愛人から迫られ離婚を切り出した38歳の赤塚不二夫。快諾されてなぜか当人がショック状態に…「ウソ、離婚してって俺が言ったの?」

2024年5月17日(金)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

『おそ松くん』『天才バカボン』など、「ギャグ漫画」のジャンルを確立した天才漫画家・赤塚不二夫先生。晩年期の赤塚先生を密着取材していたのは、当時新聞社の編集記者だったジャーナリストの山口孝さんです。山口さんは、先生から直接「評伝」の執筆を勧められ、長い時間をかけ『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』を書き上げました。「最後の赤塚番」が語った、知られざる「赤塚不二夫伝」を一部ご紹介します。

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「天才っていうか、天分」


「俺は女を捨てたことはない。みんな、(俺が)振られたようになって終わる」と自慢げに話したことがある。

登茂子(=最初の妻)は「あれね、天才っていうか、天分」と言う。

「別れるにあたっては、自分から言ったことはまずないんじゃないですか。私が最初で最後。絶対自分から言わない。相手が離れていくのを待っている」

73年の秋だった。家に帰ってくるなり、「別れてくれ」と切り出された。

愛人から「私が慰謝料払うから、離婚してください」と迫られたためと言う。

登茂子は即座に、「はい、分かりました」と答えていた。

赤塚の思い込み


「私、とにかく気が強いし、エエカッコしいでしたから……」

登茂子は同時に、自分の気の強さを悔いている。

「嫌だって言ってたら、たぶん離婚にならないで、(家にほとんど帰ってこない)別居状態が続いただけだと思う。でも私、『離婚してくれ』って言われたら、嫌ですなんて言えないんです」

赤塚自身も、はずみで言ってしまったものの、本気ではなかった。それどころか、登茂子のほうから離婚を切り出されたと思い込んでいたのだから……。

もっとも、離婚に至るような、伏線はあった。

いつも、言った言わないでけんかになる。

「言ってないよー! 違うよー!」

「何よ、もう腹立つバカヤロウ!」と掴みかかろうとすると、「格好いい!」とはぐらかされ、腰砕けになって修羅場にならない。そんなことの繰り返しだった。

「金も名誉もあるし、女にもモテる。ネックは女房子どもがいること。だから、離婚する気は本人にも少しはあったと思う。愛人の言葉で弾みがついて、それが引き金になった。もっとも、その愛人と一緒になる気は、さらさらなかったでしょうけど」と、登茂子は振り返る。

赤塚自らが切り出した「離婚」のはずが


離婚を宣告された翌日、新聞の弁護士事務所欄を探して、弁護士を手配した。

「崖から突き落とされた心境でした。でも、もういいや、という気持ちもあって……、相当泣きもしたから」


(写真提供:Photo AC)

弁護士同伴で仕事場のひとみマンションに行ったら、赤塚のほうがショック状態になってしまった。自分から切り出しておきながら、登茂子側から離婚を迫られたと思い込んでしまったのだ。

それが分かったのは、別れて20年以上も経ってからだった。

「『あっ、俺が言ったの? ウソ』だって。信じられない」

離婚の直前


話し合いの結果、当座の生活費として100万円の小切手を渡された。

住んでいる中野区の家を渡す。家具調度、電化製品などは新しくする。8歳の娘のりえ子が成人するまでは、毎月40万円の養育費、生活費を払うことも決められた。

赤塚はりえ子の親権を望んだが、登茂子は拒否した。りえ子だけが、生きがいになったのである。

別れる直前、登茂子は、「赤塚先生はウハウハやってる24時間。それに比べて私は泣いてる24時間。こんな割りに合わない24時間なんて……、ああやめた」と開き直ったという。

すると、食欲ががぜんわいてきて、「太った、太った。(服のサイズが)7号から9号になって。浅丘ルリ子みたいだったのに……。ストレス、緊張感から解放されたのね」。

73年11月5日、ふたりは離婚した。

赤塚38歳、登茂子33歳、りえ子は8歳になっていた。

※本稿は、『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』(内外出版社)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

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