八代亜紀さん、急速進行性間質性肺炎で急逝。専属ヘアメイクとして29年間を過ごした大内さんが最期を語る「約束していたエンゼルメイクを施して」

2024年4月17日(水)12時30分 婦人公論.jp


八代亜紀(やしろ・あき)さん

「雨の慕情」「舟唄」などで知られる《演歌の女王》八代亜紀さんが、2023年12月30日、急速進行性間質性肺炎で亡くなった。八代さん専属のヘアメイクとして長い年月を共にした大内聡子さんと、大内さんの夫で八代さんと長く親交があった俳優の新田純一さんが、八代さんを偲び語り合う(構成:平林理恵 写真提供:大内さん)

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すぐよくなるだろうと思っていた


新田 もう八代さんに会えないなんて、まだ信じられない。9月に入院されるほんの1週間前に、旅番組のロケで香川県に行き、一緒に讃岐うどんを食べて……。楽しかったよね。

大内 いつも通りの明るくて元気な八代さんでした。

新田 夕食の後は、お酒やつまみを買い込み、スタッフ全員が八代さんの部屋に集まって恒例の飲み会。八代さんはほとんどお酒を飲まないんだけど、いつもおしゃべりの中心にいて、「お酒足りてる?」と、気配りも忘れない。姉御肌で優しくて。

大内 そうそう。一緒に仕事をすると、みんな八代さんが大好きになっちゃう。

新田 あのときもロケを終えて、「お疲れさま」と笑顔で解散。その1週間後くらいに、病院に行ったら膠原病とわかり、急きょ入院することになった、と。そばにいた僕たちが一番驚いた。

大内 ロケに出る前に、八代さんの首のあたりに湿疹みたいなものができていたんです。「あせもかな?」と思って、皮膚科で処方された軟膏を塗り、その上にファンデーションをのせていました。あとから思えば、それが膠原病の皮膚症状の1つだった。

新田 でも膠原病には、急激に悪化して命にかかわるような病気というイメージはないじゃない。すぐよくなると思ってた。

大内 私もそうです。

新田 入院中は限られた人しか入室を許されないから、当然僕は八代さんには会えなかったけど、29年間ヘアメイクを担当していた聡子さんは、八代さんの事務所スタッフと代わる代わる病室へ行き、話し相手になったり、ほしいものを届けたり。僕は、毎日あなたから様子を聞いては、ああ大丈夫だって。

大内 9月、10月、11月と本当にお元気だったんです。病室では、シャンプーをさせていただいたり、足湯を用意してマッサージをしたり。病院食に飽きたとおっしゃるので、大好物の焼き芋を買って持って行ったらすごく喜んでくださって。

新田 電子レンジの使い方を初めて覚えた、と言ってたよね。

大内 そうそう(笑)。それから新幹線の車内でよく召し上がっていた崎陽軒のシウマイ弁当を差し入れたときは、日頃は小食な八代さんがほぼ完食。これが11月の終わりでした。

同じ頃、八代さんの病室に泊まり込んだ日があって。夜、ちょうどテレビで再放送されていた八代さんの特番を一緒に見ながら横で何曲か歌ってくださったんです。声もしっかり出ていて、八代さんも「まだ歌えるよ!」とおっしゃっていた。ご本人も年明けの復帰を信じていたと思います。

新田 僕は八代さんと二人でラジオ日本の『ムーンラウンジ八代』という番組をずっとやらせていただいてきたんだけど、八代さんに「新田くん、頼むよ!」と言われ、入院中はナビゲーターとして一人、番組の留守を守っていた。

病室で聞いている八代さんに向けたコメントを入れたりしながら、パワーアップした八代さんが年明けに戻ってこられるんだな、と勝手にワクワクしてたんだ。


フランスでの公演用に八代さんが描いたイメージ画(右)をもとに制作された着物を着た八代さんと(写真提供◎大内さん)

最期の最期にキラキラ光る涙を……


大内 12月に入ってから、検査の数値で引っかかるところが少しずつ出てきてしまいました。でも、スタッフはみな「絶対によくなる」と思ってた。ところがその後、だんだんお話ができない状態になって……。「急速進行性間質性肺炎」という病名がついていたことは後になって知ったのですが。

新田 12月30日に、「緊急な状況だから、すぐに病院に来られますか?」と事務所の方から連絡があり、急いで車で病院へ向かいました。僕は聡子さんを送り届け、自分は車のなかで待つつもりだった。ところが着いたら、「もう危険な状態だから、新田さんも上がってください」と言っていただいて、ご厚意で特別に会うことができました。

病室へ行くと、八代さんを取り囲み、みんなが口々に声をかけている状況だった。それぞれ八代さんへの思いを口にしていて、僕はひたすら感謝の言葉を伝えました。

大内 私も感謝とともに、八代さんに思い出していただきたくて、思い出話を語りかけました。

新田 あのとき、最期の最期に、八代さんが、キラキラ光る涙を一粒だけ流された。僕しか見ていなかったのかもしれないけれど、確かにこぼされた。それは、「ちゃんと声は聞こえているよ」ということなんだろうなと思いました。

大内 私は、息を引き取られてからすぐ、まだ肌にぬくもりのあるうちに、エンゼルメイクをさせていただいたのです。生前からお約束をしていたことなので、私なりの最後のお仕事をしっかりつとめ上げようと臨みました。

看護師さんたちが処置をなさるのと同時進行だったのですが、私のメガネに涙がボタボタと落ちて溜まってしまい、全然はかどらなくて。でも、葬儀社の方が迎えに来る時間が決まっていたから急がなくてはならず、胸が張り裂けそうでした。


大内聡子さん(右)と、俳優の新田純一さん(左)

新田 29年の間に、付き人さんやマネジャーさんが何人も替わっていくなかで、ヘアメイクのあなたはずっと八代さんと一緒だった。

大内 実は25年ほど前に八代さんと交わした約束があったのですが、当時を知る人間が私しかいなくて。それは何かというと、焼き芋が大好きな八代さんに、「もしも私が死んじゃったら、お棺の中にお芋を入れてね」と言われていたんです。

お茶目な八代さんの冗談だったのかもしれませんが、お約束を果たしたくてスタッフのみなさんに話したら、ぜひ入れましょうと言ってくださり、お顔の近くにお芋を入れることができました。

新田 亡くなった翌日は大晦日。人が集まるのが大好きだった八代さんがきっと望んでいるだろうと、翌日もみんなで集まったよね。いつものように「おはようございます」と声をかけて、手を合わせて、献杯。目の前で起きていることが信じられなくて、不思議な感覚だった。

大内 私も、病気が人の命を奪っていくさまを目の当たりにしたけれど、それを心が受け入れられない状態でした。

新田 マスコミ発表が1月9日。泣いたりするのは八代さんが好まないと思ったので、八代さんとやっていたラジオ番組で、淡々と八代さんの思い出を語りました。これまで「弟分」としてずっとかわいがっていただいて、これから恩返ししていけるかなと思っていたのに。

大内 1月中は、ホントにつらすぎて、私は脱け殻のようでした。今、四十九日も過ぎて、「日にち薬」という言葉もあるように、少しずつ変化してきました。とはいえ、何かにつけて八代さんとの思い出が蘇ってしまって……。

<後編につづく>

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