ユーゴ紛争によって破壊された古都モスタル、復興した多文化共生の街で、奇跡的に生き残った博物館兼ホテルに泊まる

2024年4月12日(金)8時0分 JBpress

バルカン半島の国ボスニア・ヘルツェゴビナの南部の古都モスタル。ユーゴ紛争によって破壊された街が再生し、多民族・多文化の共生や平和の象徴となっていることから2005年、ボスニア・ヘルツェゴビナ初の世界遺産(文化遺産)に登録されました。歴史上、支配者が次々に変わったことにより、街にはさまざまな文化が入り交じっているモスタルを散策してみましょう​。

取材・文=杉江真理子 取材協力=春燈社


モスタルの歴史と街の破壊

 ネレトヴァ川の渓谷沿いにある古都モスタルは、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の中心都市で、現在国内4位の大都市です。

 歴史上、ローマ帝国支配下ではダルマチア属州に含まれていて、中世まではキリスト教地域でした。1468年にオスマン帝国の支配下に入り、イスラム教地域となります。15〜16世紀にはオスマン帝国の国境の町として栄え、その後ハプスブルク家の帝国であったオーストリア・ハンガリー帝国時代(1867年〜1918年)にも発展します。そのためオスマン帝国衰退後は主にキリスト教とイスラム教が共生し、独自の文化が建築などにも表れている美しい町となりました。

 旧国名であるユーゴスラビア(連邦共和国)時代には、ボシュニャク人(ムスリム)、セルビア人(正教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)が共生する多民族国家でした。しかし1991年、クロアチアやスロベニアが相次いで独立宣言して、クロアチアでは独立紛争が始まります。しだいにボスニア・ヘルツェゴビナでも各民族間での独立・分離の動きが活発となり、内戦状態となっていきました。

 第二次世界大戦後、ヨーロッパ最悪の紛争となったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1992年4月から1995年12月までの3年半にわたって続き、死者20万人・難民200万人を出す結果となりました。

 NATO(北大西洋条約機構)軍の介入を経て1995年に戦闘停止となり、和平条約であるデイトン合意に達しました。現在はボシュニャク人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国の2国で「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が構成されています。

 モスタルもこの紛争によって、街の象徴であった「古橋(スタリ・モスト)」はじめトルコ風の古い町並みのほとんどが破壊されてしまいます。古橋は近年再建され、旧市街もユネスコが設立した国際委員会の協力で修復・再建されたことから、2005年、モスタル旧市街の古橋地区は世界遺産(文化遺産)に登録されました。整備された地区を少し外れると、今もなお銃弾の痕も生々しい建物がたくさんあり、当時の内紛の激しさが感じられます。

 またこの紛争では、モスタル市のバス会社の被害も甚大で、バスの多くが戦闘中に破壊・略奪に遭いました。無事だったバスも交換部品の調達ができず稼動できなくなったことから、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、「モスタル市公共輸送力復旧計画」を策定し、日本政府にバスの購入に必要な資金の協力を要請しました。

 このことから無償資金協力が実施され、モスタル市および周辺町村市民約23万人の交通手段の改善や、市民の社会・経済活動が活発化に役立ったことは、政府や市民から高い評価を受けています。

 街には側面に日の丸と「日本の方々からです」と書かれている黄色い市バスが走っています。私が滞在中も日本人だと気づいたのか、バス車中の男性ふたりが立ち上がって、手を振ってくれたことがありました。モスタルを訪れた際には、ぜひ,日本の対ボスニア・ヘルツェゴビナ経済協力の象徴となっている「黄色いバス」にも注目してみてください。


街の象徴スタリ・モスト

 モスタルは古いトルコ風の家々や、幅30m、高さ24mという当時としては驚くべき建設技術で建てられた「古橋(スタリ・モスト)」(現在の橋は再建)が有名です。

 オスマン帝国に支配されていた時代、街の中心には木製の吊り橋が架かっていましたが、1566年、地元の石灰岩を使ったトルコ式アーチ型の石橋として架け替えられました。街の名前になっているモスタルは、橋の番人を意味する「モスタリ」に由来しています。

 スタリ・モストは紛争中の1993年11月9日午前3時、クロアチア系のカトリック民兵から放たれたロケット弾が側壁に命中し、破壊されてしまいます。ネレトヴァ川を挟んでムスリム地域とキリスト教徒地域に分かれていて、橋はムスリムが作ったということでカトリック民兵の標的になってしまったそうです。

 その後復興計画が持ち上がり、川底から破壊された橋の残材を集め、足りない石材は創建当時と同じように地元の石灰岩を使い、ユネスコの支援を受けたトルコ企業が創建当時の技法によって復興工事を行いました。

 2004年6月23日、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の悲しみの象徴であったスタリ・モストは、再び街の象徴として蘇ります。橋を真下から見上げると大迫力で、このような高い橋を16世紀によく造ったものだと驚きます。

 エメラルドグリーンのネレトヴァ川に架かる再建された橋とモスタル旧市街は、多民族・多文化の共生や和解の象徴ともなっています。橋のたもとには「忘れるな」という英語のメッセージを刻んだ石が置かれています。

 地元の若者たちの間ではスタリ・モストから川に飛び込むのが伝統になっていて、毎年夏に飛び込み大会が開催されています。

 橋の近くは美しく整備され、石畳の道が続く歩行者天国になっています。ショップや露店、レストラン、土産物店などが連なり、多くの観光客で賑わいます。川沿いのオープンカフェから橋を眺めるのもおすすめです。

 また、スタリ・モストの北東側にひときわ目立つミナレット(塔)のあるモスクが、「コスキ・メフメット・パシナ」。約30メートルの高さのミナレットは階段で上がることができ、ここからスタリ・モストと旧市街の絶景を眺めることができます。有料トイレと売店があるので、ここでも休憩することができます。


旧市街の中心部にあるホテル

 モスタルでおすすめのホテルをご紹介しましょう。内戦をくぐりぬけて奇跡的に残ったモスタルにあるトルコ風の建物「ムスリベゴヴィッチ ハウス」は、博物館兼ホテルとなっています。広大な土地を所有していたメフメト・ムスリベゴヴィッチが所有していた邸宅で、オスマン帝国時代のヘルツェゴビナの住宅建築の例として、国定記念物にも指定されています。

 博物館にはコーランの写本や、1866 年の装飾が施されたサーベル、公文書などが展示されています。公文書はアラビア語、トルコ語、ボスニア語が併記されたということからも、多文化の地であることがわかります。

 主屋は 1871 年から 1872 年にかけて増築され、建物の一部は12 の寝室のあるホテルとして使用されています。オスマン帝国時代の品物や芸術品が飾られていて、かつての栄光が偲ばれます。

 アンティーク家具と伝統的なボスニア・オスマン風のスイートルームには、異なる内装のベッドルームがあり、豪華なひと時を過ごすことができます。

 川沿いにある「ホテル クリヴァ チュプリヤ」もおすすめです。「クリヴァ・チュプリア」とはネレトヴァ川の支流ラドボリャ川に架かる橋の名前で、曲がった橋という意味です。1558年頃に完成したといわれるモスタルで最も古い橋でしたが、1999年の洪水で破壊され、2002年に再建されました。

 ホテルはこの橋のすぐ近くにあり、バルコニーからは旧市街の景色が望められるという素晴らしいロケーションです。客室は清潔感あふれるモダンなデザインとなっています。

 ホテル クリヴァ チュプリヤの近く、スタリ・モストから約60mの「ホテル エメン」もおすすめです。

 レスランのメニューには新鮮な地元の食材をふんだんに使った伝統的な料理や多国籍料理を幅広く取り揃えています。

 ディナーのあとにはぜひ、伝統的なボスニアンコーヒーといっしょに「フルマシカ」「バクラヴァ」「トゥファヒヤ」などの地元のデザートを召し上がってみてください。

 モスタルへは首都サラエボから電車で約2時間。旧市街が世界遺産になっているクロアチアのドブロブニクからバスを使うと、約3時間半ほどです。

 モスタル旧市街の居心地の良いホテルに泊まり、翌朝はエメラルド色の美しさを持つネレトヴァ川沿いの美しい街を散策しながら、多民族・多文化の共生や平和について、思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

※旅行に行かれる際は外務省海外安全ホームページなどで現地の安全情報を確認してからお出かけください。

https://www.anzen.mofa.go.jp/

筆者:杉江 真理子

JBpress

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