「実はオレ、ガンで…」『日曜劇場』大改革を成し遂げたショーケンこと萩原健一。元TBSプロデューサーと交わした最後の別れ

2024年4月26日(金)12時30分 婦人公論.jp


寺田課長(萩原健一)は、災難続き(『課長サンの厄年』第1回より)(写真:『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』より)

昭和天皇崩御にリクルート事件。様々な現象や事件が、立て続けに昭和の最後に起こりました。そんな歴史の転換期に、「平成」初のテレビドラマ『代議士の妻たち2』をつくったのが、元TBSプロデューサーで現・日本映画テレビプロデューサー協会事務局長の市川哲夫さんです。今回、著書の『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』から、知られざる当時のドラマ制作の裏側を教えていただきました。市川さんいわく、「ある日『厄年』をテーマにすればドラマが出来ると思い立った」そうで——。

* * * * * * *

日曜劇場


1992年の夏だったが、TBSドラマの看板枠でもあった東芝日曜劇場のリニューアルが囁かれるようになった。93年春から連続ドラマに切り替え、しかも視聴者ターゲットに男性ビジネスマンを取り込みたいとの、大「改革」だった。

秋口に入ると、編成部の近藤邦勝と、制作の先輩プロデューサー・堀川とんこうと「日曜劇場」の連続ドラマ枠について、随時話し合うようになった。堀川が93年4月枠、私が7月枠の担当プロデューサーとなる流れだった。連ドラとなれば、私には4年振りなのでなんとか「成功」させたいと思った。

その時点(92年秋)は、特別企画ドラマ『派閥人事』の制作に取り組んでいた。「経済小説」の名手、清水一行の『頭取の権力』が原作で岩間芳樹が脚本を書いた。幸い、内容的に高評価を受け、月間「ギャラクシー賞」を受けた。

しかし、この手のドラマはスポンサーの東芝は好まない。「日曜劇場」枠拡大で放送された『派閥人事』のスポンサーを降板する一幕があったのだ。いわゆる「社会派」風ドラマは、連ドラの「日曜劇場」では通らないのは明らかだった。

厄年


某日、赤坂の書店を渉猟していると『課長の厄年』(かんべむさし・著)という文庫本が目に留まった。タイトルに閃いたのである。これはイケルと思ったのだ。内容はどうあれ、タイトルが「イタダキ」だった。『代議士の妻たち』の時と同じだった。

私の「厄年」は、前年の91年だった。実際、その年にいわゆる「スランプ」状態に陥った。期首の特別企画ドラマが当たらず、連続ドラマの企画を出しても通らない。90年までとは大違いだった。体調面でも、それ迄と違って「無理」が利かなくなった。

同世代なら、皆似たような経験をしているのではないか。よし「厄年」をテーマにすればドラマが出来るぞと思い立った。私自身、「厄」が明けた92年の6月中旬、「副部長」という管理職となった。一般企業なら「課長」である。

10月の終わりに、編成部に正式に企画を提出した。編成部や代理店・電通の感触は良く、準備を進めることになった。脚本は6年振りに布勢博一に依頼、快諾してもらった。このドラマの成否が、主人公の「課長」を誰が演じるかにあるのは明らかだった。

ここで、私は「逆転の発想」をしたのである。いわゆる「らしい」俳優を起用しても、プラスαは望めないだろう。今まで一度も堅気の「課長」役などやったことのない俳優で、「課長」をやらせたら面白そうな俳優はいないかと絞り込んだ。


『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』(著:市川哲夫/言視舎)

ちょうど、その頃流れていたショーケンこと萩原健一の「サントリー・モルツ」のTV・CMがちょっと気になった。仕事帰りの中年サラリーマンのショーケンが、ビールを飲み干し、「うまいんだなあ、コレが!」と呟く。この様が、実に良かった。

ショーケンが、主人公「寺田喬課長」の本命となった。

ショーケン


以下、『課長の厄年』にまつわる、ショーケンとの交流に絞って書く。

ショーケンとの初対面は、1993年2月18日。白金の「都ホテル」のティー・ルームで会った。事務所の「アトリエ・ダンカン」の池田道彦社長が同席していた。挨拶を交わし、すぐにショーケンに、なぜこの役で貴方なのかと口説いた。

それは、いつでもやる正攻法な出演交渉なのだが、波長が合ったというか、いつの間にか旧友同士のような会話になっていった。ひとつは、生まれた町が私が浦和でショーケンが隣りまちの与野だったこと。年齢もほとんど一緒。しかも、末っ子ということも共通していた。

話しはじめて、20分程度でショーケンが明らかに、「武装解除」したように見てとれた。主演クラスの俳優は、「この男(女)と組んで仕事をしてよいか」という嗅覚を持っている。その「首実検」に、いわば「合格」したようだった。

今、ここでは「ショーケン」と書いているが、私は親しくなってからも「萩原さん」とずっと呼んでいた。ショーケンも、私についてはずっと「市川さん」と「さん」付けだった。

さて、初対面でショーケンは出演を前提に、一つの条件を出してきた。

「テレビって、長いから監督が何人かでやるじゃない。オレの芝居を(通しで)、ずっと見ていてくれる人が欲しいんだよ。プロデューサーが、オレの現場にはいつもいて欲しいんだよ」。

言うまでもなく、PとDは現在では分業化している。

実際にはかなりの難題だったが、「できる限り、そうしたい」と私は応じた(実際、8割位はショーケンの撮影現場には立ち会った。スタジオ収録が終わるごとに、モルツの缶ビールを飲みながら、「あのシーンはどうだった」と語り合いながら、ショーケンがクール・ダウンをして帰宅するというのが慣例となった)。

このドラマは、結果的には大成功となりショーケンにとっても転機となる作品となった。キャスティングが、上手くいったことが大きい。

レギュラーは、長塚京三、石倉三郎、竹内力中野英雄、中丸忠雄の男優陣、石田えり、山口いづみ、渡辺満里奈、床嶋佳子、久本雅美の女優陣。

とくにショーケンは、女優陣は気に入ったようで某日スタジオの現場で、「このドラマに出てる女優は、みんなイイナ!」と言った。

おそらく本音だったのだろう。反面、年下の男優には当たりのキツイところはあったが。

「火」が付いた


レギュラーではないが、実家の両親と姉の3人のキャスト。父が実家で急逝し、ショーケンが駆けつける回があった。父役が、松村達雄、母役が久我美子、姉役が二木てるみだった。

この3人の共通点は何か? いずれも黒澤明監督作品に出演経験がある。

ショーケンの尊敬していた監督は、一に黒澤明、二が神代辰巳、三が深作欣二であった。とりわけ黒澤に対しては崇拝に近い感情を抱いていた。その思いが、第10回で爆発した。

演出陣は、チーフが桑波田景信(ショーケンは、深作タイプと見立て)、セカンドが森山享(こちらは神代タイプと分類)で、ショーケンからそれなりの信任を受けていた。ドラマのクライマックスとなる9・10回は、若手の戸高正啓が演出だった。映像センスなど、若手ながら評価されるディレクターだったが、10回目の「父の通夜」のシーンで、ショーケンからクレームが付いた。

「通夜振舞い」の席に、どんな具合に役者が座るのか、というところから「火」が付いた。

「戸高あ! 黒澤の『生きる』観たことあるだろう。あん時の志村喬の通夜のシーンみたいに並べろよ! 観たよな?」。

もちろん戸高は観ていたが、このシーンとは結び付けていない。

「もちろん観てますが……」

「だったら、今夜ビデオ借りてもう一回見て来いよ! そして明日リハーサルやり直そうよ」と要求。

その日のリハーサル終了後、私が立ち会って3時間を超える濃密な戸高とショーケンの打ち合わせとなった。ほぼ、9割はショーケンからの注文だったが。こういう時の、ショーケンは正に「頭のテッペン」から湯気が立つような熱量を発出する。

はたして、芝居の「神」は、このドラマ(放送では『課長サンの厄年』というタイトルに変えた)を見放さなかった。

戸高の演出した第10回はビデオリサーチ(V)21.5%、ニールセン(N)21.7%という高視聴率を獲得したのだ。社内外でも反響が大きかった。

食事を店でとっていると、普通のサラリーマンたちが「昨日の『課長サンの厄年』面白かったなあ」「ショーケン最高だったなあ」という声が飛び込んで来た。それも、一度や二度ではなかった。全13回平均でも、16.2%(V)、18.1%(N)という数字をマークした。

ショーケンは、このドラマで妻役の石田えりと親しくなり、それまでのパートナーだった女優と別れた。しかし、石田との関係も程なく破局となった。

今生の別れ


ショーケンと私は、それ以後も交流が続いた。私がドラマの現場を離れていた時も、変わらず年に数回は食事をした。

00年代に入ると、ショーケンは体調を崩したり、ケガで入院したり、仕事もトラブルが生じたり、不遇な日々が続いた。

それでも、2009年8月の私のTBSの定年パーティーには駈け付けてくれたし、石田えりと一緒にスピーチをして、会場を沸かせてくれた。

最後にショーケンと会ったのは、2015年の1月22日、冷たい小雨の降る日だった。彼の仕事場近くの行きつけの駒沢公園のイタリアンレストランだった。何年か前に結婚した理加夫人も一緒だった。

ショーケンからの呼び出しの理由は、三つあったと今ではわかる。

一つは夫人の紹介だが、もう一つは「映画を撮りたいから、プロデューサーをやって欲しい」というものだった。

食後、仕事場に案内されショーケンが自ら書いたシノプシスを見せられた。気宇壮大な企画で、エネルギー資源をめぐる国際スパイの話だった。

ショーケンが昔付き合いのあった田中清玄辺りから聞いた話がヒントのようだった。実現可能性はゼロに近かった。

「企画書は読ませてもらって、後で感想を伝えますよ」と言って、自分の仕事場に戻ると言うと、ショーケンが「オレの車で、送って行きますよ」と駒沢から赤坂まで送ってくれた。

車中で、ハンドルを握りながら「実はオレ、……ガンでね、2回手術したんですよ。今でも通院してるんですよ」。

思いがけない「告白」だった。

見た目は以前と変わっていなかったので、半信半疑だった。歌手としてのライブ活動も、むしろ積極的にやっているというのに。

しかし、ある種の「達観」の心境だったのだろうか。

別れ際、「また、会いましょう」「今日はありがとう」と言葉を交わした。

これが「今生の別れ」となった。

その後、メールでのやりとりも間遠になっていった。

そして2019年3月26日、ショーケンこと萩原健一の訃報に接した(あの戸高正啓が、19年末TBSのCSチャンネルで『ショーケンFOREVER』という番組を作って放送した)。

ショーケンの死も又、ひとつの時代の終焉を象徴するものであった。

※本稿は、『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』(言視舎)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「TBS」をもっと詳しく

「TBS」のニュース

「TBS」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ