『光る君へ』藤原道長が亡くなった後の平安時代、紫式部、源倫子、藤原彰子、清少納言、藤原隆家、藤原実資のその後
2024年12月16日(月)8時0分 JBpress
大河ドラマ『光る君へ』も、最終回「物語の先に」を迎えた。藤原道長はこの世を去り、紫式部は再び旅立ったが、その後、紫式部や登場人物たちはどうなったのだろうか。
文=鷹橋 忍
紫式部は何歳まで生きた?
道長は万寿4年(1027)12月4日、62歳で、この世を去った。
この時、紫式部が存命であったかどうかはわからない。
秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和2年(1013)5月25日条では、実資が以前から越後守為時女(紫式部のこと)を取次役として、見上愛が演じる彰子に雑事を啓上させていたことが記されている。
故に、この時までは彰子に仕えていたことは確かとされ、『小右記』寛仁3年(1019)5月19日、8月11日、寛仁4年(1020)9月11日、12月30日に登場する「女房」も、紫式部とみる説もあるが、定かでない(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 河添房江「第一章 紫式部——その人生と文学」)。
『小右記』にはこの他にも、万寿4年12月17日条まで、実資の取次の女房が見える。
もし、この女房が紫式部だとすると、道長が亡くなった時、彼女は存命だったことになる。
紫式部の没年は明らかではなく、長和3年(1014)説、
紫式部の生年には諸説があるが、仮に天延元年(973)
ドラマの時代考証を務めた倉本一宏氏は、「万寿、長元年間まで存命で、宮廷に出仕していた可能性もあり得る」としている(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。
ドラマの紫式部も、旅を終えたら宮廷に出仕し、再び物語を綴るのかも知れない。
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道長の妻たち
道長の死後、残された二人の妻は、どうなったのか。
瀧内公美が演じた源明子の、道長の死後の動静はあまりわかっていない。
だが、道長が亡くなってから20年以上も健在で、永承4年(1049)7月22日に、85歳で亡くなった。
当時としては、かなりの長命である。
道長との間に生まれた6人の子どものうち、4人が存命で、孫も何人も誕生していたので、多くの身内に看取られて、最期の時を迎えたのかもしれない。
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道長の正妻・黒木華が演じた源倫子は、明子よりもさらに長命で、享年はなんと90歳である。
上東門院の院号を受け女院となった長女・彰子や、渡邊圭祐が演じた長男・関白頼通、姫子松柾が演じた二男・右大臣教通、豊田裕大が演じる養子・権大納言長家(道長と明子の子)に看取られ、天喜元年(1053)6月11日に、長い人生に幕を下ろした(服藤早苗 高松百花編『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』所収 東海林亜矢子「第四章 正妻源倫子 ◎妻として、母として、同志として」/『定家朝臣記』同日条)。
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彰子は息子二人に先立たれる
彰子は道長の死後、天皇家と摂関家の実質的な家長として、両家を支え、承保元年(1074)に87歳で亡くなった。
母・倫子と同じく彰子も長命だったが、彰子の息子二人は、後一条天皇が長元9年(1036)に29歳で、後朱雀天皇が寛徳2年(1045)に37歳で、それぞれ没し、彰子は息子二人に先立たれている。
清少納言は零落していない?
ファーストサマーウイカが演じた清少納言は、高畑充希が演じた定子の没後、ほどなくして宮仕えを辞め、再婚相手とされる摂津守の藤原棟世の任国に下向した(丸山裕美子『清少納言と紫式部』)とも、定子の遺児である海津雪乃が演じた脩子内親王に仕えたなどとも考えられている(倉本一宏『平安時代の男の日記』)。
道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017)3月11日条には、清少納言の兄・清原致信が「殺人の上手」源頼親によって殺害されたことが記されているが、この時、清少納言も同居していたとの説話が『古事談』にみられる。
清少納言には晩年、零落した生活を送った、あるいは地方を流浪したなどの没落説話も伝わるが、現在ではほぼ否定されているという(源顕兼 倉本一宏編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 古事談』)。
藤原棟世との間に生まれた娘が小馬命婦として彰子に仕えるなど、子どもたちが地位を得ており、兄弟も健在であったことから、定子の後宮に仕えていた頃ほどの華やかさはなかったかもしれないが、零落にはあたらないと考えられている(丸山裕美子『清少納言と紫式部』)。
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隆家と実資は?
「刀伊の入寇」での活躍で注目を集めた竜星涼が演じた藤原隆家は、長暦元年(1037)、59歳の時、再び大宰権帥に任じられ、長久2年(1041)まで、その任についていた(『国史大系 第53巻 新訂増補』所収『公卿補任』)。
だが、この時は現地に赴任しなかったようだ(倉本一宏『藤原伊周・隆家 ——禍福は糾へる纏のごとし——』。
長男・藤原良頼と二男・藤原経輔が公卿に上っている。
隆家は、37歳で亡くなった三浦翔平が演じた兄の藤原伊周よりも30年近く長命を保ち、寛徳元年(1044)1月1日に、66歳で死去した。
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ドラマでも人気が高かった秋山竜次が演じる藤原実資は、道長が存命中の治安元年(1021)、65歳の時に右大臣に上り、以後、永承元年(1046)に90歳で亡くなるまで、その地位にあり、「賢人右府」と称された。
頼通からの信頼も厚く、道長亡き後は、頼通と実資の二人三脚で政務を担ったという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。
実資の日記『小右記』は、藤原宗忠の『中右記』、藤原定家の『明月記』とともに、三大古記録の一つに数えられている。
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後一条天皇が崩御した後の朝廷
長元9年(1036)4月には後一条天皇が崩御し、後一条の同母弟・敦良親王が28歳で践祚し、後朱雀天皇となった。
この年、頼通には、娘・寛子(のちの後冷泉天皇の皇后)が誕生しているが、すぐに後朱雀天皇に入内させられる娘はいなかった。
そこで頼通は、敦康親王(一条天皇の第一皇子 母は高畑充希が演じた定子)の娘・嫄子女王を養女に迎え、翌長元10年(1037)に、後朱雀天皇の中宮に立てた。
嫄子は祐子内親王と禖子内親王を産むが、皇子が誕生することのないまま、長暦3年(1039)、24歳で亡くなってしまう。
そんななか、頼通の4歳年下の同母弟・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇に入内させたが、生子が皇子を授かることはなかった。
寛徳2年(1045)正月、後朱雀天皇は21歳の第一皇子・親仁
親仁親王は践祚し、後冷泉天皇となった。
後冷泉天皇の異母弟・尊仁親王(のちの後三条天皇)が、
尊仁親王の母は、木村達成が演じた三条天皇の皇女である禎子内親王だ。禎子内親王の母は、頼通の同母妹・倉沢杏菜が演じた姸子である。
後冷泉天皇に、教通は永承2年(1047)に三女の歓子を、頼通も永承5年(1050)に15歳の長女・寛子を入内させた。
だが、歓子も、寛子も、皇子を産むことはなく、治暦4年(1068)4月に後冷泉天皇が44歳で崩御すると、頼通・教通兄弟を外戚としない尊仁親王が即位し、後三条天皇となった。
後三条天皇は延久4年(1072)、道長の子・藤原能信(母・源明子)の養女との間に生まれた貞仁親王に譲位した。貞仁は白河天皇となり、白河の異母弟・実仁親王が、2歳で皇太弟に立てられた。
白河天皇は実仁親王が死去すると、応徳3年(1086)に、
善仁は8歳で即位し、堀河天皇が誕生。幼帝の政務を代行するため、白河上皇が院政を始めた。
白河上皇は近臣や平氏などの武士を登用し、専制権力を振るう。このように日本は、武士が力を持つようになる中世を迎えることとなったのである(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
ドラマも最終回を迎え、こちらの連載も終了となります。一年間、お読みくださりありがとうございました!
筆者:鷹橋 忍