大阪万博で展示中《キリストの埋葬》が話題!今に名を残す巨匠たちに大きな影響を与えたカラヴァッジョの劇的な生涯
2025年5月14日(水)8時0分 JBpress
17世紀、西洋美術の黄金期はひとりの天才の出現によって幕を開けました。見事な写実性と、強烈な光と影の明暗法で絵画に革命を起こしたカラヴァッジョです。ベラスケス、ラ・トゥール、ルーベンス、レンブラントなど17世紀の偉大な画家たちにも大きな影響を与えます。今回はカラヴァッジョの波乱の人生を紹介します。
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
ミラノからローマへ
ルネサンス、マニエリスムに続く17世紀の美術を「バロック」といい、ダイナミックな構成とドラマチックな光の捉え方を特徴としています。バロックの創始者といわれているのがミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョです。光をスポットライトのように効果的に用い、闇とのコントラストでドラマティックな画面を創り出しました。その生涯は彼の作品と同じように、ドラマティックで波乱に富んだものでした。
カラヴァッジョは1571年、ミラノで生まれます。父フェルモ・メリージはカラヴァッジョ公爵の執事でした。1577年、ペストの流行から逃れるため一家はミラノ近郊の町・カラヴァッジョに移り住みますが、その年の10月、父、祖父、叔父がペストで亡くなります。
父親亡き後、長男のカラヴァッジョは早く独り立ちする必要がありました。ミラノで活躍していた画家シモーネ・ペテルツァーノに13歳で弟子入りし、絵の修業を始めます。ペテルツァーノは群像表現の宗教画や静物画的な細部描写を得意とする画家で、細密な静物画はカラヴァッジョに受け継がれました。
またジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルドや、アントニオ・カンピの夜景表現も学びました。そして、ミラノを中心とするロンバルディア地方は写実主義の伝統があります。このミラノでの修業は、カラヴァッジョののちの表現に大きな影響を与えることになります。
1590年に母ルチアが亡くなると、弟妹とわずかな財産を分け、1592年、カラヴァッジョはローマに出ます。
貧しい生活のなか、いくつもの工房を渡り歩いた末、売れっ子画家カヴァリエール・ダルピーノの工房に入ります。当時のカラヴァッジョは果物や花などの静物画を得意とし、《果物を剥く少年》(1593年頃)のような、果物や花などの静物と少年を組み合わせた絵を描いています。
デル・モンテ枢機卿との出会い
そんなカラヴァッジョに初めてのパトロンが現れます。まじめな若者がトランプで二人のいかさま師に騙される様子を描いた風俗画《いかさま師》(1595年頃)に目を留めたのが、フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿です。キリスト教主題の絵が多かった当時のイタリアでは、人物たちの心理を見事に表現したこのような風俗画はとても新鮮でした。作品を気に入った枢機卿は、カラヴァッジョを雇って自分の邸宅であるアダマ宮殿に住まわせました。
アダマ宮殿では住んでいた少年たちをモデルにして、見事な花や果物を描き入れた《リュート弾き》(1595年頃)や、《合奏》(1595年頃)などの群像表現の絵も描いています。
とくに《果物籠》(1597年頃)は、静物画がまだ確立されていなかったイタリアの美術史上、最も早い静物画と言われています。純粋に静物画というだけではなく、果実や葉に虫食いの跡があったり、枯れていたりすることから、「儚さ」など寓意的な意味も含んでいると考えられています。
籠が手前に飛び出して見える表現を用いていますが、カラヴァッジョ研究の第一人者・宮下規久朗氏はこれを「突出効果」と名づけました。「突出効果」はその後の作品でも効果的に用いられ、カラヴァッジョの大きな特徴となっています。
「突出効果」以外にもこの時期にすでに見られる特徴があります。《トカゲに噛まれた少年》(1593年頃)、《果物籠を持つ少年》(1594年頃)、《リュート弾き》(1595年頃)などの人物は全身像ではなく半身像で、半身像もカラヴァッジョの大きな特徴のひとつです。またこれらの作品にみられる背後の壁に斜めに差す光は、最大の特徴と言ってよいでしょう。カラヴァッジョの光の表現はバロックの特徴であり、ヨーロッパ中の新しい光の表現となります。カラヴァッジョの光の表現については次回、詳しく解説します。
初期のエピソードをもうひとつ紹介しましょう。神話の神を描いた《ユピテル、ネプトゥヌス、プルート》(1596年頃)はカラヴァッジョ唯一の壁画です。デル・モンテ枢機卿が錬金術に熱中した別荘の部屋の天井に描かれていますが、フレスコではなく油彩です。カラヴァッジョはフレスコが苦手で、一度もフレスコ画を描いていません。フレスコ画は漆喰が乾かないうちに描く必要があり、そのため精密な下絵を用意しなくてはなりませんが、カラヴァッジョはデッサンもなしにいきなり描き、途中で大きな描き直しをしたためフレスコには向かなかったのです。
またこの作品の下から見上げる人物表現「仰視法」も成功しているとは言えません。カラヴァッジョが得意とする明暗表現もフレスコには適さず、以後、壁画に挑戦することはありませんでした。
出世作「聖マタイ伝」と逃亡生活
初期にもいくつか宗教画の作品がありますが、デル・モンテ枢機卿の口利きでサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂のための「聖マタイ伝」連作を制作したことによって、画家人生は大きく開けます。礼拝堂の左に《聖マタイの召命》、右に《聖マタイの殉教》(ともに1600年)が公開されると大評判となり、教会や貴族からの注文が殺到し、イタリア中にカラヴァッジョの名は広まりました。1602年には中央に置かれる《聖マタイと天使》を描き、三部作となっています。それぞれの作品については次回、紹介します。
画家としての地位を確立したカラヴァッジョは枢機卿の家を出ますが、生活は徐々に乱れ、喧嘩や警官との諍いで逮捕されることも度々ありました。ライバル画家のジョヴァンニ・バリオーネから誹謗中傷したとして訴えられたり、女性を巡る争いで相手の頭を背後から斬りつけ、ジェノヴァに逃げたりしたこともありました。こうしたトラブルはエスカレートし、1606年、かねてから対立していたグループの若者を賭けテニスの得点争いがもとで殺してしまいます。逃亡したカラヴァッジョには、「いつでも殺してよい」という「死刑宣告」が出され、二度とローマに帰ることはありませんでした。
以後の逃亡生活においても画家として名を馳せていたことから、制作の依頼がありました。逃亡生活中に描いた作品はこれまでとは違い、さらに闇を強めたものになります。
《慈悲の七つの行い》(1606-07年)、《キリストの笞打ち》(1607年)など、ナポリで制作した作品はナポリの画家たちに強い影響を与えました。彼らはのちにナポリ派と呼ばれます。
カラヴァッジョはナポリを後にすると、マルタ騎士団の島マルタに渡ります。おそらく騎士団長ヴィニャクールの庇護を求めたのだと考えられています。団長はカラヴァッジョを騎士にしようと尽力しました。マルタでは団長の肖像画《アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像》(1607-08年頃)や、騎士たちの求めに応じた絵、そして大作《洗礼者ヨハネの斬首》(1608年)を残しています。
晴れて騎士になったカラヴァッジョでしたが、仲間の騎士と高位の騎士であるベッツァ伯ロドモンテ・ロエロを襲い、大怪我を負わせたことから地下牢に入れられてしまいます。1か月以上経ったある夜、脱獄したことから騎士号は剥奪されました。
シチリアに向かったカラヴァッジョは聖堂の祭壇画など大きな仕事をしました。ただ、襲われたロエロが手下を使って執拗にカラヴァッジョを探し回ったため、大作《聖ルチアの埋葬》(1608年)なども短期間で仕上げ、メッシーナ、パレルモと転々としながら作品を描き続けます。再びナポリに戻った1609年10月、ロエロの手下に襲われて重傷を負いますが、その後も絵は描き続けました。
1610年、ローマに帰ろうと数点の絵を持って乗り込んだ船が、悪天候のためローマ手前の港に寄港します。ここでカラヴァッジョは山賊に間違われて数日間逮捕され、その間に絵を乗せたまま船は出港してしまいます。次の寄港地ポルト・エルコレを目指して灼熱の海岸を歩いて向かったカラヴァッジョは熱病にかかり、ポルト・エルコレの修道院で息を引き取ったのでした。享年38歳。不慮の死の直後に待ち望んでいた恩赦が出ます。天才ゆえのなんとも激しい生涯でした。
参考文献:
『西洋絵画の巨匠11 カラヴァッジョ』宮下規久朗/著 小学館
『もっと知りたい カラヴァッジョ 生涯と作品』宮下規久朗/著 東京美術
『カラヴァッジョ巡礼』宮下規久朗/著 新潮社
『カラヴァッジョへの旅——天才画家の光と闇』宮下規久朗/著 角川選書
『1時間でわかるカラヴァッジョ』宮下規久朗/著 宝島社
『カラヴァッジョ』ティモシー・ウィルソン=スミス/著 宮下規久朗/訳 西村書店
『カラヴァッジョ』ジョルジョ・ポンサンティ/著 野村幸弘/訳 東京書籍
『芸術新潮』2001年10月号 新潮社
『日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展』(カタログ)国立西洋美術館・NHK・NHKプロモーション・読売新聞社/発行
筆者:田中 久美子