『光る君へ』安倍晴明、75歳で陰陽道界の頂点に立った遅咲きの生涯、平安時代の陰陽師の役割とは?
2024年3月11日(月)8時0分 JBpress
大河ドラマ『光る君へ』では、ユースケ・サンタマリアが演じる陰陽師・安倍晴明が、怪しげに天皇や貴族たちの間を暗躍し、権力抗争にも影響を与えている。今回は、この安倍晴明と陰陽師を取り上げたい。
文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー
陰陽師とは
安倍晴明は陰陽師の代名詞のような存在だが、そもそも陰陽師とは何なのだろうか。
陰陽師は、もともとは「陰陽寮」という官司(役所)に置かれた、卜占を専門とする律令官職の名称だった。
律令制度下の陰陽寮は、以下の四部門で成り立っていた。
①卜占や土地の吉凶を占う「陰陽部門」。
②暦を作製する(造暦)「暦部門」。
③天体や気象を観測する「天文部門」。
④時刻を管理する「漏剋(ろうこく)部門」。
陰陽師は「陰陽部門」に置かれた。定員は6名である。
当初、卜占を職務としていたのは、陰陽師だけであった。
しかし、遅くとも安倍晴明が活躍する平安時代中期までに、陰陽寮に属する官人が全員、卜占を行うようになり、彼らも「陰陽師」と称されるようになったという(以上、繁田信一『安倍晴明 陰陽師たちの平安時代』)。
そして、同じく平安時代中期までに、陰陽寮の官職を辞した後も、人々から陰陽師と呼ばれ続けるようになった。
晴明も、晩年は陰陽寮官人ではなかったが、陰陽師と称されている。
また平安時代には、晴明のような官人身分の陰陽師だけでなく、民間の陰陽師も存在した。官人身分の陰陽師だけでは、陰陽師を必要とする人々の需要に応えられないからだ。
民間の陰陽師たちは僧形であることが多く、平安貴族からは「法師陰陽師」、「陰陽師法師」などと呼ばれていたという(繁田信一『呪いの都 平安京 呪詛・呪術・陰陽師』)。
「アベノセイメイ」ではなく、「アベノハルアキ」だった?
次に安倍晴明をみていこう。
安倍晴明は、一般に「アベノセイメイ」の読みで認識されることが多いが、ドラマでもそう呼ばれているように、平安時代の男性名としてより自然な「アベノハルアキ」だったと思われる(繁田信一『陰陽師——安倍晴明と蘆屋道満』)。
晴明は、延喜21年(921)に生まれたとされる。
康保3年(966)生まれの藤原道長より、45歳年上である。段田安則が演じる藤原兼家(延長7年[929]生まれ)よりも、8歳年上となる。
晴明の父は大膳大夫・安倍益材(あべのますき)とされ、母は不詳だ。
誕生地は香川、大阪、茨城の三説が伝わり、確定はされていない。これ以外の地の可能性もなくはないという(諏訪春雄『安倍晴明伝説』)。
平安後期の説話集『今昔物語集』第二十四には、晴明は幼い頃から陰陽師・賀茂忠行の弟子となり、その道を余すところなく伝えられたと記されているが、それは史料等では確認できない(斎藤英喜『安倍晴明——陰陽の達者なり——』)。若き日の晴明が、どのような日々を過ごしたのかはわかっていないのだ。
出世が遅れた理由は?
安倍晴明は天徳4年(960)、40歳のときに、陰陽寮の「
天文得業生とは、天文博士の下で学ぶ学生のなかで、
40歳にして、まだ「学生」というのは、出世が遅い。
晴明が師事した天文博士は、賀茂保憲(かものやすのり)という。
賀茂保憲は、先述の『今昔物語集』で晴明が幼い頃から弟子入りしたとされる陰陽師・賀茂忠行の子で、「陰陽師の規範」と称されるほどの優秀な陰陽師であった。
晴明の出世が遅れたのは、このころ、賀茂氏が長官の陰陽頭を独占していたため、他氏族の安倍氏が入り込むのは難しかったからだという(諏訪春雄『安倍晴明伝説』)。
前半生は不遇であったかもしれないが、晴明の人生は遅咲きだった。その後、晴明は陰陽道界の頂点へとのぼりつめていく。
75歳で、陰陽道界のトップに
晴明は天皇・貴族の卜占や、祭祀、行事や政務などの日程の選定、儀礼の執行などに従事した。
正確な時期はわからないが、晴明は天禄3年(972)12月より前に天文博士に就任し、20年余の長きにわたり、その任を務めた(繁田信一『陰陽師——安倍晴明と蘆屋道満』)。
天文博士を辞した後、長徳元年(995)、75歳のとき、晴明は塩野瑛久が演じる一条天皇の時代に、蔵人所陰陽師を務めていたことが、『朝野群載』巻五に収められた長徳元年8月1日付の「蔵人所月奏」(『国史大系 第29巻上』所収)にみられる。
蔵人所陰陽師は、陰陽寮から独立した、天皇直属の陰陽師である。
平安後期の右大臣藤原宗忠の日記『中右記』大治4年(1129)7月8日条には(『史料通覧 中右記六』所収)、「一上﨟、蔵人所に候う也」と記されており、陰陽道における最上位の者が、蔵人所陰陽師の任に就くことが定められていたとされる。
蔵人所陰陽師となったということは、晴明が陰陽道界において、頂点に立ったことを意味しているという(斎藤英喜『安倍晴明——陰陽の達者なり——』)。
天皇直属の陰陽師といっても、天皇だけがクライアントというわけではなく、藤原氏などからも用いられた。
晴明は陰陽師として卓越した能力をもっていたようで、「道(陰陽道)の傑出者」、「陰陽の達者」などと称えられた。
藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘元年(1004)7月14日条には、晴明の呪術によって大雨が降り、朝廷から褒賞が授けられることになったと記されている。
没年まで現役
晴明は寛弘2年(1005)12月16日(9月26日説あり)に、享年85で没したとされる。当時では驚異的な長寿であった。
『御堂関白記』の同年2月10日条には、藤原道長の東三条第への引っ越しにあたり、到着は遅れたものの、晴明が新宅の作法という儀礼を行ったことが綴られている。
また、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』の同年3月8日条にも、見上愛が演じる中宮彰子の大原野社行啓にあたり、反閇(へんばい)という呪術を行ったことが記されている。
安倍晴明は没年まで、現役の陰陽師だったのだ。
【安倍晴明ゆかりの地】
●晴明神社
京都市上京区晴明町にある、安倍晴明を祀った神社。
一条天皇の命により、寛弘4年(1007)に、創建された。
境内には安倍晴明を祀った本殿の他、安倍晴明公像などがある。
筆者:鷹橋 忍