相鉄新横浜線開通で存在感を高めた「相模鉄道」。<砂利輸送からの転換>という異色の経歴、東急を手本にするような施策に取り組んできたその歴史
2024年4月9日(火)6時30分 婦人公論.jp
相模鉄道が大手私鉄として認識されるようになったのは、比較的最近だそうで——(写真提供:Photo AC)
『沿線格差』という言葉を目にすることが増えましたが、フリーライターの小林拓矢さんいわく、「それぞれの沿線に住む人のライフスタイルの違いは、私鉄各社の経営戦略とも深くかかわっている」のだとか。今回はその小林さんに「相模鉄道沿線の魅力と実情」を紹介していただきました。小林さんが言うには「相模鉄道が大手私鉄として認識されるようになったのは、比較的最近」だそうですが——。
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相模鉄道沿線の魅力と実情は?
神奈川県内のみの路線網ではあるものの、東急電鉄やJR東日本を介して都心に乗り入れることで知名度と存在感が大きく上がった相模鉄道。
そもそも、首都圏の大手私鉄として認識されるようになったのは、比較的最近のことである。
相模鉄道は、1990(平成2)年5月末に、日本民営鉄道協会において「準大手私鉄」から「大手私鉄」へと昇格することになった。
現在では10両編成や8両編成の列車が当たり前に走っている鉄道事業者ではあるものの、住宅地に通勤電車を走らせるという形態になるまでは紆余曲折(うよきょくせつ)があった。
そもそも、相鉄グループの源流は、橋本と茅ケ崎(ちがさき)を結ぶ現在のJR東日本相模線である。
この路線が相模鉄道として開業した。
砂利輸送
現在の相鉄本線にあたる路線は、1926(大正15)年5月に神中(じんちゅう)鉄道が開業させたものだ。
最初に開業したのは、二俣川(ふたまたがわ)から厚木の間で、同年4月には茅ケ崎方面から延伸を続け、厚木へと到達した相模鉄道と接続した。
当時の相模鉄道や神中鉄道は、蒸気機関車列車が中心で、砂利輸送を行なっていた。東京圏の大手私鉄としては、異色の経歴を持つ鉄道である。
人を運ぶことが第一ではなかったのだ。
その後、神中鉄道は横浜市中心部に向かって延伸を続け、1933(昭和8)年12月に現在の相鉄本線にあたる区間が開業した。
ちなみに、1941(昭和16)年11月に神中鉄道の旅客輸送は厚木へ向かうのをやめ、海老名に向かう路線になっている。
それぞれの会社は前後して東急の五島慶太の手に落ち、1943(昭和18)年4月に合併した。
しかし、戦時輸送のために相模鉄道の区間は国有化することになった。
そこで、もともとは神中鉄道だった路線が、相模鉄道となる。アジア・太平洋戦争末期から終戦直後の混乱期は、経営を東急に委託していた。
都市型電鉄会社への転換
戦後、東急から独立した相鉄は、横浜駅周辺の開発に力を入れる。
一方で、鉄道事業の拡充にも取り組んだ。
しかし、全線電化は1944(昭和19)年に済んでいたものの、1974(昭和49)年3月まで、全線複線化は完了しなかった。
この間、沿線は横浜の郊外住宅地として発展していく。相鉄も宅地開発に力を入れ、スーパーマーケットなどの関連事業も行なうようになった。
宅地開発とあわせて相鉄発展の源(みなもと)になったのは、相鉄いずみ野線の建設である。
東京圏の大手私鉄としては、異色の経歴を持つ鉄道である(写真提供:Photo AC)
1976(昭和51)年に二俣川からいずみ野までの区間が開通。1999(平成11)年3月に湘南台までの全線が開業した。
このように、鉄道事業の強化、不動産事業への注力、生活関連産業の充実と、過去の東急グループがやってきたことを手本にするような施策に取り組み、企業を発展させていったのが相鉄である。
横浜駅の相鉄ジョイナス内の百貨店は、自社系列ではなく高島屋がテナントとして入っているものではあっても、一応は百貨店として存在しており、ビジネスモデルの観点からは貨物中心の私鉄から都市型電鉄会社への転換に成功しているといえる。
これから伸びる沿線
本線といずみ野線のみ、乗り入れもないという手堅い私鉄が、以前の相鉄だったが、転機がやってくる。JR東日本や東急への乗り入れの計画が決まったことだ。
それまで、都心へ行くのに横浜駅での乗り換えを必要としたことが、沿線ビジネスの主体としての相鉄グループの弱点となっていた。
JR東日本や東急との直通が決まり、東急との直通は東京メトロ副都心線や南北線、都営三田線とも直通するということで、沿線の価値も向上することが期待された。
相鉄・JR直通線が開業したのは2019(令和元)年11月、相鉄・東急直通線が開業したのが2023(令和5)年3月である。
相鉄新横浜線ができたことで、相鉄は大きく変わった。
これを見越して、相鉄はグループを挙げて「沿線力」を強化した。「選ばれる沿線」を相鉄も掲げるようになり、イメージアップのための施策に取り組むようになった。
その代表が、「デザインブランドアッププロジェクト」である。
「ヨコハマネイビーブルー」をイメージカラーとし、それを基調に車両だけではなく、駅などのデザインや表示物もより洗練されたものに変えていった。
この「ヨコハマネイビーブルー」は、深みのある青色で、存在感を強く示せる色となっている。
JR東日本に直通する12000系と、東急に直通する20000系(東京メトロ副都心線方面に向かう)や21000系(東京メトロ南北線や都営三田線方面に向かう)に採用され、従来の車両も塗色変更が進みつつある。
相鉄とはかくあるもの、という存在感を乗り入れ先においても示し、相鉄に興味を持ってもらい、沿線に住んでもらうというのが基本的な考え方となっている。
これまでは、都心から離れた郊外にある環境の整った住宅地、というのが相鉄の沿線だった。
都心直通にともない、大手私鉄としての存在感を高め、「選ばれる沿線」としての価値向上に力を入れている。
これから伸びる沿線は、相鉄沿線ではないだろうか。
※本稿は、『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
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