「心筋梗塞で生死さまよった」グレート義太夫が語る、“激やせ”した壮絶な闘病と師匠たけしの言葉

2024年12月15日(日)8時0分 週刊女性PRIME

グレート義太夫(65)1983年にビートたけし氏に弟子入り。『オレたちひょうきん族』をはじめ、たけし軍団としてバラエティー番組で活躍。また、ミュージシャンとしても活躍した。1995年糖尿病の診断を受け、やがて糖尿病性腎症を発症。2007年透析治療を開始。現在は、透析治療を受けながら芸能活動を続けている。



「たけし軍団」のグレート義太夫は1995年ごろから糖尿病を発症し、2007年からは末期腎不全のため透析治療を開始。現在も闘病生活中だ。そして今年8月、心筋梗塞で倒れ手術を受け、SNSには「痩せてる……無理のない範囲で頑張って!」などエールのコメントが多く寄せられた。週刊女性取材に対し元気な様子を見せるが、生死をさまよう壮絶なものだった─。

「冗談抜きで、死にかけました。心筋梗塞が2か所見つかって。手術後目が覚めたとき、先生に“ギリギリでした。あと少し遅かったら本当に命が危なかった”と言われました」

 そう話すのは、お笑い芸人のグレート義太夫(65)。

7秒間、心臓が止まった

 異変が発見されたのは、今年8月、人工透析のためクリニックを訪れたときのこと。

「透析前にいつもどおり血圧を測ったら、上が70mmHgしかないんです。脈拍は通常一分間に80回のところ、46回でした。心音を聴いた先生に“これは透析している場合ではない、病院へ行くように”と言われ、でもこの後仕事があるとゴネたら、“このままだと命の保証はできません”と言われて」

 クリニックから救急車で大学病院へ救急搬送され、そのまま緊急手術と告げられる。

「お医者さんがいっぱい集まって、ミーティングを始めて。午後2時から手術で、目が覚めたのが翌日のお昼でしたね」

 10時間に及ぶ大手術だ。気づけばなぜか太ももが痛い。医師に「太ももの血管を使って心臓にバイパスを通した」と聞かされた。麻酔が覚めたときの記憶が鮮明にあると話す。



「先生が言っていることはわかるのだけど、動けないし、しゃべれないから、こちらの意思が何も伝えられないんです。それが怖かった。麻酔が徐々に抜けても普通にしゃべれなくて、ひょうきん族で片岡鶴太郎さんがまねしてた浦辺粂子さんみたいな感じです(笑)」

 そこでまず頭をよぎったのが仕事のこと。緊急手術・入院でキャンセルした現場も、この先の予定もある。

「もう漫談に復帰できないんじゃないかと思って、それがすごく心配で。マネージャーに頼んであちこち連絡してもらいました。ダンカンさんには“しぶといね!”って言われましたね。というのも、以前自動車事故で一度死にかけていて。“なかなか死なないね!”って、愛のある言葉をいただいてます(笑)」

 手術後はCCUで3日間過ごし、一般病棟へ移される。そこで退院の日取りを決めるはずだったが─。

「次の日、朝食後に薬を飲もうとしたら、手がおぼつかなくてぽろりと床に落ちたんです。拾おうと思ってかがんだら、そこからもう記憶がなくて」

 気づくとベッドに横たわり、医師、看護師に囲まれていた。その表情が何とも険しい。

「先生が言うには、心臓が7秒間止まっていたそうです。不整脈です。それでまたCCUに逆戻り。看護師さんに“あれ、戻ってきた!”って言われちゃいました(笑)」



スパルタなリハビリを開始



 病状が安定すると、一般病棟に移り、リハビリを開始。

 大手術だけに痛みもあった。寝返りはうてず、咳もできず、くしゃみをすれば激痛が走る。

「でもリハビリが結構スパルタで、エアロバイクをこぐんですけど、メトロノームをつけて1分間に50回こがないとダメなんです。それを計30分間。1週間以上ずっと寝ていたから、脚の筋肉がすっかり落ちていて、これがキツかった」

 入院生活は約1か月間。退院時に除細動器を装着された。不整脈が出るとアラームが鳴るベスト型の装置で、今も常時着用しているという。

「倒れると“119番に電話してください、こういう処置をしてください”って液晶画面にメッセージが出て、周りに知らせてくれるんです。本体もそうだけど、バッテリーがついてるからすごく重くて。お風呂に入るとき以外ずっとつけてなきゃいけないから、邪魔くさくはあるんですけど」

 一命を取り留め、仕事にも復帰を果たした。しかしもともと糖尿病患者で、心筋梗塞ももとをただせばそこに行き着く。糖尿病は万病のもとといわれるゆえんだ。

「親父も糖尿病で、食道静脈瘤破裂で死んでいます。母親が親父のために糖尿病食を作っていたんですけど、後で母親に聞いたら、隠れて買い食いしてたみたい。ダメダメな患者だったんだなと。糖尿病の原因の多くは遺伝で、自分は病気とダメな部分、両方を受け継いじゃった(笑)」

 糖尿病歴は長く、父が亡くなった翌年、37歳のとき発症。予兆はやはりあったそう。

「まず目に出たんですよね。テレビを見ていたら洋画の字幕がぼやけるようになって、ある日立ち上がったら、そのまま倒れて救急車で運ばれて」

 血液検査をすると、血糖値が通常100mg/dL前後のところ、630mg/dLまで上がっていた。

「その場で“今すぐ入院です!”って言われました。なんでも病院歴代2位の記録だったそうです(笑)」

 と自虐する。



離婚していきなり生活が荒れちゃった

 糖尿病治療で求められるのが食生活の改善。遺伝に加え、暴飲暴食の自覚はあった。

「当時は結婚していたので、奥さんが野菜中心のスープを作ってくれていましたね。コンソメだったり、ミネストローネだったり、シチューにアレンジしたり。なのであのころが一番数値は落ち着いてました。でも離婚して、いきなり生活が荒れちゃった(笑)」

 通院はサボリがちで、「これ以上ウチでは面倒見きれない」と2か所の病院で見放されてしまう。合併症で糖尿病性腎症も発症した。いつしか病気は進行、48歳のとき、ついに透析をスタート。以来週に3回クリニックに通い、1回5時間の透析を続けてきた。

 週15時間ベッドに拘束を余儀なくされ、諦めた仕事も多い。

「泊まりでの営業は行ったことがないですね。一度新潟の講演会の依頼があって、受けようと思ったけれど、どうしても透析日とかぶっちゃう。難しそうだと伝えたら、向こうが“わかりました。じゃあ透析もつけましょう”と言い出して。初めてのアゴアシ・透析つきの仕事です(笑)。ただ残念ながらこれは実現しなかったけれど」

 心筋梗塞の手術後は、改めて食生活の改善に努めた。効果は顕著に表れ、透析も1回4時間に減少。今は優良患者だと胸を張る。

「食べるものには気をつけています。遅いといえば遅いんですけど。身体にいいと聞いて、豆腐と納豆ばかり食べていたら、1週間で4kgくらい落ちて。

 糖尿病が悪化したのかと思って、ドキドキしましたね。透析の先生に“ちゃんと食べられていますか”って聞かれて、“納豆と豆腐だけにしています”と言ったら、“極端すぎる”って叱られました(笑)」

 現在は外食は控えめに、1日1800kcalを目安に節制中。それでも食べたくなってしまったときは?

「心臓が止まったときのことを思い出すようにしています。命に関わったので、さすがにこたえた。やっぱりあれにはかえられない。我慢しようという気持ちになります」

 舞台にも無事復帰した。浅草の演芸場『東洋館』をホームグラウンドに、週3回の透析を続けつつ、ライブ出演を敢行している。

弟子になって初めて師匠に褒められた

 『東洋館』といえば、師匠・ビートたけしの原点だ。透析を始めた当初、師匠から『夏目亭透析』の芸名を与えられ、寄席の際はその名で高座に上がる。

「弟子になって初めて師匠に褒められたんですよ。“たけし軍団で今人前に出てネタやってんのおまえだけだもんな”って言われて、それがすっごくうれしくてね。

 ただ“50歳過ぎてテレビから演芸場行くのおまえくらいだな。普通は逆だよなぁ”とも言われましたけど(笑)。

 いつか師匠が見に来てくれたらうれしいですね。年明けも『東洋館』に出る予定。なんとか今回生き延びたので、もうちょっとこの世界にいられたらと思っていて。ただ、これからの漫談は、間違いなく病気ネタが増えてくるでしょうけどね(笑)」

<取材・文/小野寺悦子>

週刊女性PRIME

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