JRA初沖縄県出身騎手の上里直汰 赤馬節のような活躍期待
2025年2月20日(木)5時5分 スポーツニッポン
日々トレセンや競馬場で取材を続ける記者がテーマを考え、自由に書く東西リレーコラム「書く書くしかじか」。今週は東京本社・梅崎晴光(62)が担当。JRA初の沖縄県出身騎手、上里直汰(17)のデビューにちなんで沖縄ジョッキー列伝をお届けする。
♪いらさにしゃ 今日ぬ日(喜びあふれる今日の日)…。沖縄・石垣島の祝い歌といえば八重山民謡・赤馬節。「JRA初の沖縄県出身ジョッキーとして期待に応えたい」と決意を眉宇に漂わせる上里直汰君が生まれ育ったこの島で祝宴の幕開けに歌われる名曲である。騎手生活の幕開けに際して赤馬節の由来を紹介したい。
沖縄県が琉球国だった1703年、1頭の赤い子馬が石垣島・名蔵湾の浜辺に上陸した。島で暮らす大城師番という馬乗りの得意な青年が身寄りのないその子馬を自宅に連れ帰って愛情を注ぐと、脚並みの美しい優駿に成長した。赤馬の名声は首里の琉球国王・尚貞の耳にも届き、御料馬として召し抱えられる。ところが、首里に着いた途端、アブミさえ着けられない暴れ馬になってしまった。「名馬の替え玉ではないのか!元の飼い主を呼べ!!」。尚貞王の命で首里に呼び寄せられた大城師番が再び手綱を取ったところ、王の前で美しい走りを見せた。
♪いらさにしゃ(喜びあふれる)…。「八重山民謡誌」によると赤馬節には人馬の強い絆を尚貞王に称賛され、赤馬と共に帰島する大城師番の喜びが歌われている。
沖縄はかつて東アジア屈指の馬所だった。琉球国時代には8000頭、沖縄県になった19世紀後半以降はさらに増え、人口60万人に対して3万頭余。その大半が戦死する沖縄戦の数年前まで県内の100を超える馬場で競馬が開かれていた。名騎手の伝承も数多く残されている。
琉球国に馬術(神当流)を広めた“馬乗(ンマヌイ)マージャ”こと真喜屋実良、薩摩藩の馬役人が人知れず走路につくった死の落とし穴を愛馬・野国青毛と共に飛び越えた野国宗保、琉球国の正史「球陽」にどんな癖馬も御したと記される松嘉那。昭和初期には琉球競馬の名馬ヒコーキの手綱を取った“謎の名手”ヨドリ与那嶺小、沖縄本島中部を代表する騎手だった屋良朝乗(元沖縄県知事・屋良朝苗の兄)、小柄な体をタン(八重山言葉でノミ)のように馬の背に張り付かせて八重山一の快速馬を乗りこなした“馬のタン”大泊一安…。
「僕も石垣の具志堅用高さん(元プロボクサー)の像の隣に銅像を建ててもらえるくらい活躍したい」と拳に力を込める上里直汰君。騎乗馬と強い絆をつくって、赤馬像の隣にも銅像が建つほどチバリヨー!中学時代の同級生らの激励を背にデビューの日を迎える。♪いらさにしゃ 今日ぬ日…。
◇梅崎 晴光(うめざき・はるみつ)1962年(昭37)生まれ、東京都出身の62歳。90年から中央競馬担当。著書「消えた琉球競馬 幻の名馬ヒコーキを追いかけて」(ボーダーインク発行)で13年度JRA賞馬事文化賞などを受賞。