両国が「相撲の街」になったのはなぜか、興行場所の変遷が映す歴史的背景

2023年5月23日(火)6時0分 JBpress

(長山 聡:大相撲ジャーナル編集長)


常設館がなかった江戸勧進相撲

 新型コロナウイルスの感染法上の分類が2類相当から5類に下げられた5月の大相撲夏場所は、久しぶりに国技館での観客制限を設けずに開催され、連日満員の盛況が続いている。

 現在、大相撲は東京3場所、大阪、名古屋、福岡でそれぞれ1場所ずつ行われ、年6場所制となっている。

 1月、5月、9月に行われる東京場所は、国技の殿堂・国技館での興行だ。ちなみに地方場所も3月エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)、7月ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)、11月福岡国際センターと興行場所は決まっている。

 だが、江戸勧進相撲の時代は相撲の常設館は存在せず、一定の場所での興行ではなかった。

 勧進相撲とは、神社、仏閣の建立、修理などの資金集めを指し、チャリティー行為が本来の目的だった。

 次第に寄付行為は建て前となり、実質は、職業相撲人の生活のための営利目的に変化していった。それでも寺社奉行に相撲興行を許可する権限があったため、江戸相撲の制度の整った宝暦7(1757)年から天保3(1832)年までの間は、江戸市内にある様々な神社や仏閣で小屋掛けでの興行が行われた。

 その中でも蔵前八幡、深川八幡、両国・回向院が3大本拠地だったが、天保4(1833)年冬場所(10月)以降は、回向院のみが興行場所として定着。同敷地内に国技館が建設される直前の明治40(1907)年春場所(1月)まで、75年の長きにわたって大相撲の本場所が開催された。


明治42年、回向院境内に「国技館」を開設

 明治維新という激動の時代をはさんで、うまく世相の変遷に対応できたのも、回向院という本拠地が存在したことが一因といわれている。常に同じところで興行を行うことができたため、相撲会所(現・日本相撲協会)事務所も門前に構え、相撲部屋や相撲茶屋などの関係者も付近に定着。両国は相撲の街として、世間に認知されていくようになっていった。

 角界は今から114年前の明治42(1909)年6月に、大きな転機を迎えた。回向院境内に大相撲の常設館が完成し、この常設館を「国技館」と命名したことから「相撲は日本の国技である」という概念が、一般的に定着するようになる。

「東洋一の大鉄傘」と謳われた旧・両国国技館は、ドームの屋根を持つ円形の建物。当時としては破格のスケールを誇った。現在のスカイツリーや東京タワーのようにたちまち東京の観光名所として認知された。

 当時の新聞には「国技館という名がついた東京の相撲常設館は、何しろ1万3千人という多人数を入れる大建物。(中略)両国の手前まで来て見渡すと、雲にそびえる円形の屋根。富士と筑波の中間に一つまた高根の山ができたと思われる。(中略)4階から見下ろすと、土俵は目の下の谷底にあって、かすみがかかっているようだ」(明治42年6月5日付の大阪朝日新聞)と、スケールの大きさを強調したいためだったのか、かなりオーバーに報道されている。

 総工費は当時のお金で約30万円。直径61メートル、観覧席は1階から4階まであり、収容人員は一応、1万3000人となっているが、実際はそれ以上に入ることができたと言われている。


相撲界に初めて「優勝」という概念が登場

 事実、国技館初の本場所2日目は日曜日だったため、早朝から続々と観客が詰め掛け「午後2時10分、1万7千人を算し、満員札止めの盛況」(明治42年6月7日、時事新報)と報じられている。

 それまでの小屋掛けの時代は超満員でも3000人ほどだったので、一挙に5倍以上の観客を動員できるようになったことになる。

 江戸時代からのムシロ張りの小屋掛け時代は、晴天10日興行。雨や雪が降れば順延となり、10日の興行が1か月近くかかったこともあった。晴雨にかかわらず本場所が行えるようになり、協会の経営基盤は安定した。

 国技館の開館を契機として、いくつかのルール改正とともに新制度も確立した。10日興行は変わらなかったものの、幕内力士は必ず千秋楽を休場するというそれまでの慣習を改め、皆勤を義務づけた。行司の装束もそれまでの裃姿から、現在のように烏帽子直垂姿に改められた。

 また、普及し始めていた西洋スポーツの影響もあり、相撲界に初めて優勝という概念が導入された。ただし協会が制定したのは、個人の優勝制度ではなかった。

 相撲は古来、二つの勢力に分かれて戦うものだった。平安時代の相撲節会では、力士は左右の近衛府に分類され、それぞれ左相撲(左方)、右相撲(右方)と呼ばれていた。江戸の勧進相撲も節会時代からの伝統は守られ、東と西に分かれ、東方の力士は西方の力士としか対戦せず、同じ方屋同士の対戦はなかった。こうした伝統は昭和初期まで続いた。


相撲近代化の節目となった旧両国国技館のオープン

 そこで東西の勝ち星の多いほうを団体優勝と定め、優勝旗を授与。優勝した側が次の番付で東方に据えられるようになった。同時に幕内で最高の成績を収めた力士には、時事新報社から優勝額が送られるようにもなった。

 引き分け・預かり(同体の場合)といった、はっきり勝負をつけない制度が残っていたため、誰が最優秀の成績か判明しにくい場所も多かったが、一新聞社の表彰だったので問題視されることもなかった。

 相撲協会が正式に個人優勝を制定したのは、摂政杯(現・天皇賜杯)が下賜された大正15(1926)年春場所(1月)からである。その時に優勝力士がはっきりわかるように引き分け・預かりを原則廃止し、取り直し制度が導入された。

 現在では一企業の懸賞にすぎなかった場所も追加公認的に加え、相撲協会もマスコミも明治42年夏場所を個人優勝制度の嚆矢としている。

 両国国技館のオープンは、相撲近代化の大きな節目となった。

 昭和10年代には双葉山の活躍で旧両国国技館は史上空前の盛況を迎えた。しかし、昭和20(1945)年に日本が敗戦した後は、また苦難の道をたどることになる。国技館が進駐軍に接収されたため、神宮外苑や浜町河岸など、興行地を転々と移動することを余儀なくされたからだ。


現両国国技館は無借金で建設

 それが変わったのは蔵前国技館の誕生だ。協会は昭和16(1941)年に蔵前の土地(約1万7770平方メートル)を購入しており、戦後、海軍戦闘機組立工場の鉄骨払い下げを受けると、再び常設館の建設機運が高まった。昭和25(1950)年春場所(1月)から仮設のまま本場所を開催し、建設工事が完了した昭和29(1954)年9月の秋場所前に、蔵前国技館は開館した。

 建物は鉄骨モルタル造りの2階建て、収容人員は1万1108人で、総工費は約2億3000万円だった。昭和46(1971)年から冷暖房を完備するなど本館改装を行ったが、昭和50年代に入ると老朽化が目立ち始めた。新国技館建設を望む声が大きくなり、相撲協会は、昭和58(1983)年に両国駅北隣で工事に着手した。

 現在の現両国国技館は昭和60(1985)年初場所が柿落としの場所となり、39年ぶりに大相撲が両国に戻ってきた。敷地面積は1万8280平方メートル、興行地の延べ面積は約3万8000平方メートル、高さ40メートルで、地下2階、地上3階建て。以前の国技館と異なり、緑色の屋根と白壁を持つ近代和風隅切り型の美しい建物だ。

 両国国技館を建設するために、まず協会は蔵前の国技館の土地を東京都に売却。そして両国駅北隣の国鉄用地を協会の資金で買い取り、国技館の建設費用には蔵前の土地を売ったお金を充てた。借金をすることなく、国技の殿堂を建てた春日野理事長(元横綱栃錦)の手腕は、角界の功労者として今でも高く評価されている。

 現両国国技館は空調、音響、照明設備も万全で、ボタン1つで土俵が地下に収納される。いろいろな面でハイテクが完備された立派な建物にもかかわらず、「ぬくもりがあった蔵前時代のほうがよかった」と多くのオールドファンは口をそろえる。


ファンとのふれあいがあってもいい

 それは決して懐古趣味的な意味ではない。相撲ファンが一番物足りなく思っているのは、構造上、花道に一般のファンが全く入れないことにある。蔵前国技館や、現在の地方場所では、花道が通路を兼ねていることもあり、土俵入りはもちろん、取組に向かう力士、戦いを終えて戻る力士を間近で見ることができる。

 相撲見物とは、まわし姿の異形の巨体と遭遇することも醍醐味の一つ。新型コロナウイルスの感染拡大で、地方場所や地方巡業が中止され、ファンとお相撲さんが接する機会が激減していた。最近ではようやく新型コロナウイルスの猛威も収まりつつあり、日常の風景もだいぶ戻ってきた。

 これを好機と捉え、現在の国技館でも、一般ファンとお相撲さんがもう少しふれあえるように工夫する必要があるだろう。

筆者:長山 聡

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