稀代の写真家・篠山紀信、多くの有名人を短時間で「激写」した極意とその背景

2024年1月10日(水)6時0分 JBpress

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

稀代の写真家・篠山紀信氏が1月4日に83年の生涯を閉じた。日本大学藝術学部写真学科在学中の1961年に広告写真家協会展APA賞受賞。広告制作会社「ライトパブリシティ」を経て、フリー写真家として活動開始。宮沢りえのヌードや、ジョン・レノンとオノヨーコの「ダブルファンタジー」のジャケット写真など、多くの傑作を残した。雑誌編集者時代、6年間にわたって篠山氏の撮影に立ち会った堀井六郎氏が、追悼の思いを込めて当時を述懐する。


報道の大きさで知る、篠山紀信の足跡

 希代の写真家、篠山紀信さんが1月4日に亡くなりました。83歳でした。

 激写、シノラマ、ヘアヌード、カメラ小僧など、篠山紀信という存在から派生した流行語には昭和末期の時代の香りが染みついています。

 篠山さんの死はテレビ・新聞でも大きく取り上げられ、特に1980年代に『週刊朝日』の表紙(女子大生シリーズ)でお世話になった『朝日新聞』や朝日系の『日刊スポーツ』では、訃報を1面に掲載、写真家の死亡記事が1面に掲載されること自体がきわめて異例のことで、知名度の高さと足跡の大きさを物語っているようでした。

 篠山さんの功績・評価・評伝についてはさまざまな媒体で論じられていますので、ここでは私の知っている篠山さんの横顔中心に激述することにしましょう。


「激写」とは速攻で心を掴む極意にあり

 今から40年ほど前、私は非正規社員の身分で、ある月刊誌の編集部スタッフとして従事していました。その雑誌のグラビアページや表紙でお世話になったのが、当時40代前半で脂の乗りきっていた篠山さんでした。

 その月刊誌で6年近く仕事をご一緒させていただきましたが、まあ仕事が早い、なおかつその場を楽しんでいる、という印象が強く残っています。

 1975年、雑誌『GORO』の山口百恵のグラビアで独り歩きし始めた「激写」という造語ですが、写真の過激さを読者にアピールしつつ、実はここぞという決定的な瞬間を見逃さず激しい勢いで撮影する、つまり、撮影者・篠山紀信の気持ちを表現した言葉でもありました。カラーグラビアから漂う、その熱い思いが若い読者の心にも伝わったのでしょう。

 当時、激安、激白、激辛等々、辞書にはない「激○」造語が続々登場、振り返れば、1970年代から80年代にかけて、時代が疾走している「今」を象徴していたのが「激」という一文字だったのかもしれません。


短時間撮影の秘密は、本番前の話術にあり

 40代前半とはいえ、すでに大御所になっていた篠山さんなので、初対面のまま撮影される若い俳優・タレントさんなどは、篠山さんのスタジオにかなりの緊張感を抱いてやって来ます。

 緊張度を察した篠山さんは、独特の話術でその場の雰囲気をやわらげ、本番までの態勢を整えます。雑誌『月刊明星』などで十代のアイドルたちが満面の笑みをもらして表紙を飾る秘訣は、一にも二にも、この篠山さんのトーク・マジックにあったのだと思います。

 気持ちがほころんだモデルさんは、自分が主役だという自信を取り戻し、カメラに向かってとびきりの笑顔を見せ始めます。こうなるとしめたもの、すでに篠山さんの術中にはまったようなものです。

 一瞬の笑顔を見逃さずに速射砲のように激しくシャッターを押し続ける篠山さん。いくつか別のポーズを指示しながらの撮影は、長くても20分ほど、たいていはもっと短時間で終了したような気がします。

 時によっては人たらしのようなほめ言葉で、あるいは話題を相手に合わせつつモデルさんをリラックスさせることによって、素顔や笑顔を引き出す篠山さんですが、テニスプレイヤーのビヨン・ボルグを撮影したときには、さすがに日本語を理解できないボルグには通じず、このときは、さらに早々と撮影を終わらせていました。


当意即妙の背景は生まれ育った寺にあり 

 こちらの要求で、ご自身のスタジオを離れて戸外で撮影するときもありましたが、頭の中にあるふさわしい場所をすぐにセレクトし、出発します。雨が降ってきたり、予期せぬ事態が起きたりしても動ずることなく、臨機応変に対応、全天候型のカメラで短時間で仕事を終わらせてくれました。

 仕事の速い篠山さんですが、頭の回転も速く、当意即妙の会話は誰をも楽しい気分にさせてくれるものでした。

「当意即妙」の語源は仏教用語の「当()即妙」で、「すべてのものごとはそのままの姿で、仏の真理にかなっている」という意味だそうですが、さすが篠山さん、東京・北新宿にある真言宗豊山派圓照寺の次男坊として育っただけに、「そのままの姿」を美しいヌード写真として昇華し、私たちに示してくれました。

 1986年(昭和61)4月26日、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で最大規模の原発事故が発生したときのこと。

 日本でも報道された当日のことだったと思いますが、その日は前述の月刊誌の撮影日に当たっていて、私が篠山さんのスタジオを訪れるやいなや「おい、○○(ここ、私の本名が入ります)、ソ連の原発事故が起きた場所、知ってるか」と、いきなりの詰問。

 半徹夜の仕事が続く中、テレビも新聞もろくに見ていない私は、「チェルノブイリっていうんだよ」と続ける篠山さんの言葉を待つだけでした。

 芸能人を相手の仕事が多い篠山さんでしたが、同時に文化人をはじめとした著名人との仕事もこなしていた篠山さん、浅く広く世相に通じようとする、日頃の学習ぶりを垣間見た気がしました。


「激写」の陰に、やさしさあり

 篠山さんより一回り年下の私ですが、近年は「大人の遠足」とか「一日散歩」などシルバー向きの外出イベントに誘われることが増えました。後日、スマホで撮影した画像を参加された方に送るとたいへん喜んでいただけることが多くあり、お世辞半分でしょうが、「いい写真ですねえ」「お上手ですね」と返信が来ます。

 スマホ使用以前のデジカメやインスタントカメラ使用当時から喜んでもらえることが多かったのですが、もしかしたら、知らず知らずのうちに、瞬間をとらえる篠山マジックの恩恵にあずかっていたのかもしれない、とつくづく思う今日この頃です。

 蛇足になりますが、1980年代前半に『リメンバー』という60年代、70年代の大衆歌謡を論ずる同人誌がありました。

「南沙織特集号」が発行された際、私の文章が巻頭に掲載されていたこともあって、篠山さんに贈呈したところ、「こういうマニアックな連中がいるからアイドルは大変なんだ」などと笑いながら受け取ってくれました。

 翌月の撮影日、ふだんは乃木坂近くのスタジオを訪れるのですが、その日は、六本木のご自宅に来るようお達しがあり、当日の朝、門の前からインターホンで到着を伝えると、出て来たのは、なんと南沙織さんだったのです。

 頭の回転が速いだけでなく、下っ端スタッフだった私に対して、こんな気遣いのできるのも、篠山さんの魅力でした。ご冥福をお祈りしています。ありがとうございました。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:堀井 六郎

JBpress

「写真家」をもっと詳しく

「写真家」のニュース

「写真家」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ