石戸諭 インターネットで幼稚化する日本社会。2024年の東京都知事選にみる、分断を煽る人々の極論、それに流されない大切さ

2025年3月24日(月)8時0分 婦人公論.jp


(写真:stock.adobe.com)

SNSを含めたインターネット上で、いかに自分の主張が正しいかを言い争う現代。ノンフィクションライターの石戸諭氏は、「極論に流されて、冷静さと思慮深さを失ってはいけない」と“論破を喜ぶ思想”に警鐘を鳴らします。「社会現象」と呼ばれるほどの影響をもたらした人物について、本人・周辺への取材を重ねて綴られた著書『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』より、2024年の東京都知事選について一部抜粋してご紹介します

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2024年の東京都知事選で起きたこと


意外なほどに演説はぱっとしない。

それが2024年東京都知事選に立候補し、「政治屋を一掃したい」とまったくの無印から約166万票を集め、3選を果たした小池百合子の次点につけた石丸伸二の印象だった。

広島県安芸高田市長しか行政経験がない石丸が票を伸ばしたことは、社会的にはかなり驚きをもって受け止められていたが、私はむしろ東京都知事選におけるクラシックなパターンの強さを再認識させられたという評価が適正ではないかと考えていた。

市長時代の石丸は「恥を知れ」という言葉を使い、市議会との対立構図を作ったことが最初に注目されたが、既成政党への不信感に訴えかける言葉自体に新しさは何もない。

むしろ、1967年の東京都知事選で左派を中心に擁立された美濃部亮吉も使った「政党色、組織色を消す」「特徴的イメージを作る」というクラシックなパターンを新しいメディアを使ってなぞっているにすぎない。

発信に使ったのがYouTube、あるいはSNSだということは新しいかもしれないが、支持される構造そのものはむしろ「ど」がつく定番のそれである。

悪い意味で“ついにここまできた”選挙


興味深かったのは、彼が出陣式をやるという渋谷駅に集まった支持者の年齢層が意外なほど高かったことだ。1984年生まれの私と同世代かそれ以下は目立つほどに少なく、中心にいたのはむしろ高齢層だった。

それも当然と言えば当然のことで、Windows95が発売され、多くの人にとってインターネットが身近な存在となった1995年をインターネット元年とするのならば、当時の若者はすでに50代以上で、石丸が主戦場としたYouTubeは身近なメディアになっている。インターネット=若者向けメディア、という認識がそもそも古くなっているということくらいしか指摘できる要素はないのだ。

そこで突きつけられたのは、インターネットというメディアが革新的なツールだった「夢」が完全に終わったという現実だろう。

建前ばかりが達者な“小ポピュリスト”たちの祭典——それが2024年の東京都知事選だった。悪い意味でついにここまできたかと思った有権者は少なくないだろう。

「選挙をフェスにする」。かつて左派・リベラル系の候補者が前面に押し出したスローガンを臆面もなく使ってみせたのは政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志である。史上最多、56人が立候補した2024年の東京都知事選だが、実際に中身を見てみるとなんてことはない。彼らが擁立した候補者が24人も含まれている。

首都のリーダーを決める都知事選は一首長選でありながら、メディア露出の機会は国政選挙並みに多い。当選を第一の目的としないような泡沫候補が集まるには合理的な理由があるが、取り巻く状況はより悪い方向に流れているとみるべきだろう。

立花は選挙ポスターの掲示板に貼る権利を販売すると言い、最大の狙いはNHKの政見放送の時間を供託金300万円で“買う”ことだと堂々と語ってみせた。権利の売買がうまくいけば、たとえ供託金が没収されても、元が取れるということだ。

結局のところ、立花らが取り組んでいたのは「選挙」というよりも、泡沫候補によるインターネットも含めたメディアジャックに投資をする、政治のビジネス化だ。

選挙という祭り


こうした思考をより推し進めていった先に今回の都知事選がある、と読み解くと混乱がクリアに見えてくる。当選度外視の立候補を公言する政治団体にとって選挙は名前を売る手段にすぎない。政見放送や選挙運動で奇抜な行動を繰り返し、SNSで話題になれば上出来という発想で“宣伝”と“投資”に振り切る。最終的な狙いは話題作り一発で議席が狙える参院選、地方選での当選だ。


『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』(著:石戸諭/新潮社)

立花に触発されるように、泡沫候補たちもあの手この手で目立つ方策を考えだし、表現の自由すらも建前に使い「悪名は無名に勝る」とばかりにほぼ全裸の女性ポスターまで掲示する輩も現れるに至った。民主主義の根幹にある、誰もが立候補できる権利を建前に使う選挙戦の極北は、インターネットを主戦場にして特定の候補者を追い回し、大音量のヤジで街頭演説の妨害をする者まで現れた24年の衆院東京15区補選にあったと思っていたが……。

悪い方向に流れている根底にあるのは、選挙で目立ってやろうという行為だけでなく、選挙が盛り上がることが重要であるという「選挙フェス」的な発想そのものだというのが私の見立てだ。

「選挙フェス」の源流は、直近でいえば2013年参院選に立候補した三宅洋平だ。私も当時取材していたが、選挙フェスと称してレゲエを演奏しながら脱原発などを語った三宅の選挙は確かに斬新ではあった。

今から振り返れば、彼の言葉は単に感情に訴えかけるだけのチープなもので具体的な政策もなかったが、「反安倍晋三政権」を訴える左派・リベラル系著名人や知識人を中心にした支持を獲得していた。

その後、演説会に「祭り」という言葉を多用したのは、一時、三宅とも共闘したれいわ新選組の山本太郎だった。

「生活が苦しいのを、あなたのせいにされていませんか? 努力が足りなかったからじゃないか? 違いますよ。間違った自民党の経済政策のせいですよ」と「上」と「下」の対立構図を作り上げながら、彼は国政選挙でも20年の東京都知事選でも選挙という祭りの主役になろうとした。


ノンフィクションライターの石戸諭氏(著者提供)

「祭り」の先にあるもの


一時の感情や共感をフックにして選挙を音楽フェスのように盛り上げて逆転の可能性に賭ける、もしくは自分の名前や主張を世に知らしめる。こうした手法はポピュリズムと相性がいい。

イデオロギーを根幹に据える政治家が体系的な思想に基づいた「主義」で世界を捉えていくのに対し、本書で取り上げた「嫌われ者」たちはしばしば世界の見方を単純化し、その単純化された世界の主人公として登場する。

既成政党や官僚、メディアを既得権益側と位置付け、「持たない者」との対立構造を争点に据えること。こうした構図作りは必ずしも悪ではない。ポピュリストは大衆の隠された意志、言語化されない思いを具現化する存在であり、既成政党や政治家への不満を突きつけるからだ。だが、同時にこう問う必要はある。

東京都知事選に限らず「政治を盛り上げたい」と口にする候補者は少なくないが、盛り上げた先にどのような社会を構想しているのか。それがまったく見えてこないことに問題の本質が宿る。そこから見えるのは広範なポピュラリティーの獲得というよりも、より小さな内輪受けレベルを超える主張がない候補者が乱立する現状だ。

思慮深さを失わないために


「今の政治がオワコン」だと言うのは良い。では、どう変えていくのか。吉村洋文のように「若者」はいずれ年を重ねて実績を積んだベテランとなり、維新のように新風を吹き込むかのように見えた“新党”も歴史を重ねれば「既成政党」へと変化する。

一時的に既成政党への不満が高まっているように見えても、国政選挙で意思を問えば歴史のない政党が勝てるチャンスはかなり少ない。多数派を形成することこそが政治の要である以上、地道に実績を積み重ねることでしかチャンスはやってこないのだ。

したがって、内輪受けを重視する人々の訴える建前は、話半分で受け止めるくらいでちょうどいいというのが私の結論である。選挙は一時の祭りや「フェス」ではない。地味で、退屈な日頃の政治活動の延長に位置づくものだ。

『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』で取り上げた「嫌われ者」たち、そして彼らを生み出した構造はこの先も社会を騒がせる。さらに極端な言説を唱える人々、分断を煽る人々が新しく登場してはざわつかせるだろうが、極論に流されて、冷静さと思慮深さを失ってはいけない。

私が彼らを追いかけながら辿り着いた、たった一つの大切な教訓である。

※本稿は、『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』(新潮社)の一部を再編集したものです。

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