一年ほどいたのに紫式部は「越前」の風物の歌を一つも残さず…『光る君へ』時代考証担当が指摘する<『万葉集』大伴家持と決定的に異なる点>【2025編集部セレクション】

2025年4月27日(日)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

2024年上半期(1月〜6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年6月3日)
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NHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部を中心としてさまざまな人物が登場しますが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏・国際日本文化研究センター名誉教授いわく「『源氏物語』がなければ道長の栄華もなかった」とのこと。倉本先生の著書『紫式部と藤原道長』をもとに紫式部と藤原道長の生涯を辿ります。

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越前国府の日々


越前国府は、現越前市(旧武生市)国府に比定されている。

ここに総社(そうじゃ。国内の神社を国府近辺の一ヵ所に集めた神社)や国分寺(こくぶんじ)があり、国府関連遺跡の発掘調査も進められている。

国府に到着した一行(紫式部は父に従い越前に下向していた)を、初雪が出迎えた。

紫式部は、「暦に『初雪が降った』と書きつけた日」、都を懐かしむ歌を詠んだ。

ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩(をしほ)の松に 今日やまがへる
(こちらでは、日野岳に群立つ杉をこんなに埋める雪が降っているが、都でも今日は小塩山の松に雪が入り乱れて降っているのだろうか)

紫式部が暦に日記を書き付けていたことに、まずは興味を惹かれる。

この「暦」が国司に頒布された具注暦(ぐちゅうれき)なのか、たんに日付を並べた自家製の仮名暦(かなごよみ)なのか、また紫式部は(男性貴族と同様の)和風漢文で「初雪降」と書きつけたのか、はたまた仮名で書いたのか、興味は尽きない。

あくまでも都


ただし、彼女の視点の先は、あくまでも都なのであった。

初雪の歌でも、実際に目にしている日野岳ではなく、都の小塩山(現京都市西京区大原野)が脳裡に浮かぶのであった。


『紫式部と藤原道長』(著:倉本一宏/講談社)

皆が積もった雪(「いとむつかしき雪〈うっとうしくうんざりする雪〉」と記述している)を山のようにして国府の人々がそこに登り、紫式部を呼んだ際にも、

ふるさとに かへるの山の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし
(故郷の都へ帰るという名のあの鹿蒜<かえる>山の雪の山ならば、気が晴れるかと出かけて行って見もしましょうが)

と答えるのであった。

なお、鹿蒜山は越前国敦賀郡にあった山で、ここを越えて敦賀湾東岸の杉津に到るのである。

決定的に異なる


国文学者の清水好子氏が指摘されるように、紫式部にはその後の1年ほどの越前滞在で、その風物を詠んだ歌はない。

国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう。

歌集の編集にあたって捨てたものか、それともまったく詠まなかったのであろうか。

その点、国司としての責任感にあふれる『万葉集』の大伴家持(やかもち)とは決定的に異なるのである。

紫式部公園


なお、越前市東千福町に作られた紫式部公園は、芝生広場の部分を除くと、ほぼ方一町の敷地を持つ。

つまり、国司の館(たち)ではなく、都の邸第(ていだい)を復元したものなのである。

寝殿造)の邸第の広さを実感するには、最適の場である。

森蘊氏が設計された庭園は、越前海岸の景観を取り入れた石組みや、洲浜・中島を配した見事なものである。

さらには、寝殿や東対屋(ひがしのたいのや)、渡殿(わたどの)、東中門(ひがしちゅうもん)、侍廊(さぶらいろう)の位置が示されているほか、太田博太郎氏が監修された釣殿(つりどの)が復元されている。

後のことになるが、治暦(じりゃく)元年(1065)9月1日に越中国司に宛てた「太政官符(だいじょうかんぷ)写」には、以下のように語られている。

当国は北陸道の中で、是れは難治の境である。9月以降3月以前は、陸地は雪が深く、海路は波が高い。僅かに暖気を待つ季節に、調(ちょう)物を運漕する。……

豊かな大国であるとはいっても、やはり都人には北陸の気候は堪えたのであろう。

※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

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