ヤマハOBキタさんの鈴鹿8耐追想録 1985年(後編):初期には「物干し竿」と評されたマシンがごぼう抜き

2020年8月6日(木)11時0分 AUTOSPORT web

 レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。


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 さて憂鬱な思いで矢田部に向った筆者だったが、意外や空気抵抗の指標であるCD値は普通な値を示し、同時に計測したYZR500と大差ないか、むしろ小さいくらいで拍子抜けした(もちろん前面投影面積が大きい分だけ実際の空気抵抗は大きいのだが……)。ということで、全面的に設計やり直しという最悪の事態は回避できた。そのデータを突き付けられた時の部長の悔しそうな顔は忘れられない(笑)。


 その風洞試験では他にも収穫があった。後にF.A.I.S(フレッシュエアインテークシステム)と称するキャブ周りに走行風を導入するダクト、これの形状が悪くてほとんど機能していない事が分かったのだ。


 そこでとりあえずアルミ板でカバーを作って、アッパーカウルの両側に取り付けてみると格段に吸い込みが良くなった。その頃、鈴鹿8耐出場予定の平忠彦選手による袋井テストコースでの乗り込みが始まっていたが、「11000rpmぐらいからターボが効いたみたいに力強くなりますよ」という彼のコメントで正式採用になった。


 しかし、一から型を起こして作っている時間もなかったので、テストに使ったアルミ板のカバーを型にして直接FRPを貼りこんで製作した。更には塗装屋に出している時間もなかったので、サンプルで作った際のウレタン塗料を塗って鈴鹿に直接持ち込んで現場で取り付けてもらった。このカバーのおかげで無骨さに更に磨きが掛ったが、性能ありきの世界なので誰にも文句を言われる事はなかった。


 話は変わるが、当時としては型破りな淡いパープルを基調とした塗色についても思い出深いものがある。カラーリングのデザインが資生堂さんから届いたのが確かこの年の6月。都内で行われる予定のチーム発表会まであまり時間がないので、会社からもほど近い関西の某大手塗料メーカーの代理店に調色を依頼した。


 塗色はパントン(PANTONE)の色番号で指定されていたので塗料メーカーさんとの話はスムーズに運んだが、実際に塗ってみない事には何とも言えないので塗板を何種類か作って資生堂さんに確認してもらった。この時に作った塗料サンプルが例のカバーの塗装で役立ったという訳である。


■「物干し竿」と評されたマシンが他車をごぼう抜き


 さて8耐本番のレース経過については読者諸兄のよく知るところなので詳細は割愛するが、リタイアの原因になったのはケニー・ロバーツ選手に早くから「one valve too much」と指摘されていたバルブの折損だった。性能重視でバルブガイドを極限まで削り込んでいたので、バルブの振動による曲げ応力で疲労破壊に至ったのである。


 その辺りはポート研磨仕上げを行う担当者の裁量に任せていた部分もあり、これが後にトラブルの元になるとは誰にも予見ができなかったのである。ケニーはライダーとしての直感でスロットルとリヤタイヤのコネクションが悪いのはひとつ多い吸気バルブに原因があると看破していたのだが、その一つ多いバルブが当時のヤマハにとっては技術革新の証であったのはなんとも皮肉なことである。


 あまりの(悲)劇的な出来事にその場に居合わせた誰もが茫然自失の状態に陥る中、筆者はというと案外冷静だった。初期には「物干し竿」と評されたマシンが水を得たようにレース序盤から他車をごぼう抜きにしていく姿を見ていたので、何とかヤマハのロードレーサーとしてのDNAは継承できたな——と妙に安堵していたのを憶えている。


 ヤマハの4サイクルレーサーの黎明期はともあれこんな泥臭いスタートを切ったのだが、この時点では後に更に過酷な試練が待ち受けているとは思いもよらなかったのである。(1986年の鈴鹿8耐編に続く)

OW74の車体関係を担当したキタさん。当然サスペンションをはじめとするコンポーネント系も任された。で、現場に来ればこのとおり、リヤサスのオーバーホールもこなす。


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キタさん:(きたがわしげと)さん 1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、その直後から車体設計のエンジニアとしてYZR500/750開発に携わる。以来、ヤマハのレース畑を歩く。途中1999年からは先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年以降はレースを管掌する技術開発部のトップとして、役職定年を迎える2009年までMotoGPの最前線で指揮を執った。

2011年のMotoGPの現場でジャコモ・アゴスチーニと氏と会話する北川成人さん(当時はYMRの社長)。左は現在もYMRのマネージング・ダイレクターを務めるリン・ジャービス氏。


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