家康のリーダーシップ「鳴くまで待つ」ような温和で悠長な指導者だったのか?

2023年5月24日(水)6時0分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


家康は「生まれつき、気の逸る殿」

 戦国三英傑の1人・徳川家康は「狸親父」として有名ですが、若い頃から、なかなかの策略家であり「狸青年」ではなかったかということは、『三河物語』を基にして、前回、見てきました。

 江戸時代初期の旗本で『三河物語』(以下、同書と記すことあり)の著者として知られる大久保彦左衛門忠教は、家康最後の戦というべき、大坂夏の陣(1615年)に槍奉行として、従軍しています。大坂の陣における天王寺・岡山合戦においては、敵の豊臣方の軍勢が、家康の本陣近くにまで迫り、大混乱となります。

 同書に、家康の側には、小栗久次のほかは誰もおらず、逃げたのであろうか、それとも前進して戦っているのであろうかと記されるような状態でした。旗奉行の人々も、旗の辺りには1人もいないような状況だったようです。戦後、旗奉行の体たらくを聞いて、家康は不機嫌でした。

 ある時、家康の御前に、彦左衛門と小栗政信とが出ていたのですが、家康は急に彦左衛門に「お前は旗に付いていたか」と尋ねます。彦左衛門は槍奉行でしたので「槍に付いておりました」と答えると、家康は「お前は旗に付いていたのだろう」と何やら誤解している様子。「いや、御槍に付いておりました」と彦左衛門が重ねて言上すると「お前は旗じゃ」と厳しい口調となった家康。

 気の弱い者なら、ここでビビってしまうかもしれませんが、そこは硬骨漢の彦左衛門。「絶対、御槍に付いておりました」と筋を曲げません。さすがの家康もそれ以上押し通すことをせず「では、旗には誰が付いておったのか」と軌道修正。他の者が「庄田が旗に付いておりました」と申し上げます。すると、家康は「庄田、庄田、庄田」と3度も口にしたと言います。庄田の下の名前が出てこなかったようです(暫くして、小栗政信が庄田三太夫と言上)。

 家康この時、74歳、亡くなる前年でした。物忘れとともに、怒りっぽくなっているようにも見えますが、彦左衛門曰く、家康は「生まれつき、気の逸る殿」(せっかち、短気)とありますので、生来のものかもしれません。家康と言えば「なかぬなら鳴なくまで待まてよ 時鳥(ほととぎす)」(チャンスがめぐってくるまで辛抱強く待つ)との句で有名であり、「なかぬなら殺してしまえ時鳥」の織田信長と比べて、のんびり、穏やかなイメージが強いかもしれませんが『三河物語』などを見ていくと、そうしたイメージも変わってきます。

『徳川実紀』(江戸時代後期に編纂された徳川幕府の歴史書)にも、天正10年(1582)の本能寺の変(信長が家臣の明智光秀に討たれる)の際、家康は「早く京に戻って、腹を切って、右府(信長)と死を共にせん」「逃げるにしても、その途中には、山賊もおろう。そのような者に討たれるよりは、都で腹を切る」と、ある意味、感情論を口にして、家臣の本多忠勝に諌められています。


慈悲の裏にあるもの

 諸書を見ていると、家康は結構、短慮で、感情の人のように思えてきます。しかも、かなりの強情。なかなか付き合いにくい上司といった感じですが、彦左衛門は家康の美点も『三河物語』に書いています。それは何か。「慈悲深い」ところです。何をもって、そう言うのかというと、かつて、織田信雄(信長の次男)が、豊臣秀吉に攻められた時、信雄は家康に加勢を要請。家康はそれに応えるも(1584年、小牧・長久手の戦い)、信雄はやがて、家康に相談もなく、秀吉と和議を結ぶに至る。

 しかも、家康を密かに殺害しようともしたという。その後、信雄は秀吉の怒りをかい、改易。関ヶ原の戦いにおいても、石田三成(西軍)方に付くも、戦後、家康は信雄に慈悲をかけ許した。大坂の陣の際の何の役にも立たなかったのに、家康は信雄に5万石を与えた。彦左衛門は「これがお慈悲でなくて何であろうか」というのです。

 更には、関ヶ原合戦後に、西軍に味方した大名(毛利氏や島津氏)を滅ぼすことなく、国を与えたことも「慈悲」だと主張しています。確かに、慈悲と言えば、慈悲なのかもしれませんが、単なる思いやりではなく、そこは家康なりの「冷静」な考えがあって、そうしたのでしょう。

 例えば、西軍だった毛利氏を徹底的に潰すとなれば、それは大変ですし、反発も大きい。よって、毛利氏の所領の大幅な減封という処分にしたのだと思います。しかし、幕末に起こることを考えれば、この時、家康は毛利家を潰しておくべきだったのでしょうが・・・。

 さて、家康と言えば、健康オタク・薬オタクとしても有名ですが、腹部に腫瘍のようなものが発見された時(1616年)には、自分で「これは寄生虫のせいに違いない」と判断を下し、医師の片山宗哲が止めるのも聞かずに、挙げ句の果てには諫言した宗哲を信濃国に流罪としてしまうのです。

 家康は、帝王学の教科書として現代にまでその名を知られる『貞観政要』(中国・唐の皇帝 太宗と臣下の問答や彼らの事跡を分類編纂した書)を愛読したと言われています。『貞観政要』の肝は、家臣からの耳の痛い言葉(諫言)にも主君は耳を傾けよということです。しかし、家康の実際の行動を見ると、本当に『貞観政要』から学んでいるのかと思われることもしばしば。やはり、人間、大きな権力を持ってしまうと、横暴になってしまうのでしょうか。

「論語読みの論語知らず」(書物を読んではいても、その精神を十分には理解できず、実生活に生かせないこと)になってはいけない。家康の言動を見ていると、自戒の念を込めて、ふとそんな言葉が頭をよぎるのです。

筆者:濱田 浩一郎

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