世界の生成AIで次世代を伸ばす教育、日本の次世代を破滅させる教育

2023年5月31日(水)6時0分 JBpress

 5月14日、石川県金沢市で先進7か国「教育大臣会合」が開かれ、AIと教育に関する各国首脳の意見が交換されました。

 議論の結果はグローバルに「AIと教育に関する 富山・金沢宣言」にまとめられたというのですが・・・。

 その内容をチェックしてみると、2020年代日本の教育はますます地盤沈下の度合いを深めるのではないかと懸念せざるを得ない代物になっていました。

 今回は、教育と生成AI、高度自律型知的情報システムの本質的な問題を考えてみましょう。


親子で遊ぶ芸術と科学の新しい出会い展

 初めに、前回も紹介した東京都美術館で開催された「芸術と科学の新しい出会い」展を実例に、いくつか考えてみたいと思います。

 写真は、来場者の親子連れに遊んでもらい、許可を得て掲載するものです。

 5歳の坊やが、お父さんに「たかいたかい」してもらいながら、VR空間での視覚の変容を体感している実際の風景です。

 やらせなどではありません。坊やは実際大喜び。また途中から、お父さんの方も面白くなってしまったようで、坊やからVRグラスをもらって、親が率先して遊んでくれました。

 それを子供はまじまじとみているわけです。

 幼い日のこういう経験が、その先の人生に大きな意味を持つ。そう考えて、私たちはこうした展示を準備したわけです。

お父さんに抱っこしてもらってVR体験:「芸術と科学の新しい出会い展」より(親子のご同意を得て掲載しています)

 教育に関する様々な能書きを見るとき、これらがどの程度「子供にとって」切実、かつ心から楽しい経験として、記憶に刻み付けられるか、私はしばしば疑問に思います。

 というのも、形式的な制度だけ弄っても、しょうせんはどうにもならない。「ゆとり」だ何だと、死屍累々の失敗を過去40年ほど、日本の教育は繰り返し続けてきた。

 これは誰の目にも明らかな事実でしょう。そこで子供の内発的な動機を大切に考えるわけです。

 今回の「芸術と科学の新しい出会い展」では、小学2年生の自主研究で幾何の興味深い性質を自分で明らかにした発表展示なども行いました。

小学2年生、武田莉乃ちゃんの発表に見入る白川英樹教授(2000年ノーベル化学賞受賞)と、本展メインキュレータのイジンヨンさん

 皆さんも、ご自身の子供時代を思い出して、どうでしょう?

 お父さんやお母さん、あるいはお兄ちゃんやお姉さん、親戚や近所の親しい人たちでもいい、そういう人たちとの、情の通った、また全身全霊で共有した楽しい経験が、長く深く記憶に残って、その後の人生に様々な光を投げかけていたりはしないでしょうか。

 例えば、私の父は1925年=大正14年生まれで、兵隊として戦争に行き、戦後はシベリア抑留で健康を壊し、復員後も30歳過ぎまで寝たきり。

 40歳で結婚、46歳で死にました。私は6歳の小学1年生でしたので、大した記憶は残っていません。

 それでも「アポロ」とかいって(1960年代末で、人類初の月面着陸を目指す米国のアポロ計画が進んでいる真っ最中でした)、寝る前の布団で、あおむけになった父が空中遊泳みたいに私を持ち上げて、振り回して遊んでくれた。本当に楽しかった。

 あるいは、折り紙の裏に黒いマジックで九九の表を書いてくれ、その中に含まれる数のメカニズムを教えてもらったりしました。そこから

「男(の子)は、算数のメカニズムみたいなもので切れ味が鋭いのがカッコイイ」といった、決定的な印象が幼児の私に植え付けられた。

 その先、父はすぐに死んでしまいましたが、中学高校時代から「後輩に教える」などとなると、徹底して「父のように」準備する習慣が40年以上続いています。

 今年で東京大学任官25年目になりますが、この性癖は一生変わることがなさそうです。

お父さんといっしょに、実験装置で遊ぶ。幼い日の思い出が一生の原動力を創り出す

 私の場合はやや特殊かもしれません。しかし何であれ、子供の頃に持った「原体験」、特に「楽しい」とか「カッコイイ」とか「すてき!」みたいな経験が、その後の生涯を左右するのは間違いないと思います。

 そんな観点からG7教育相会合における「富山・金沢宣言」の実物を検討してみると、そもそも最初から「終わっている」感が否めないのです。


お経やノリトで子供が育つか、心が動くか

 以下、G7「教育相会合 富山・金沢宣言」の、文部科学省による抄訳を引用してみます。

富山・金沢宣言ポイントその0:

「G7各国間で自由・平和、法の支配と⺠主主義の価値観を共有しつつ、以下の基本的考え⽅に基づいて、各国で教育政策を進めていくことで合意した」

 まあ各国行政のトップが集まっての議論ですから、家庭教育とか内心の問題に踏み込んでいけないのは当然といえば当然なのですが・・・。

富山・金沢宣言ポイントその1:

「民主主義や自由、法の支配や平和の礎」としての教育の普遍的価値を改めて共有しつつ、持続可能な社会の創り手を育む。

 第1項は結局「持続可能」というお題目をなぞっているだけで、これより先の各国施策は千変万化。でも何にせよ、こんなお経で子供の心が動くことは100%あり得ない。

 そもそも日本の教育現場が「持続」するためにしがみついている、完全に無意味、あるいは時代遅れの悪習も「永続」しうる。

 そういうお経になっているのがとても残念です。

 典型的な無意味な悪習として「マークシート」「マークセンス」型の解答・採点システムを挙げましょう。

 日本の入試は延々と「マークセンス」方式を使い続けますが・・・。

 あれは1950年代以前から「タイガー計算機」など、手回しの機械式計算機でも用いられたパンチカードシステムのなれの果てで、1978年度の共通一次導入以来、延々使い続けている。

 時代遅れという言葉すら、すでに使うのがためらわれます。

 ところが役人というのは、いろいろ言い訳のレトリックを持っているわけですね。

 いわく「受験生が混乱する」

 いわく「すでに45年以上の継続実績があり安定している」

 安定じゃなくて停滞でしょうが。

 いわく「安全確実な試験実施のため」などなどなど。

 様々な「前例墨守」の役人的反応から、一度決めたものを誰も変えることができなくなる。

 そうした情けない教育症例の最たるものですが、こうした先例固守にも「民主的」などの正当化お題目が濫用されるところに、日本の病があります。

富山・金沢宣言 ポイントその2:

「コロナ禍やウクライナ侵略で停滞した国際的な人的交流の促進に向けて協働して取り組む」

 これもきれいごとといえばきれいごとですが、EUや英国、あるいは合衆国でいう「国際的な人的交流」と日本のそれとでは、規模と深さが全く異なっている。

 さらに加えて、日本の場合「人的交流」が大事で、せっかくコロナを機に導入が進みかけた「リモート」や「分散環境」の否定、逆行にすら繋がりかねないところは、大変頭が痛いです。

 あるいは・・・。

 日本の教育、特に教育現場には「何であれ、直接対面教育が一番」「『正しい教育』は対面、リモートはしょせん『代替物』『偽物』」といった強い偏見があるようです。

 コロナ前後に定年を迎えた先生が「頼むから私の現役は、リモートみたいなもので汚さないでくれ」と発言するのを実際に見たこともあります。

 そして、そうした現場のメンタリティが、欧米先進圏教育と、日本の停滞との距離をいまや埋めがたいまでに広げてしまっている。

 コロナを奇禍として2020年以降、大いに遅れていた日本の教育現場への「ICT=インフォメーション&コミュニケーション・テクノロジー導入」教育の情報通信化が進みました。

 上手くいけばグローバル水準に追いつく「キャッチアップ」の兆しが見えかけたのですが・・・。

 2023年以降とりわけ「国際的な人的交流」とは「直接的な渡航」「対面学習前提」といった与件が加わることで、「やっぱり対面が一番だよね」という、世界の潮流とおよそかけ離れた「和風」の袋小路を深める揺り戻しの傾向が見られます。

 例えば、「ウクライナ侵略」によって教育の機会を奪われた子供たちや若者に対して、「対面」である必要があるのか。ありません。

 あらゆる手段を使って、失われた教育の補償を工夫する。これが基本の1の1で、ICT活用も1の1の1、当然の前提に過ぎません。

 ところが、日本国内の議論は、「もうコロナは終わったから、リモートもいい加減やめにしなければ」などと、全く違う方向に流れてしまうわけです。

 授業や演習、さらにはテストや入学試験を考えても、グローバル先進圏ではキーボードを用いた解答入力とAI採点がすでに前提化しています。

 ですが日本では、日本語の特殊性、あるいはキーボード習得を高等学校まで義務化などしていないこともあり、このままいけばまず永遠に、キー入力入試は実現しない。

 解答用「タブレット」配布による「デジタル筆記式」入試 などというものも考えられますが、インフラ面から試算するだけでも割は合わず、どこまで普及するか分からない。

 というわけで、百年一日のごときタイガー手回し計算機「マークシート」による解答と、鉛筆・消しゴムによる筆記式が併用され、その採点に要する時間効率を超えた入試の現代化などはスタートラインにもつかない。

 グローバルには、短時間で大量の解答を正確に採点可能なAIテストにトレンドはシフトしています。ただ一か国、日本だけおよそ程遠いところでくすぶっている。

 この状態が2030年までだらだらと続くとどうなるか?

 日本はシンガポールや香港、韓国など「東アジア・東南アジアの先進国側」から脱落し、「中進国」への滑落がほぼ必至というリスクが現実化しているわけです。

「亡国とはこれをいう」くらいの状況に直面しています。

 そうしたリスクを完全にスルーする、絵にかいた餅でしかない官僚答弁でお茶を濁した「富山・金沢宣言」。

「おかしな国際発信をしてくれなくて助かった〜」と胸をなでおろしたお役人が、少なくないかもしれません。


生成AIを使いこなす子供が21世紀の勝ち組

 さて、その「富山・金沢宣言」ですが、後半部は特に情けない本音が全開になっていました。

 G7の会合らしく、ロシアのウクライナ侵略に最終的なピリオドを打ちたい本音が露骨に出ているのが、次の第3項でしょう。

富山・金沢宣言ポイントその3:

「ウクライナも含め危機的な状況にある子供(特に女子)や学生が質の高い教育にアクセスできるよう取り組む」

「危機的な状況にある子供」「(特に女子)」が「質の高い教育」に「アクセスできるよう取り組む」というのですが、何が「質の高い教育」であるのか、その定義もまちまちです。

 さらに、アクセスした結果の評価なども正体不明。

 要するに「取り組む」、つまり官僚答弁でよく登場する「善処します」を超えるものが何一つない。

「危機的な状況にある子供や学生」をどのようにレスキューできるか、万能の正解などあるわけがないので、実際のところ第3項はアリバイの意味しかありません。

 さらにそれが「治癒法のない病」にまでこじれているのが第4項です。

富山・金沢宣言ポイントその4:

「生成AIを含めた近年のデジタル技術の急速な発達が教育に与える正負の影響を認識する」

 はあ、「正負の影響を認識する」んですか・・・まあ、間違いではありません。

 行政ですから、まず「正負の影響を認識」するところから出発するのは当然でしょう。

 しかし、です。そこで「負の影響については、それが拡大しないよう予防対策などを検討、施策に反映」するとか、「正の影響については、積極的にこれを取り入れる」、さらには「正の影響を選択的に伸ばし、グローバルな教育水準の向上に向け、ICTならびにそれを生成AIのもつ潜在的可能性を、次世代教育にフル活用する!」とかは、決して言わない。

 そういうお官僚答弁の最たるもので「富山・金沢詭弁」おっと、間違えました「宣言」は閉じられている。

 現実のグローバルな趨勢はどうなっているのでしょう?

 特に欧州では、米国型の一様で平板、頭打ちや袋小路になり易い教育(端的にはSTEMとかSTEAMといったレベルのもの)を相対化するべく、賢明なAI利用の取り組みが進んでいます。

 日本の場合、結論は最初から見えてしまっている。つまり

「生成AIを含めた近年のデジタル技術の急速な発達が教育に与える正負の影響」を「認識する」ところでおしまい。

 認識した結果「正の影響は これこれである」「だが負の影響として コレコレもある」「よって、正負双方の意見を聞き置いたうえ、行政は<前向きに検討する>=特段なにもしない」という定型のミコトノリを出しておしまい。

「前向きに検討する」とは「一切何もしない」を意味する官僚答弁ですから、要するに「生成AIを含めた近年のデジタル技術の急速な発達」が「日本の教育に制度的に大きく取り入れられ」ることは、まずないでしょう。

 AI前提の次世代社会において、日本の教育だけは例外的に「正負の影響を認識」するだけで、担当官が失政を批判されうる危なっかしいことは何もしなくてよい、というお墨付きを、わざわざ日本の地名を二つならべて「富山・金沢宣言」などとして出すことができた。これで自分の任官中は大過なく、何事もなく終わるであろうめでたしめでたし・・・。

 かくして「失われた30年」が「失われた40年」に延長、さらに「そして誰もいなくなった」となりかねない。

 非常に消極的で、およそ萎えきった「教育宣言」と見えるわけですが、私の読みは間違っているでしょうか?

「政府は正負を認識するだけ」それでおしまい。

 こんなものが公教育を圧殺してしまっては日本の未来はどうにもなりません。

 では、そんな時代を生きねばならないα世代の子供たち、さらにはα世代の子を持つ親たちはどのように対策するべきなのか?

 官製教育の形骸化、空疎化を前提に、AIを使い倒す賢い子を育てる「教育自主防衛」を強くお勧めするのが、ここでの小結論になります。

 この続きは「遊ぶ東京大学の逆襲」として、子供の力を真に伸ばす、具体的な方法をご紹介したいと思います。

筆者:伊東 乾

JBpress

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