《心筋梗塞で急逝》「一発屋と言われたっていい」伝説のプロレス漫画家・原田久仁信が生前に語っていた“潔すぎる人生観”とは
2025年5月17日(土)18時0分 文春オンライン
プロレス劇画の金字塔『プロレススーパースター列伝』で知られる漫画家の原田久仁信さんが5月7日、心筋梗塞により急逝した。73歳だった。
原田さんは昨年11月、代表作を回顧した『 「プロレススーパースター列伝」秘録 』(文藝春秋)を上梓したばかり。関連の著者インタビューでは新たな作品への意欲も語っていただけに、長年にわたり仕事をさせていただいた私も、突然の訃報をまだ受け止めきれないでいる。

福岡県に生まれ、静岡県の熱海市で育った原田さんは、高校卒業後にアパレル企業のJUN(株式会社ジュン)に就職するも、すぐに退職。その後アルバイト生活を経て、幼少期からの夢だった漫画家を志した。
1978年に「第1回小学館新人コミック大賞」で入選。1980年よりメジャー誌の『少年サンデー』(小学館)で、梶原一騎原作『プロレススーパースター列伝』の作画を担当した。80年代前半のプロレス黄金期を彩ったこの作品は、プロレス少年たちの「バイブル」となり、いまなお読み継がれている不朽の名作である。
『うる星やつら』『タッチ』時代のサンデーで“実質1位”に
編集者の私が原田さんと面識を持ったのは20年前の2005年。当時、商業誌に連載を持っていなかった原田さんにノンフィクション形式のプロレス劇画を依頼したところ、これが好評を博したため、シリーズ化されることになった。
デジタル全盛の漫画界において一切のツールを使用せず、ペン入れからトーン貼りまで、すべての作業をアナログでこなす原田さんの劇画には、唯一無二の味わいがあった。線路沿いのアパートに構えていた昭和の匂いが残る仕事場で、深夜までプロレス談議に花を咲かせた日々が鮮やかによみがえってくる。
原田さんが『列伝』を連載していた時代、『少年サンデー』には“不動のトップ2”と呼ばれた強力な作品があった。『うる星やつら』(高橋留美子)と『タッチ』(あだち充)である。
激しい生存競争が繰り広げられていた当時の少年漫画誌で、異色の存在だった劇画調の『列伝』は、読者アンケートで“実質1位”(原田さん)の3位に食い込むことが多く、この大善戦には当時の田中一喜編集長も驚いたという。
原田さんはこう語っていた。
「当時の『サンデー』は、青春ラブコメ全盛期でしょう。そこでもって女の一切出ないプロレス劇画ですから、よくこんな連載が始まったと思いますよ。それでも人気作品に育ってくれたのは幸運でした。梶原先生の原作と、当時のプロレスが持っていたエネルギーが、いかに大きなものだったかを改めて痛感しています」
遺作となった『「プロレススーパースター列伝」秘録』の巻末には、『列伝』と原作者の梶原一騎を回顧する劇画作品(「『列伝』よ、永遠なれ」)が収録されている。
同書の構成を担当した私は、劇画のストーリーについて原田さんと何度も話し合い、雑談のなかから描くべき価値のあるモチーフを見つけようとした。最終的に選択されたのが、ラストのシーンで描かれた「本当の自分とは何か」というテーマである。
「僕は当時、佐山の本を読んで衝撃を受けました」
原田さんは、80年代前半の新日本プロレスで活躍し、マット界の伝説となった初代タイガーマスク(佐山聡)についてこう語った。
「マスクを脱いで素顔になった後、佐山はUWFに参戦し、その後『ケーフェイ』という本を出しています。僕は当時、その本を読んで衝撃を受けました。佐山はリアルの格闘志向を持っていた人間で、“飛んだり跳ねたり”のタイガーマスクは、彼の目指していた場所と対極の位置にあったというのですから」
『ケーフェイ』(ナユタ出版会)は1985年に刊行された、知る人ぞ知る「禁断の書」である。プロレス界の隠語である「ケーフェイ」とは、部外者に漏らしてはいけないプロレスの秘密の核心、つまりプロレスの試合には、あらかじめ決められたシナリオが存在するという事実を指している。
同書のなかで、『週刊プロレス』の山本隆司記者(後のターザン山本編集長)は佐山を指し「ドラムを叩きながら、心のなかではチェロを演奏しているような男」と書いた。
心のなかでは真剣勝負の世界を希求しながら、巨大な商業主義の軍門に降っていた佐山の屈辱を表現したものと思われるが、当時、プロレス界のスーパースターが密かに抱えていた自己不一致の苦悩を理解していたファン、関係者は少なかったはずである。
もっとも、佐山の生きざまを追い続けていた原田さんはこう続けた。
「あのとき、佐山はプロレスを否定し、虎の仮面を脱ぎ捨てた。ただ長い年月を経て、再びタイガーマスクとしてプロレス界に復帰したとき、僕は嬉しかった。タイガーマスクとしての自分を受け入れた、つまり人間が自分の過去を否定する必要がないということに、やっと気づいてくれたんだと思ってね」
原田さんはこのとき、タイガーマスクこと佐山聡の姿と、自分自身の漫画家人生を重ね合わせていた。
『列伝』や『男の星座』といった作品で一躍名を上げたものの、大物原作者だった梶原一騎が1987年に死去した後、原田さんはなかなかヒット作を出せないでいた。高度な似顔絵の画力がかえって災いし、「似顔絵じゃないと注目されない」「自分で作ったオリジナルのキャラクターでは反響が出ない」という大きなジレンマを抱えることになったのである。
「当時は悩みました。梶原先生に指名されたのはラッキーだったけれども、最初に最高の仕事をしちゃったのかなと。でも、僕は佐山のような突出した才能がなかった分、割と素直に自分の現実を受け入れられたと思います。一発屋と言われたっていい、読者からプロレス劇画だけを求められているのだったら、とことんそれをやればいいやってね」
その言葉を聞いたとき、私は「タイガーマスク」の生みの親である梶原一騎の人生を想起していた。「理想の自分」と「現実の自分」の不一致に思い悩む——それはまさに若き日の「劇画王」の姿だったからである。
「漫画なんて」「プロレスなんて」と卑下していた仕事の価値を認め…
改造社、新生社で文芸編集者をつとめた高森龍夫を父に持つ梶原は、教護院暮らしを経験した「札付きのワル」でありながらも、純文学の世界を志した文学青年だった。念願かなって10代で小説家デビューを果たすも、すでに純文学は斜陽の時代に入っており、出版社から依頼される仕事は漫画の原作ばかり。
当時の梶原は、食うために、生きるために、やむなく本心を押し殺して仕事を引き受けていた。だが、それらの作品が大きな評価を受けたことで、梶原はやがて考えを改め、劇画原作者としての生き方を受け入れ、誇りを持つようになる。
思い通りにならない人生に、どう折り合いをつけ、自分自身を納得させていくか。この点において、梶原一騎、タイガーマスク、そして原田さんは最終的に同じ結論に到達している。
「理想の自己像」とは、必ずしも自分自身が思い描いたものになるわけではなく、むしろ他者によって作られるという人生の要諦を、三者はそれぞれの形で証明してみせた。「漫画なんて」「プロレスなんて」と卑下していた仕事のすばらしい価値を認め、受け入れたのである。
『秘録』巻末の劇画では、覆面を脱いだタイガーマスクが梶原一騎にこう語るシーンがある。
<タイガーマスクが……私の人生そのものになったのですよ 先生!>
タイガーマスクを『列伝』あるいは『プロレス劇画』に置き換えれば、それは原田さん自身の「心の叫び」でもあったのではないだろうか。
「吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん……」
昨年11月、新刊に著者サインを入れるため都内へやってきた原田さんは、ふとこんなことを語っていた。
「久しぶりに(梶原一騎の墓がある)護国寺に行ってきました。報告しとかなきゃなって(笑)」
このとき原田さんは、お気に入りだった梶原一騎の「辞世の句」をそらんじて見せた。
「吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん……」
作家死すとも、作品は死せず。原田さんの「プロレス劇画一代」にいま、惜しみない拍手を送りたい。
(欠端 大林)
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