『光る君へ』7歳で即位した一条天皇の生涯、寵愛したのは定子だけではなかった?詠んだ歌の「君」は誰をさす?
2024年5月27日(月)8時0分 JBpress
今回は、大河ドラマ『光る君へ』で、塩野瑛久が演じる一条天皇を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
7歳で即位
一条天皇は天元3年(980)6月、段田安則が演じた藤原兼家の邸宅である東三条第で生まれた。諱は懐仁(ここでは一条天皇で統一)と定まった。
父は坂東巳之助が演じた円融天皇、母は吉田羊が演じる藤原詮子。円融天皇の唯一の子であった。
円融天皇は永観2年(984)8月27日に26歳で退位し、本郷奏多が演じる花山天皇が即位。同日、一条天皇は5歳で皇太子に立てられた。
ドラマでも描かれたように、寛和2年(986)6月、花山天王が出家し退位すると(寛和の変)、一条天皇は僅か7歳で即位する。
皇太子には同年の7月16日に、冷泉院(円融の兄)の皇子・居貞親王(木村達成が演じる後の三条天皇/母は藤原兼家の長女・超子)が立てられた。このとき居貞は11歳、一条天皇より年上だった。
最初は外祖父の兼家が摂政となり、兼家の死後は、兼家の長男・井浦新が演じる藤原道隆が摂関をつとめ、「中関白家」と呼ばれる道隆の一族の繁栄がはじまった。
定子との日々
一条天皇は永祚2年(990)正月、11歳で元服し、同月、道隆の娘・高畑充希が演じる定子が入内して、翌月に女御となった。
定子は、貞元元年(976)、あるいは貞元2年(977)に生まれたとされ、一条天皇より、4歳、もしくは3歳年上である。
定子は寵愛され、一条天皇のキサキの座を独占した。
定子に仕えたファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは「ききょう」)の随筆『枕草子』には、二人の睦まじい様子が詳しく描かれている。
『枕草子』の記述が正しければ、一条天皇は定子と幸せな時間を過ごしていたのだろう。
だが、幸せな日々は長く続かない。
長徳元年(995)4月10日、定子の父・道隆が死去し、道隆の後任となった玉置玲央が演じる藤原道兼も同年5月8日に没した。
一条天皇は三浦翔平が演じる道隆の子・藤原伊周(定子の兄)に関白を任じることなく、道長に内覧の宣旨を下した。
これにより、政権の座には道長がついた。
翌長徳2年(996)には、伊周とその弟・竜星涼が演じる藤原隆家が花山上皇を射掛けるという大事件を起こした(長徳の変)。伊周と隆家は配流となり、定子は髪を切り落としてしまう(『栄花物語』巻第五「浦々の別」)。
懐妊中であった定子は、長徳の変後、内裏を出た。その後、定子は京内の邸宅と、内裏の左隣に位置する職御曹司を行き来しながら暮らすことになる(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 西野悠紀子「第七章 一条天皇 ——王朝文化全盛期をきずいた天皇」)。
寵愛したのは定子だけではなかった?
定子の後見の没落を受け、有力者たちは一条天皇の後宮に娘たちを送り込んでくるようになった。
長徳2年(996)7月20日、米村拓彰が演じる藤原公季(兼家の異母弟)の娘・藤原義子が入内し、8月9日、女御とされた。一条天皇より6歳年上で、このとき23歳だった。
義子が一条天皇の子を宿した形跡は、見られないという(倉本一宏『人物叢書 一条天皇』)。
11月14日には、宮川一朗太が演じる右大臣藤原顕光の娘・藤原元子が入内し、12月2日に女御となった。このとき元子は、18歳くらいであったと推測されている(角田文衞『承香殿の女御』)。
一条天皇はこの元子を寵愛し、元子はのちに懐妊することになる。
長徳4年(998)2月11日には、故藤原道兼の娘・藤原尊子が、15歳で入内する。尊子の生母で、一条天皇の乳母である山田キヌヲが演じる藤原繁子の願いによる入内であったという(角田文衞『承香殿の女御』)。
尊子は長保2年(1000)に女御となっているが、一条天皇の寵愛を受けてはいないようである。
一方、定子は長徳2年(996)12月16日、一条天皇の第一子となる脩子内親王を出産した。
翌長徳3年(997)6月には、定子は一条天皇や周囲の者から促され、脩子とともに、職曹司に入った。
その後も、一条天皇は定子を寵愛し続け、定子は再び、懐妊する。
元子への寵愛も止むことはなく、元子もまた、一条の子を宿した。
しかし、元子は翌長徳4年(998)6月に破水してしまい、一条天皇の子を産むことはなかった(『栄花物語』巻第五「浦々の別」)。
史上初の「一帝二后」と定子の死
長保元年(999)11月1日に、見上愛が演じる娘の彰子(母は黒木華が演じる源倫子)を入内させた。のちに紫式部が仕えたのは、この彰子である。
彰子は一条天皇より8歳も年下で、まだ12歳であった。
一条天皇は入内から6日後の11月7日に、彰子に女御宣旨を下した。同じ日、定子が第一皇子となる敦康親王を出産している。
幼い彰子は、まだ一条天皇の寵愛の対象になり得なかったが、翌長保2年(1000)2月、道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)を決行した。
だが、一帝二后の状態は、長くは続かなかった。
同年12月、定子が、第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に、24歳、もしくは25歳の若さでこの世を去ったからだ。
渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』長保2年12月16日条によれば、定子の死を知った一条天皇は「皇后宮すでに頓逝、甚だ悲しい」と語っている。
定子の妹に面影を重ねた?
定子の忘れ形見で、唯一の皇位継承者である敦康親王は、彰子の猶子となり、彰子の御在所で育てられることになった。
彰子の御在所では、定子の実妹(道隆四女)・御匣殿が、敦康親王の「御母代」として、仕えていた。
歴史物語『栄花物語』巻第八「はつはな」には、一条天皇は御匣殿を寵愛し、懐妊させたことが、綴られている。
御匣殿は一条天皇の子を宿したまま、亡くなったという。
この話が史実だとしたら、一条天皇は御匣殿に、定子の面影を重ねたのだろうか。
彰子所生の皇子誕生と、一条天皇の崩御
寛弘5年(1008)9月11日、21歳になった彰子は、一条天皇の第二皇子となる敦成(後の後一条天皇)を出産し、翌寛弘6年(1009)11月25日にも、第三皇子となる敦良(後の後朱雀天皇)を生んでいる。
彰子の父・道長は、彰子所生の皇子誕生を喜んだ。
寛弘8年(1011)5月、一条天皇は病に倒れ、皇太子であった居貞親王に譲位し、6月22日に崩御した。
享年32、在位は25年の長きにわたった。
「君」は誰を指す?
藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘8年6月21日条によれば、一条天皇は崩御の一日前に、彰子が御几帳の近くで見守るなか、以下の歌を詠んでいる。
露の身の草の宿りに君を置きて塵を出でぬる事をこそ思へ
(露の身のような私が、草の宿に君〔藤原彰子〕を置いて、塵の世を出る事を思う)(倉本一宏『藤原道長 「御堂関白記」(中)全現代語訳』
『権記』同日条の歌は以下の通りで、『権記』とは微妙に違う。
露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき
(露の身のような私が、風の宿に君を置いて、塵の世を出る事が悲しい)(倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳(下)』)
いずれにせよ歌意から、君とは、このとき生きている妻、すなわち、『御堂関白記』にあるように、彰子のことだと思える。
ところが、『権記』で行成は、定子のことだと記しているのだ。
行成が、定子のことだと感じるほど、一条天皇と定子の絆は深かったのだろうか。
【一条天皇ゆかりの地】
●長保寺
長保2年(1000)、一条天皇の勅願により、花山院も深く帰依した性空上人が創建したと伝えられる。
和歌山県海南市にある。
筆者:鷹橋 忍