヒゲ(麺のかけら)をがばっと手でつかみ、どんぶりに入れて、白ネギを振り、湯をかけて食べた。これがうまかった」

宏基は当時の味を、今も忘れることはできません。

のちに、日清食品の社長に就任した際には、「私は門前の小僧。小さい時から親父の仕事を見てきたので、知らず知らず即席麺の知識が身についた」と、百福のそばで開発を手伝った喜びを語りました。世の中は創業家の二代目には厳しい見方をするものですが、宏基には、「おれはただの二代目じゃないぞ」という強い気概があったのです。

「さあ、お湯をかけて二分で食べられます。チキンラーメンはいかがですか」

6月になると、梅田阪急百貨店地下食料品売り場で試食販売をしました。いまは、お湯をかけて三分ですが、最初は二分でした。

百福にとっては初陣です。小麦粉と食用油にまみれた作業着を脱いで、久しぶりにスーツに着替えました。

客の前でチキンラーメンの入ったどんぶりにお湯を注いでフタをします。でき上がったら取り分けて、刻みねぎをあしらって出すと、あっけに取られています。

「あら、ほんまのラーメンや」

「おいしいやないの」

客は口々にほめてくれ、持参した五百食はその日のうちになくなりました。

百福は客の反応をつぶさに見て、「これは売れる」という手ごたえを感じました。そして、いつしか人々はチキンラーメンのことを「魔法のラーメン」と呼ぶようになったのです。

「またここへ戻ってきたのか」


試食販売の評判は良かったのですが、正式に販売するには、生産量がまったく足りません。資金もそろそろ底をつきかけていました。

「ああ、今月はもう千円しか残ってないわ」

仁子が大きなため息をつくのを、宏基は覚えています。

「あの頃は貧乏で、毎晩、イワシの煮つけでしのいだ」ことも。

いつまでも家族の手作業に頼っていては商売になりません。大量生産する工場が必要になりました。百福は知人に頼み込んで百万円の借金をしました。そのお金で、大阪市東淀川区田川通り二丁目にあった古い倉庫を借りました。十三の近くです。仁子にとって、少女時代に一番苦しい生活を強いられた場所でした。

「またここへ戻ってきたのか」と内心は穏やかではありません。でももう三十年近くの月日がたっています。街並みもずいぶんきれいになりました。あの頃の追いつめられた生活と、新しい目標に向かって進んでいる今の状況とは比較になりません。

「いろいろな苦労を乗り越えてきたから、いまの私がある」

また、クジラのように呑み込んでしまいました。すると、将来への不安は消えていきました。

ある日、工場の仕事を手伝っていた仁子が帰宅途中、十三大橋を渡っていて友人に出会いました。仁子は出来たばかりのチキンラーメンが入った段ボールケースを下げていました。

「いまご主人は何をされているんですか」と聞かれました。

「ラーメン屋さんです」

「あら、ラーメンですか」とちょっと驚いた顔です。

その頃、ラーメンというと引揚者や職を失った人が、仕方なくラーメン屋台を引くというイメージだったのです。

「主人は将来必ずビール会社のように大きくなると言っています。ラーメンにはビールと違って、税金がかかりませんからね」

そう言って胸を張りましたが、分かってもらえない様子でした。

初めての経験


当時、うどん玉が一個六円、乾麺が一袋二十五円でした。チキンラーメンは一食三十五円で発売されました。どの問屋さんも異口同音に「高い」と言いました。なかなか扱ってもらえなかったのです。

1958(昭和33)年の8月25日、大阪市中央卸売市場(大阪市福島区)で、チキンラーメンが初めて正規商品となり、店頭で売られました。扱い店は少しずつ増えていきました。

ある日、めったに鳴らない工場の電話が鳴りました。

「安藤さん、売れるがな。チキンラーメン、百ケースでも二百ケースでも持ってきて」

次から次と、問屋から注文が入ります。

「現金前払いでええから、できるだけぎょうさん回してくれ」

「なんならこっちからバタコでとりにいきましょか」

バタコとは、当時関西でよく売れていたダイハツの三輪トラック「ミゼット」のことです。

「チキンラーメンがほしい」というお客さんの声が小売店から問屋に届き、注文が殺到し始めたのです。

十三田川工場のボイラーに火が入るのは毎日午前三時。深夜十一時過ぎまで作業が続きました。それでも、一日六千食作るのがやっとです。出口には問屋の車が並んで、製品が出てくるのを待っています。目の回る忙しさに変わりました。

「門前市をなす、とはこういうことなのか」

百福も初めての経験に驚きました。

「日清食品株式会社」を創設


発売から約四か月たった12月20日、成功を確信した百福は「日々清らかに豊かな味を作りたい」という願いを込めて、「日清食品株式会社」を創設したのです。

同じ頃、建設中だった高さ三百三十三メートルの東京タワーは完成まであと三日でした。

転んでは立ち上がり、立ち上がってはまた転ぶ。文字通り「七転び八起き」の人生に一区切りがつきました。

百福、四十八歳。「ずいぶん遅い出発ですね」とよく言われました。

しかし、百福の答えはいつも同じでした。

「私が即席麺の発明にたどりつくには、やはり四十八年間の人生が必要だった」

日清食品を創業した百福は、チキンラーメンの開発を支えてくれた仁子を取締役に、須磨(仁子の母)を監査役に登用して、二人の永年の献身的な苦労に報いました。

長男の宏寿は専務になりました。定職についたことで落ち着き、中西妙子と結婚して身を固めました。芳徳、光信の二人の男児をもうけました。百福にとって初孫と二番目の孫です。二人は小さい頃から仁子によくなつき、仁子も二人ををたいそう可愛がりました。

百福はのちに、宏寿に社長の座を継がせましたが、二人の間に経営観の違いが生まれて、わずか二年で社長を退任しました。

宏寿は晩年、仁子への思いをこう語りました。

「仁子さんには感謝している。私にとても気を遣ってくれたことへの深い恩義を感じている」

※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。

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