市毛良枝「2度の脳梗塞で車椅子生活になった母の目を見張る回復力。100歳で逝った母は〈楽しいことを諦めない大切さ〉を教えてくれた」

2024年4月30日(火)12時30分 婦人公論.jp


90代の母と、アメリカ・オレゴン州の雄大な大自然を満喫。2008年に初めて訪れた時のもの。(写真提供:市毛さん)

母の介護を13年近く続けた市毛良枝さん。市毛さんの母は、脳疾患と大腿骨骨折により歩けなくなることが懸念されていました。しかし、懸命なリハビリで医師も驚くほどに回復し、90代では海外旅行を楽しむまでに。さまざまな葛藤を乗り越えて母に寄り添った市毛さんが、その姿から学んだことは(構成:丸山あかね)

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手術ができず、一度は死を覚悟した


母は2016年に100歳と10ヵ月で旅立ちました。13年にわたる介護生活は、とにかく苦労の連続でした。しかし母は、その生きる姿を通して「楽しいことを諦めない大切さ」を改めて教えてくれたと思っています。

旅好きだった母が最後に海外旅行を楽しんだのは、亡くなる2年前でした。とはいえ、98歳までピンシャンしていたわけではありません。寝たきりを覚悟した場面からのV字回復が見事だったのです。

歯医者さん以外にはお世話になったことのなかった母に大腸がんが見つかったのは、86歳の時でした。当時は二世帯住宅の1階と2階に分かれて暮らしていたのですが、母は趣味の手仕事に没頭するとほかのことは何もしたくなくなるみたいで。

私が仕事から戻り様子をのぞきに行くと、夕飯を食べていないことが何度もあったのです。冷蔵庫の食材もほとんど減っていない。これはまずいな、と思っていた矢先のことでした。

ところが母は、食事の大切さを説明してくれる主治医の前で「もう嫌いなものは食べません。野菜は一切食べたくない」と宣言。私は母の態度にムッときて、帰りの車の中で言い争いになりました(笑)。つまり喧嘩できるほど元気だったわけですが、手術をしてみたら、想像していたより深刻で。

術後の回復が早く、これまでと変わらない生活に戻ることができたのは幸いだったものの、これはあくまでも前哨戦。その2年後、今度は脳梗塞を起こしたのです。

母が友人と船旅をしている最中の出来事でした。船長から私にファクスで連絡が入り、母が食事中にコーヒーカップを取り落とした、と。たまたま高齢者専門病院の院長が同席していらして、異変に気づいてくださったのが不幸中の幸い。ごく軽い病状で、すぐに投薬したので心配はいらない、と報告を受けました。

急いで仕事を終えて船が停泊するハワイまで会いに行くと、母は予想以上に元気で拍子抜けしたのを覚えています。

しかしその翌年、2度目の脳梗塞に見舞われました。この時も病状はさほど深刻なものではなかったのですが、リハビリ病院へ転院したあとに脳出血を起こして。さらに、治療のため総合病院に戻された翌日、ベッドから落ちて大腿骨頸部を骨折してしまいました。これが介護生活の引き金となったのです。

脳梗塞の薬で血をサラサラにしていたためすぐに手術ができず、高齢ということもあり手術を待つ間に脳に障害が残ってしまうかもしれない、手術できたとしても一生歩くことはできないかもしれない、と説明されました。

生きて帰れない最悪のケースまで想像しながらぼんやりと、「車椅子生活になったら、坂の上に立っている今の家にはもう暮らせない。引っ越すしかないな」と考えていたと思います。

90歳でも筋肉は鍛えられる


手術後は少し麻痺が残り、母は車椅子の生活に。身体はすっかり弱っていましたし、寝たきりになるのは時間の問題だと覚悟していたのです。手術後しばらくしてリハビリ病院に転院したのですが、ここからの母の回復力には目を見張るものがありました。

母は面白い人で、リハビリがとにかく楽しくて仕方なかったようです。大正生まれでスポーツジムに行ったこともありませんから、リハビリでいろんな器具を使うのが新鮮だったのでしょう。

なかでもウォーキングマシンやエアロバイクがお気に入りで、徐々に負荷を重くしてみたり(笑)。入院中は、毎日3時間くらいトレーニングを行っていました。

家で手仕事しかしていなかった母が? と意外でしたが、考えてみれば、私が勝手に母はスポーツに関心がないと思い込んでいただけなんですよね。70代の時には私と一緒に山にも登っていたので、また山に行こうという目標が本人のモチベーションになっていたのだと思います。

それにしても、90歳のほっそりとした脚にしっかりとヒラメ筋がついた時は、ビックリしました。「90歳でも筋肉を鍛えることができるんですね」とリハビリの先生に母の脚を見せたら、先生は「あら、本当だ」って驚いていましたけど(笑)。

最終的に母は、杖で歩行できるまでになりました。総合病院の先生にも杖で歩く母の写真を送ったところ、「ここまで回復するとは思わなくて、みんなで泣きました」と言ってくださったんです。

つまり症状は思った以上に重く、母がそれを上回る努力をしたということでしょう。

在宅リハビリで起きた異変


母は半年間の入院を経て、私が事前に準備していた仮住まいのマンションで暮らすことになりました。便利な立地でバリアフリー。トイレや浴室に手すりもつけましたが、実際に暮らし始めてみるとさまざまな工夫が必要でした。

たとえば、マンションって壁が近くにない場所がたくさんあるんです。そうすると手すりがつけられない。だから、伝い歩きをしたり転びそうになった時に手を置けるように家具を配置しました。

そして車椅子生活になったら、その家具をどけて動線を広く確保する。介護しやすい家の絶対条件は、状況に応じて間取りや使い勝手を変えていけることだと思いました。

リハビリには退院後も週2回ほど通っていましたが、日数制限があるので卒業の時を迎えます。その時点で母は要介護2でしたので、在宅リハビリに切り替えなくてはならなくなる。それで母はやる気を一気に失ってしまって。

その時にわかったのは、一緒に頑張っている仲間の存在や周囲の視線が刺激となり、パワーが生み出されていたのだということでした。

リハビリのお仲間に、「市毛さんが楽しそうに頑張っているから、私も頑張ろうって思うのよ」と声をかけていただいたり。そういう環境が大事なのに、と悲しくて泣いた記憶があります。

そこで私は、母でも受け入れてもらえるスポーツ施設を探し回りました。選択肢をできるだけ増やすために、障害者手帳も申請して。でも、よさそうな施設を見つけても遠方で、私が送迎しなくてはいけなくて泣く泣く断念。結局、リハビリの環境を整えることに走り回る日々でした。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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