『光る君へ』紫式部の後半生、夫の死後『源氏物語』を書き始める、道長の娘・彰子への出仕、道長との関係は?
2024年6月17日(月)8時0分 JBpress
今回は、紫式部の後半生を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
夫の急死
長徳4年(998)に、紫式部は佐々木蔵之介が演じる藤原宣孝と結婚した。
長保元年(999)、もしくは長保2年(1000)には、賢子という女子を授かったが、長保3年(1001)4月25日、宣孝は急死してしまう。
紫式部の生年は諸説あるが、ここでは仮に天延元年(973)年説で年齢を算出すると、紫式部が数えで29歳の時のことである。
紫式部が自撰したとされる和歌集『紫式部集』には、
世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所どころに書いたる絵を見て塩釜
(この世のはかなさを嘆いていた頃、陸奥の名所がいくつも描いてある絵を見て 塩釜)
見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦
(連れ添ってきた夫・宣孝が、荼毘の煙となったその夕べから、塩の産地で塩焼きの煙が立ち上る塩釜の浦に、なぜか親しさを覚えてしまう)
など、夫の死を悼む歌が収められている。
早くも求婚者が現われる
宣孝が亡くなる少し前の長保3年3月頃に、岸谷五朗が演じる父・藤原為時が、越前守の任期を終え、帰京している。紫式部は実家で、娘の賢子、再び散位となった為時の三人を中心とする生活を送るようになった。
宣孝の卒去から少し経つと、紫式部は西国の受領を務めていたと推定される男性から(今井源衛『人物叢書 紫式部』)、求婚された。
求婚者を、宣孝の子・藤原隆光とする説もあるという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
『紫式部集』には、求婚者との歌のやりとりが記されているが、紫式部は求婚に応じなかったようだ。
紫式部の宮仕えの記録『紫式部日記』には、このころの生活を回想した部分が存在する。
それによれば、紫式部は、様々なことを紛らわすために、友達同士で物語を作っては見せ合ったり、手紙で批評し合ったりして、過ごすこともあったという。
紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめた時期は諸説あるが、夫・宣孝の死を契機に、書き始めたともいわれる。
道長の娘・彰子への出仕
一方で道長は、長保元年(999)に12歳の娘・見上愛が演じる彰子(母は、黒木華が演じる源倫子)を、塩野瑛久が演じる一条天皇に入内させた。
一条天皇にはすでに、高畑充希が演じる定子という中宮がおり、一条は定子を寵愛していた。
それにもかかわらず、道長は彰子の立后を迫り、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)が、長保2年(1000)2月に決行されている。
だが、同年12月、定子は第三子となる皇女・媄子を出産した翌日にこの世を去ったため、一帝二后は10ヶ月で終わりを告げた。
ファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは、ききょう)を初め、才気溢れる女房たちが揃った華やかな定子の後宮は、風流と機知に満ち、一条天皇や貴族たちに愛されていた。
道長は娘・彰子が一条天皇の寵愛を得るためにも、彰子の後宮も定子の後宮に匹敵する文化の高いものにする必要があり、有能な女房を召し抱えていく。
紫式部も寛弘2年(1005)か寛弘3年(1006)の年末から彰子に出仕し、女房群に加わった。宣孝の死から4年、あるいは5年後、紫式部が33歳か34歳ぐらい、彰子が18歳か19歳のときのことである。
紫式部が彰子の女房となったのは、書き始めた『源氏物語』が評判となり、その評判を聞きつけた道長からの要請だと推定されているという(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)。
なお、大河ドラマの時代考証を務める倉本一宏氏は、『源氏物語』は道長の依頼により起筆されたという可能性を提示している。道長の目的は、文学を好む一条天皇が、『源氏物語』の続きを読むために彰子の御所を頻繁に訪れ、その結果として、皇子懐妊の日が近づくというものであったという(倉本一宏『人をあるく 紫式部と平安の都』)。
いずれにせよ、紫式部は宮中の女房という、新たな世界に飛び込むこととなった。
「日本紀の御局」とあだ名される
出仕は、紫式部にとっては気の進まぬものであったようだが、出仕の翌年、あるいは翌々年の寛弘4年(1007)正月、弟の高杉真宙が演じる藤原惟規が六位蔵人に補されるなど、彼女の家族には良い影響を及ぼしたとされる。散位であった父・為時も寛弘6年(1009)3月に左少弁、寛弘6年(1009)3月に越後守に任じられた。
紫式部は出仕当初、為時のかつての官職「式部丞」に依り、女房名は「藤式部」だったと推定されているが、『源氏物語』の人気が高まるにともない、紫の上を作者に結びつけて、紫式部と呼ばれるようになったともいわれる(諸説あり)。『源氏物語』は宮中でも好評を博したようである。
『紫式部日記』には、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませ、「この作者はあの難解な『日本紀』(勅撰の六つの国史『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『文徳実録』、『三代実録』の総称と思われる)を読んでいるに違いない。ずいぶんと漢才があるようだ」と賞賛したことが記されている。
たが、一条天皇の言葉を聞いた朋輩の女房が、「学識をひどく鼻にかけている」と殿上人などに触れ回り、「日本紀の御局」とあだ名を付けられ、陰口を叩かれたという。
当初、紫式部は宮廷での生活になかなか馴染めなかったようで、出仕早々に実家に退出してしまったこともあった。
だが、やがて、中宮彰子の信任を得るようになり、寛弘5年(1008)夏頃から、懐妊した彰子に、唐の代表的詩人・白居易(字は楽天)の詩文集『白氏文集』の「楽府」を進講している。
同年9月、彰子は待望の皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産するが、『紫式部日記』には、その誕生が細かく詳しく記録されている。
道長との関係は?
ドラマでは相思相愛の紫式部と道長であるが、二人はどのような関係だったのだろうか。
『紫式部集』では、道長が花盛りの女郎花を一枝折らせて、几帳越しに紫式部に与え、女郎花の和歌を交わしている。
また、『紫式部日記』には
寛弘6年(1009)夏頃、道長の
すきものと名にして立てれば見る人の 折らですぐるはあらじとぞ思ふ
(貴女は浮気者という評判ですから、誰もが口説くことでしょう)
という歌に対し、紫式部は
人にまだ折られぬものを誰かこの 好きものぞとは口ならしけむ
(私は誰にも折られておりません。誰がそんな噂を流しているのですか)
と、返歌したことが記されているが、これは、挨拶程度の戯れに過ぎないとみられている。
さらに、ある夜、道長と思しき男性が、紫式部の局の格子戸を叩き、翌朝、歌を贈ってきたが、紫式部は拒絶したというエピソードが続く。
南北朝時代に編纂された系譜集『尊卑分脈』には、紫式部は「御堂関白道長の妾」と記されているが、その下に「云々」と添えられおり、根拠のない伝承とされる(以上、今井源衛『人物叢書 紫式部』)。
ドラマでは今後、二人の関係はどのように描かれるのだろうか。
実資との意外な繋がり
寛弘8年(1101)6月に、一条天皇は崩御し、木村達成が演じる三条天皇が即位した。長和元年(1012)2月、彰子は皇太后となったが、紫式部はその後も、彰子に仕え続けた。
秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』5月25日条では、実資が以前から越後守為時女(紫式部のこと)を取次役として、彰子に雑事を啓上させていたことが記されている。
これにより、『小右記』寛仁3年(1019)5月19日、8月11日、寛仁4年(1020)9月11日、12月30日に登場する「女房」も、紫式部とみる説もある。
紫式部の没年は諸説があり、定かでない。
『源氏物語』の作者として、その名は永遠に語り継がれるだろう。
【紫式部ゆかりの地】
●石山寺
滋賀県大津市にある真言宗の大本山。
平安時代には貴族たちの間で石山詣が流行し、『蜻蛉日記』の作者・財前直見が演じる藤原道綱母(ドラマでは藤原寧子)、道綱母の異母妹の娘で『更級日記』を著した菅原孝標女などの女流文学者も訪れている。
紫式部も石山寺に参籠し、『源氏物語』の構想を練ったと伝わる。
筆者:鷹橋 忍