武田勝頼はなぜ、長篠合戦で織田・徳川連合軍に挑み、敗れたのか?

2024年2月21日(水)5時55分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


勝頼はなぜ決戦を挑んだのか?

 武田信玄の後継となった武田勝頼は、織田信長とその同盟者・徳川家康に攻勢をかけ、脅威を与えます。信長や家康にしても、どこかの機会で、武田軍に大打撃を与えなければ、最悪の場合、自らがやられてしまうと感じていたでしょう。その機会は、天正3年(1575)5月にやって来ます。同月上旬、勝頼は徳川方の長篠城(城主・奥平信昌)を攻囲し、追い詰めていました。

 家康は信長に救援を依頼、信長はそれを受け、岐阜を出立(5月13日)。5月13日には、三河国の設楽郷に布陣します。信長軍は3万の大軍だったとされますが、同地の窪地に軍勢を配置。これは、武田軍に大軍を見えなくする意味があったとされます(信長や家康方の陣には、敵軍の侵入を防ぐため、馬防柵が敷設)。長篠城を攻囲している武田軍も、当然、織田・徳川連合軍の接近を知ることになります。

 開催された軍議。武田重臣(山県昌景・馬場信春・原昌胤・小山田信茂ほか)は「敵は大軍。撤退するのが宜しいかと」と進言。ところが、当主・勝頼と側近・長坂光堅が撤退策に反対、決戦論を唱えます。重臣の中には、ならばと、長期戦に持ち込むことを提案した者もいましたが、議論の末、勝頼の主戦論が通るのです。

 5月21日、連合軍の別働隊は、武田方の鳶ノ巣山砦を奇襲、守備していた武田方の兵は敗走。別働隊は長篠城を包囲していた武田軍も追い払います(前日、勝頼軍約1万は有海原に進出していました)。鳶ノ巣山に武田軍が集中していたら、織田・徳川連合軍も攻めるのは困難だったでしょう。

 しかし、前述のように、勝頼は連合軍と決戦するため、進出。そして、5月21日、いよいよ、長篠合戦となるのです。織田・徳川連合軍は、数千挺の鉄砲を用意していました。何度も何度も打ち掛かってくる武田軍は、大量の鉄砲によって撃破されるのです。「織田方は、1人も前に出ず、鉄砲を打ち、足軽であしらう」(『信長公記』)という状態でした。午後2時頃まで戦いは続いたとされますが、結果は武田軍の大敗でした。山県昌景・内藤昌秀という武田重臣も戦死します。

 勝頼は、退却を余儀なくされ、三河から武田の勢力は駆逐されることになるのです。開戦前、勝頼が重臣の撤退論もしくは持久戦論を採用していたら、ここまでの大敗を喫することはなかったでしょう。それにしても、勝頼はなぜ決戦を挑んだのでしょうか。


情報収集能力の不足

 勝頼が開戦前日の5月20日に、家臣の今福長閑斎(駿河国久能城代)に宛てた書状から、その理由を窺うことができます。書状からは、信長・家康が長篠城の後詰めにやって来たことを勝頼は当然、知ってはいたものの「(敵方は)大したこともなく対陣している」「策を失って、一段と逼迫している」と認識していたことが分かります。

 織田・徳川連合軍が、すぐに長篠城の救援に来ずに、馬防柵を敷設して、防御の姿勢を見せたことを、勝頼は「一段と逼迫」と見て取り「信長・家康両敵」の陣に攻め込んで、討ち滅ぼそうと考えたのです。勝頼は、織田方の兵数(3万)をしっかり把握していていなかったのではと思われます(織田軍が窪地に隠れていたことが功を奏したと言えるでしょう)。

 武田軍の情報収集能力の不足が敗因と考えられます。仮に、勝頼が連合軍の兵数をある程度、把握していながら、決戦を挑んだとしたら、どこかに、自軍の方が強い、連合軍は大したことはないという慢心があったのではないでしょうか。

 勝頼の父・信玄は「風林火山」の軍旗を使用したことで有名です。「風林火山」の原文の出典は『孫子』(中国春秋時代の兵法書)に基付くとされますが、その『孫子』のなかには「彼を知り己を知れば百戦殆からず」という著名な一節があります。「戦いの時には、敵情を知ること、そして客観的に自分(軍)を知ることが大切である」ということです。

 更に同書には「勝ちを知るには五つあり」として「戦うべき時と戦うべからざる時を知る者は勝つ」「大軍と小勢の運用方法を知る者は勝つ」「上下の将兵の意思が纏まっている者は勝つ」「味方の準備ができた上で、準備ができていない敵を待ち受ける者は勝つ」「将軍が有能で、君主がその干渉をしなければ勝つ」とも記されています。

 勝頼は決して、無能な当主ではありませんが、長篠合戦においては、脇が甘かった、油断していた面があったと考えられます。長篠本戦では、織田・徳川連合軍の鉄砲の威力が、武田軍を破りました。しかし(何度も繰り返しますが)、そもそも、勝頼軍が戦いを正面から挑んでいなければ、大負けすることはなかったのです。

 信長は武田本軍が進出し、河を背にして布陣していることを「天の恵み」(『信長公記』)と考えたと言います。つまり、この時、信長は自らの勝ちを確信したのです。長篠合戦は、織田・徳川連合軍の鉄砲が勝敗を決したように言われますが、実は勝敗は開戦以前に決していたのでした。勝頼が「戦うべき時と戦うべからざる時を知」らなかったことが武田軍の敗因と言えましょうか。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

筆者:濱田 浩一郎

JBpress

「武田勝」をもっと詳しく

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ