日本文学の世界的権威、ドナルド・キーン初の評伝、外国語を通じた驚きを知る

2023年7月18日(火)12時0分 JBpress

旅行の計画を立てている人もそうでない人も、海外や旅への想いがふくらむ夏休みシーズン。異国を学ぶことによって自身の窓を大きく開いて生まれ変わった、対照的な2人の知の旅とは……? 7月に読みたいおすすめの本を紹介します。

選・文=温水ゆかり


一途な“好き”を貫いた、ドナルド・キーンの “語学青春録”

著者:角地幸男
出版社:文藝春秋
発売日:2023年6月26日

『私説ドナルド・キーン』は、日本文学の世界的権威であるドナルド・キーン(1922〜2019年)に関する初の評伝である。

 キーン氏は3作自伝を書いた。日本人文学者らの評伝も書いた。しかし氏自身に関する評伝は、これまでなかったのだという。“え、そうだった!? ”と、ちょっと意表をつかれる。

 著者の角地幸男は、キーン著作の日本語翻訳者として知られる元英字新聞の記者で、毎日新聞の徳岡孝夫氏が翻訳から退いた後、英語で書くときの氏の翻訳を手がけて最期まで伴走した。本書冒頭の「ドナルド・キーン小伝」から、年表風にして、キーン氏の足跡を紹介しよう。

1922年
ニューヨーク・ブルックリンの中流家庭に長男として生まれる。父はスペインにも工場を持っていた貿易商で、母はフランス語をよくした

1938年
抜群の秀才であったため、2回飛び級し、16歳でコロンビア大学に入学。離婚した両親に金銭的な負担をかけまいと、ピュリッツァー奨学金を獲得しての入学だった

1940年
タイムズ・スクエアにあった売れ残りのぞっき本ばかりを扱う本屋で、アーサー・ウエーリが英訳した『The Tale of Genji(源氏物語)』2巻を49セントで購入。欧州でヒトラーが台頭して軍靴の音が近づく中、暴力も流血もない流麗な源氏の世界に魅せられる

1941年夏
友人の山荘に滞在し、仲間3人と日本語の勉強をする

1941年秋
4年生になった新学期で、角田柳作の「日本思想史」を取る。受講希望者は他におらず、遠慮していったんは辞退するも、角田先生は一対一で授業を行う

1941年12月
真珠湾奇襲で日米開戦、太平洋戦争が始まる

1942年2月
キーン青年19歳、西海岸へ。カリフォルニアの海軍日本語学校に2回生として入学(6月には卒業式欠席のまま学士号を取得してコロンビア大学を卒業)。語学将校不足から、16カ月の課程を11カ月に圧縮した猛特訓を経て、最優秀学生として卒業生総代に。日本語で卒業の辞を述べる。旧仮名遣いで、「台湾」を「臺灣」と書く正字体の時代にあって、日本語で読み書き会話できるのはもちろんのこと、楷書も行書も草書も読めるようになっていた

1943〜45年
海軍中尉としてハワイ真珠湾の海軍情報局に赴任。以後、アッツ島(藤田嗣治に「アッツ島玉砕」という戦争画があるが、キーン氏はこの玉砕の現場に立ち合っている)、キスカ島、アグク島、ハワイ真珠湾、フィリピン、沖縄と異動。1945年8月、グアムで「玉音放送」を聞く

1945年12月
中国・済南から厚木基地へ。原隊復帰を(ハワイではなく)横須賀と偽り、東京に滞在。日本人捕虜の留守家族を訪ねたり、ジープで日光東照宮に行ったりする。1週間後、勘違いを申告、木更津から帰還船に乗る。翌年1月、ホノルルで海軍大尉として除隊の手続きを済ませ、一民間人に戻る

1946年
海軍4年間の日本語体験を携え、コロンビア大学大学院に復学

1947年秋〜1948年
1年間ハーバード大学で学ぶ。この時期ハーバードでは、後の駐日大使エドウィン・ライシャワーが日本史の気鋭の助教授として授業を行っていた

1948年
26歳でヘンリー奨学金を得てケンブリッジ大学に留学。日本語並びに朝鮮語の講師を担当しつつ、コロンビア大学に提出する博士論文『国性爺合戦』に取り組む。日本語入門クラスの教材としたのは、「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける(後略)」という『古今和歌集』の仮名序

1953年
31歳。ケンブリッジ大学に籍を置いたままフォード財団の奨学金を得て京都大学大学院に留学。海軍日本語学校時代の親友で、同志社大学で教鞭を執っていた小樽育ちのオーティス・ケーリの紹介で、京都市東山区今熊野にあった奥村邸の離れ「無賓主庵(むひんじゅあん)」に下宿する。表紙の写真はその「無賓主庵」で撮影されたもの(同建築物は現在、同志社大に寄贈、移築されている)。同じ下宿人でアメリカ帰りの永井通雄(教育学者にして後の文部大臣)と終生の友となる。芭蕉の研究に没頭し、狂言を練習する

1955年
2年間の京都留学を終えてコロンビア大学助教授に就任

1960年
教授に昇格

 キーン氏は1950年代の後半から、1年の前半はニューヨークのコロンビア大学で教え、後半は日本で過ごす往復生活を始める。1974年には北区西ヶ原にマンションを購入。2011年にコロンビア大学を正式に退職し、「愛する日本に移り、余生を過ごす」と表明。マスコミでは東日本大震災を機にとドラマチックに報道されたが、準備はその前から進んでいた。たまたま一緒になったに過ぎないと、著者の角田氏は証言する。

2012年3月8日
日本に帰化。3月27日、浄瑠璃三味線奏者上原誠己と正式に養子縁組が成立

2019年2月
96歳で逝く。墓石に黄色い犬(キーン)が彫られた自宅近くの無量寺に眠る


10代から20代にかけての“語学青春録”

 上記の年表は、キーン氏と日本語、あるいは日本との関係に焦点を絞って作った。英語や日本語で達成された研究者としての「業績」や「成果」——例えば完成まで25年の歳月をかけた『日本文学史』、『百代の過客』(読売文学賞、日本文学大賞)、『明治天皇』(毎日出版文化賞)や正岡子規、石川啄木などの一連の評伝、谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫安部公房など名だたる文壇人との交遊録、対談、鼎談集など千点以上にのぼる著作の足跡には触れていない。

「業績」や「成果」は、行動を起こせばいつでも書店や図書館など身近な場所にあると思うからだ。英語に堪能な方だったら、キーン氏がいちばん気に入っているという英訳『Essays in Idleness(『徒然草』)』を手に取ってみられるのもいいだろう。

 私がこの小伝で最も心揺さぶられたのは、キーン氏の10代から20代にかけての“語学青春録”とでもいいたくなるような一途な“好き”だった。日本語や日本文学への情熱が、人々や文化への興味として広がり、やがて共感や愛情や理解という土壌となって、その人自身を潤す。

 戦争はまた外国語を武器にする情報戦でもある。キーン氏が海軍日本語学校に入学した頃、アメリカは“日本人には絶対解けない暗号”として、自国内異言語であるナヴァホ語を採用。ナヴァホ族の青年達を通信兵として猛特訓した。

 また同じ頃、キーン氏の母校コロンビア大の助教授だった文化人類学者ルース・ベネティクトは、戦争情報局で日本人&日本文化研究に着手している(その成果は戦後すぐ『菊と刀』として出版され、日本でもベスト&ロングセラーに)。

 これらはいずれも戦争勝利や占領政策のためである。しかし海軍の情報将校だったキーン氏のそれには、合理的な目的が感じられない。没我とか没入といったパッションの表れに見える。いってみれば言葉が連れて行く異世界に魅せられた旅人のようだ。

 最初の赴任地であるハワイ真珠湾で日本語を翻訳していたときのエピソードが忘れ難い。

 キーン青年はある日、押収された大きな木箱を開ける。中には文書や小さな手帳が入っていた。不快な異臭が漂い、その臭いは手帳についた乾いた血痕から出ていた。

 気味悪かったが、翻訳を始める。手書きの文字は読みにくかった。しかし印刷物と違って、それぞれの肉声が記された日記は感動的だった。死を覚悟し、手帳を発見するだろう米兵に宛てて“この日記を家族に届けてほしい”と英語で記しているものもあった。

 キーン青年は禁を犯し、手帳を家族に届けようと机に隠す。が、上官に見つかり、没収されてしまう。

 キーン氏は言う。「私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだった」「もっとも、出会った時にはすでに皆死んでいた」のだけれど、と。学術の森に住む人でありながら、高みにのぼらず、名もなき人々の声を聞くというキーン氏の出発点がしのばれる。

 この評伝は、「ドナルド・キーンは日本で正当に評価されたたことがないのではないか」という著者の静かな怒りから書かれた。キーン氏の代表作にして労作『日本文学史』に反応したのは詩人や批評家、小説家、劇作家などであり、国文学者や日本文学研究家などは賛意も反論も示さず黙殺したらしい。

 某東大教授などは、キーン氏が日本語で読み書きができるばかりか、古文書も読めるなどとは夢にも思わなかったのだろう。キーン氏に“(日本文学は)全部翻訳でお読みになったんでしょうね”と言ったという。日本人の英仏文学者が現地で「あなたは日本語に翻訳されたものを読んで我が国の文学を研究してるんでしょう」と言われるようなものだ。

 無邪気な悪意としかいいようがない。

 本書の「エピローグ——キーンさんとの時間」が愉しい。24歳の駆け出し記者だった著者は取材後、北区西ヶ原のマンションに呼ばれて手料理をご馳走になる“飲み友達”になる。先述の通り、途中でキーン氏の翻訳者になるも、愉しいディナーの時間は続いた。

 牛フィレ肉のレアステーキ、鶏の胸肉とアボカドの料理、ビーフストロガノフ、海老のリゾットなどがキーン氏の得意料理。もちろんワイン付きで供された。

 人は国に生まれない、言語の中に生まれると言ったのは誰だっただろう(恥ずかしながら思い出せない、スミマセン)。ドナルド・キーン氏は意識的に、日本語の中に生まれ直すことを選び取った人のように見える。


引きこもり青年をコミュ力ある人間に変身させる魔法

著者:済東鉄腸
出版社:左右社
発売日:2023年2月7日

 一方2023年の日本で、ルーマニア語に生まれようとしている青年がいる。『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』という、長〜いタイトルの半自伝本を書いた済東鉄腸(ペンネームです)だ。

 1992年千葉県生まれ。大学は出たものの、就活に全敗。鬱っぽい引きこもりになり、「子供部屋おじさん」(40歳以上で未婚、実家暮らしの男性のこと)の未来自画像がチラつくが、思わぬところに突破口が。

 私が思いつくルーマニア関連話といえば、大きな乳房がプレーの邪魔になるとして減房手術をし、2018年の全仏、2019年のウィンブルドンとグランドスラムを2度制した世界ランキング元1位の女子テニスプレイヤー、シモナ・ハレプに尽きるのだけれど、著者の場合、きっかけはインターネットを通じて見る日本未公開映画だった。

 見まくって、ノートやブログに映画評を書きまくった。中でもコリュネル・ポルンポユ監督のルーマニア映画『#&*¥$℃』(ルーマニア語題名の一部が転記不能のため割愛します)で、「俺」の人生は一変してしまう。

 映画のストーリーはこうだ。男性警官クリスティがマリファナを吸っている高校生を逮捕すべきかどうか悩む。現行のルーマニア法では違法だが、EUに加盟すれば法律がEU基準に改正されて違法ではなくなる(ルーマニアのEU加盟は2007年)。署長は躊躇せず少年逮捕を命じる。

 言語そのものがテーマになったかのような映画だったという。往年の名曲をきっかけにルーマニア語の修辞法が議論されたり、定冠詞の書き間違いで、恋人と言い争いになったり。クリスティが良心を理由に少年の逮捕を拒むと、署長はルーマニア語の辞書を持ち出し、「良心」と「良心の呵責」と「法」の項目を読めと迫る。

 済東鉄腸氏は熱くこう書く。「ここまで言語への思索を深めた映画は後にも先にもお目にかかったことがない」。ルーマニア映画をもっともっと知りたいと思った。それにはルーマニア語を学ぶことが必要不可欠だった、と。

 かくして引きこもりのままルーマニア留学を試みる。まず希少なルーマニ語入門書を買い、独学を始め、ルーマニア用のアカウントを作り、ルーマニア人と日本人のコミュニティに登録。交流を重ねて地道に関係を築き、友達リクエストを受理してもらった。

 プロフィールに「ルーマニアが好きな日本人です。ルーマニアに友人を作りたいです」と書き、Facebookで4000人くらいのルーマニア人に友達リクエストを送ったのだという。

 早稲田大学に留学し、しばらく日本に住んでいた人類学者にして小説家のラルーカ・ナジさんと六本木で蕎麦を一緒に食べ、彼女の紹介でルーマニア語に翻訳した自分の小説が文芸誌に掲載されることになり、欲を出して「日本の暗部についての短篇をルーマニア語で書いています。興味ありますか?」と投網すると、ネット文芸誌を主宰している小説家ミハイル・ヴィクトゥスがすぐに反応。文芸評論家ミハイ・ヨヴァネルの知己も得る。

 どうですか、引きこもりを自称しつつ、ルーマニア窓だけ開閉自在のこの開きっぷり!? 電子というツールが、引きこもり青年をコミュ力ある人間に変身させる魔法に感動してしまう。

 村上春樹の話題は必ずふられるので避けようがないとか、『推し、燃ゆ』をルーマニア語に翻訳するときのこだわりのキモとか、面白い話が次々と出てくる。実は高校生の頃から小説家になりたいと思っていたとか、大学では日本文学を専攻したなどの打ち明け話も。ルーマニア語は引きこもりの無手勝流の一発逆転狙いではなかった、地下水脈は流れていたのだ。

 ハイカルチャーのドナルド・キーン氏、サブカルチャーの済東鉄腸氏。

 キーン氏の書く日本語の文章は「かなづかひ、漢字、文法、一つの誤りもない」と、吉田健一、中村光夫、福田恆存、大岡昇平、三島由紀夫らを驚かせた。

 一方、済東鉄腸氏は時々ツッコミが入る「正しいルーマニア語」にモヤモヤする。「延々と」が「永遠と」に転化するオモシロ日本語のように、言語にはどんな可能性だってあっていい。「日系ルーマニア語は俺がつくる」と意気軒昂。

 外国語を修得する旅は、習熟に向かいながら、いつも澄んだ目をしている少年の旅のように思えてならない。

筆者:温水 ゆかり

JBpress

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