アーネスト・サトウの日本での暮らしと諸藩での情報収集、徳川慶喜への警戒と大政奉還前後の動向

2024年4月10日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


横浜でのサトウの生活

 今回は最初に、アーネスト・サトウと横浜との関連について、述べておこう。サトウは、生麦事件(1862年9月14日、文久2年)の6日前に横浜に到着し、公使館事務の手伝いをしながら競馬やボーリング、ビリヤード、購入した馬での遠乗りなどを謳歌した。

 サトウは、「居留地を見おろす丘から見た神奈川方面の眺めは素晴らしく、風景はまさにイギリスそのものだ」と日記に書いている。一方で、居留地は活気に満ちていた反面、喧嘩や拳銃が発砲される危険で気が休まらない雰囲気であるとも書いていた。

 生麦事件や下関戦争を契機に、イギリスとフランスは自国軍隊による横浜居留地の防衛を主張したため、1863年(文久3)7月2日、英仏軍の横浜駐屯が決定した。なお、1875年(明治8)に撤退するまでの12年間に、横浜山手(現在の「港の見える丘公園」一帯)には兵舎、弾薬庫、武器庫などが建設された。横浜は、外国軍隊が駐屯する一大軍事基地となったのだ。

 ところで、1866年(慶応2)11月26日の午前9時頃、日本人町の土手通りから出火し、1日中、猛威の大火となった。この大火は、横浜大火(豚屋火事)と呼称される。外国人居留地や日本人町の大部分が、焦土と化したのだ

 さて、1865年(慶応1)4月以降、サトウは一時的に領事館付通訳官に任命され、居留地に最も近い日本人町の小さな日本家屋に居住した。この豚屋火事によって、衣類や家具、多数の書籍や英訳草稿を焼失してしまった。和書1箱、英和辞書の原稿、日記のみが類焼を免れたのだ。  

 なお、同居していた公使館付医官ウィリアム・ウイリス、同じく日本人町の日本家屋に居住の書記官ミットフォードと臨時通訳官シーボルトらも罹災し、大半の所持品が焼失した。幕府から提供された家屋は保険がなく、パークスはイギリス外務省に損害補償を要求し、サトウは270ポンドの補償金を得ている。


諸国での情報収集と慶喜への警戒

 横浜大火後、サトウは領事館勤務から江戸の公使館勤務に復帰した。1866年7月のパークスの鹿児島訪問には同行しなかったが、同年12月から1867年(慶応3)1月にかけて、サトウは各地の政治情報を収集するため、西国諸藩に派遣された。

 英国艦隊の旗艦プリンセス・ロイヤルに乗船し、1866年12月23日に至り、長崎に初上陸した。そこで宇和島藩士井関盛艮(もりとめ)や肥後藩士から、大名会議の開催、長州藩の処分問題、兵庫開港の諾否などについて情報を入手した。

 1867年1月、軍艦アーガスで鹿児島を訪問した際には、島津図書・新納刑部・島津伊勢ら薩摩藩の家老クラスが対応した。その直後、今度は宇和島を訪問し、前藩主で賢侯の1人である伊達宗城と会談して親交を結んだ。横浜への帰途、サトウは兵庫で西郷隆盛と初めて会談し、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を入手した。また、西郷に対して、兵庫開港・長州藩処分問題を利用することによって幕府を追い詰める方策まで提言したのだ。

 さらに、2月7日から約2週間、サトウはミットフォードとともに、将軍による外国公使団の謁見準備の状況を視察し、かつ大坂での政治情報の収集を目的として再び兵庫に赴いた。そして、4月11日にサトウとミットフォードが、15日にパークス夫妻、ウイリス、第9連隊分遣隊他の大遠征隊が大坂に向け出発した。

 4月29日から5月4日にかけて、パークスを始め各国公使は大坂城で新将軍徳川慶喜に謁見したが、その際に慶喜は勅許を獲得していない兵庫開港を確約した。ちなみに、5月には慶喜は勅許を獲得して、最大の外交懸案を解決している。

 サトウは、パークスが慶喜との謁見によって、その見識と資質の高さに魅了され始めたことに危機感を抱き、8月26日、西郷に革命の機会を逸すべきではないと奮起を促した。さらに、サトウはフランスが幕府を援助する場合、イギリスはそれを阻止すると述べ、天皇中心の新国家体制への移行を期待するとの言質を与えている。


大政奉還前後のサトウの動向

 1867年5月18日、ワーグマン(取材のためイギリス代表団に同行していた『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』の通信員兼画家)とともに、サトウは東海道経由で大坂から江戸に向けて出発した。27日、掛川で日光例幣使(朝廷から例幣(貢献納)のために派遣される勅使一行)の家来に、「夷狄」という理由で襲撃を受けた「アーネスト・サトウ襲撃事件」が勃発したのだ。

 イギリスは幕府を介して、例幣使側に犯人処罰を要求した結果、2名が死罪、4名が遠島となった。なお、サトウは小田原でパークスの命令を受け、夜通し早追い駕龍で江戸へ急行した。パークスは、サトウの安全に配慮したのかも知れない。

 7月23日、パークスはミットフォードとサトウを伴い、箱館経由で海路日本海側の諸港の視察に出発した。サトウらは新潟、佐渡を経て能登半島の七尾に上陸し、開港問題について加賀藩士と会談した。8月10日、サトウはパークスの指示により、陸路で大坂に赴いた。なお、サトウは金沢で「英国策論」の翻訳を読んでいた藩士と議論したり、各地で政治や物産の情報を収集したりした。

 サトウは大坂でパークスと合流後、イギリス軍艦イカルス号水夫殺害事件の調査のため8月30日から土佐へ派遣され、山内容堂や後藤象二郎らと政治体制について議論した。そして、9月12日から1ヶ月間、長崎に滞在し海援隊などを調査したのだ。さらに、長崎で伊藤博文、木戸孝允らと政治情勢を議論している。

 11月10日、徳川慶喜が大政を奉還した。サトウは内戦が不可避であり、「終りの始まりが開始された」と予測した。 1868年(明治1)1月3日、朝廷は王政復古の大号令を発し、慶喜の辞官納地を決定した。7日には、サトウは大坂城へ移動する慶喜に邂逅している。 27日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、本格的に戊辰戦争が始まった。

 パークスやサトウらは大坂居留地を去り、2月3日に兵庫へ脱出した。なお、サトウは2月18日から23日まで、新政府軍兵士を治療するウイリスに同行して、初めて京都を訪問している。

 次回は、江戸無血開城を含む戊辰戦争におけるサトウの役割、さらに、明治時代のサトウの動向について、詳しく述べて本シリーズの最後としたい。

筆者:町田 明広

JBpress

「日本」をもっと詳しく

「日本」のニュース

「日本」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ