ひ弱な御曹司ではない?2代目鎌倉殿・源頼家は有力御家人にどう対抗したのか

2024年5月20日(月)5時55分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


17歳で2代目「鎌倉殿」となる

 鎌倉幕府の2代将軍となる源頼家は、寿永元年(1182)にこの世に生を受けました。父は、源頼朝、母は北条政子です。頼家が生まれた寿永元年というと、頼朝が平家方に挙兵(治承4年=1180年)してから2年後のことです。

 治承・寿永の内乱(源平合戦)の真っ最中に生まれた頼家ですが、彼自身が参戦することはありませんでした。頼家の乳母には、比企尼の娘が選ばれました(梶原景時の妻も、頼家の乳母として選ばれていました)。

 比企尼は、頼朝の乳母であり、頼朝が伊豆国に流罪となっていた時に、長年、支援していた女性です。頼朝は、その恩を忘れていなかったのでしょう。比企尼の甥でその養子ともなった比企能員は、頼家の側近にもなります。頼家は、武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)の有力御家人・比企氏と深い繋がりを有することになったのです。

 比企能員の娘・若狭局は、頼家の妻妾になり、長子・一幡を産んでいます(1198年)。比企氏との強い繋がりが、後に、頼家を悲劇の底に突き落とすことになろうとは、父・頼朝は想像していなかったでしょう。梶原景時や比企能員、そして北条氏(頼朝の妻・北条政子。政子の父・時政)らが、その勢力を上手く保ち、頼家を支える体制が、頼朝の理想だったはずです。

 頼朝は、娘を天皇の妃にしたいという野望を抱いていましたが、それを達成することなく、建久10年(1199)1月に、病死します。この時、頼家は17歳でした。頼朝は、死ぬならば、もう少し、頼家が成長してからという想いを抱いたかもしれません。が、運命とは残酷なもの。若くして頼家は、父・頼朝の後継として2代目「鎌倉殿」となるのです。

 17歳というと、今で言えば、高校2年生になる年頃。現代において、そのくらいの年齢で起業し、社長として働く高校生はいます。例えば、想空さんは、15歳の時に株式会社SOSを立ち上げ、その社長としてビジネスを展開してきました。

 彼女は、おもちゃや文房具に広告を入れて子どもたちに無料配布するビジネスを展開。1年目の売り上げは、約3千万円に及んだというから、凄いものです(「高校生と社長の二刀流」『神戸新聞』2022・8・1)。鎌倉幕府のトップとなった頼家と比較するのもおかしいかもしれませんが、高校生でも、いやもっと若くても、他から抜きん出て、バリバリと頑張る若者はいるのです。


頼家を囲い込んだ「13人の合議制」

 では、頼家はどうであったのか。17歳の若年指導者ということで、さすがに経験不足が懸念されたのでしょう。有力御家人・13人(北条時政・北条義時・比企能員・和田義盛・梶原景時・足立遠元・三浦義澄・八田知家・安達盛長・大江広元・中原親能・二階堂行政・三善康信)が頼家を補佐する体制が構築されます。この体制はよく「13人の合議制」と評されるのですが、13人が一同に会して、合議したとする史料は現在のところ発見されていません。

「13人の合議制」は、頼家の権力を制限するものとも解釈されてきましたが、そうではなく、13人以外の者が、訴訟に関することを、頼家のもとに持ち込むことが禁じられたのです(1199年4月12日)。これは、宿老13人が、頼家を囲い込んだと取ることができるでしょう。

 その8日後(4月20日)、頼家にも近い、梶原景時が、政所(幕府の政務機関)に張り紙をして、次のように言いました。「小笠原弥太郎長経、比企三郎、比企弥四郎時員、中野五郎能成らの頼家側近が、鎌倉の中で、狼藉をしたとしても、庶民は歯向かってはいけない。もし、それに反した者は、罪人として名前を調べて書き出すよう、村・里へお触れを出すように。また、前述の5人以外のものは、特別の仰せがなければ、簡単に頼家にお会いすることはできない」(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)と。これは、頼家側近の力を強化するお触れと言えるでしょう。

 頼家に近い梶原景時や比企一族の者が、お触れに絡んでいることが注目されます。宿老13人(特に北条氏)の囲い込みを、頼家が嫌い、自分の側近たちを中心とした別グループを頼家が形成しようとしたと考えられます。それは、梶原や比企といった御家人にとっては、他の有力御家人を出し抜き、頼家との関係を更に強めるチャンスでもありました。

 梶原や比企以外の有力御家人は、頼家の側近たちを苦々しく思っていた可能性が高いです。戦こそ起きていませんが、権力の主導権をめぐる暗闘が繰り広げられていたのです。頼家は『吾妻鏡』などの逸話によって「暗君」の印象が強いですが、御家人の言いなりになるような、ひ弱な御曹司ではありませんでした。

筆者:濱田 浩一郎

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