徳川家康が小田原攻めの際に築いた陣所、堅固に築かなければならなかった理由

2023年10月16日(月)6時0分 JBpress

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)


写真を撮るだけではもったいない

 1590年(天正18)の小田原攻めの際、徳川家康が築いた陣所の跡が小田原の市街地に、ひっそりと残っているのをご存じだろうか。

 小田原駅の東口から城東車庫行のバス(1時間に2本くらい)に乗って、今井というバス停で降りる。バス停のすぐ横にある看板の所から小道に入るとあっさり到着。東照宮の小さな社があって、その前に「徳川家康陣地跡の碑」と説明板が立っている。

 たいがいの人は、「何だ、これだけか」とばかりに石碑と説明板の写真を撮って帰ってしまう。いや実際、筆者が取材に訪れたときも、歴史好きとおぼしきシニア男性を2、3人見かけたのだが、写真を撮るとソソクサとバス停に引き返していた。

 何て、もったいない! せっかく残っている貴重な陣所の痕跡を見ずに帰るなんて! だって、石碑や説明板はオマケみたいなもの、陣所の遺構の方がホンモノでしょう?

 こんな時はどうすればよいのか。筆者が当サイトに月イチ連載している「東京23区に古城を訪ねる」シリーズを読んでいる方なら、ピンときたに違いない。そう、微地形を丹念に観察しながら一帯を歩いてみるのだ。

 まず、東照宮の建っているところが、周囲より明らかに高い。土塁の跡である。さらに、東照宮の裏手には水路が流れている。堀跡である。民家の敷地に入り込まないよう気をつけながら、堀跡の用水路を東にたどってみよう。

 さきほどのバス通りを横断して、駐車場に沿った小道を歩いてゆくと、道が奇妙なカーブを描いて回り込んでいる。明らかに不自然だ。この道は、もともと堀の外側に沿っていたもので、東照宮の所が陣所の西側、不思議カーブの所が北側の隅にあたる。駐車場と小道を挟んだ反対側にある民家は、馬出の跡だ。

 不思議カーブを曲がって、しばらく道なりに進むとT字路に出る。ここが東側のコーナーだ。あたりを見回すと、旧家の敷地の隅に土塁が残っているのが見える。

 江戸時代後期に編まれた『新編相模国風土記稿』という地誌には、この陣場の絵図が載っている。近代以降の市街地化によって遺構の大半は失われてしまったが、絵図と現況を重ねてみると、陣所のおおよその姿が浮かび上がる。

 家康の陣所は、120メートル四方の範囲を四角く土塁で囲んで周囲に堀をめぐらせ、三方に馬出や出丸を設けていたようだ。現在の地割から判断するかぎり、堀幅は平均で20メートルほどもあり、土塁も大きなものだったことがうかがえる。

 城攻めの際に築く陣所はさまざまで、バリケードで囲んだ程度のものから、本格的な城構えとする場合まである。要は戦況判断によってケースバイケースで築くわけだが、小田原の家康陣はかなり本格的な構えだ。ではなぜ家康は陣所をガッチリと固めたのだろう?

 もともと北条氏と同盟を結んでいた家康は、小田原攻めでは先陣を務める立場にある。北条方に通じていないことを示さなければならないからで、豊臣秀吉からしたら「家康殿、根性見せてちょ」というわけだ。小田原城を包囲するなら、包囲網の東端が持ち場になるのは自然な流れだった。

 ただ、小田原城惣構の東側は低地で、家康陣のすぐ後ろには酒匂川が流れている。このあたりは氾濫原だったわけで、家康は湿地の中の微高地を選んで陣を置いたことがわかる。小田原城包囲戦はちょうど梅雨時にかかっていたから、かなり条件の悪い場所が持ち場だったことになる。

 しかも、秀吉子飼いの武将たちは丘陵上に陣を取っているからよいが、平地の陣では小田原城内から逆襲を仕掛けられたら、まともに食らうことになる。家康は最悪の持ち場を割り振られたわけだ。

 なるほど、陣所を堅固に築かなければならなかったわけである。もちろん、道理といえば道理なのだけれど、秀吉って、やっぱり意地悪な気がしてしまう(笑)。

[参考文献]小田原市編『小田原市史・別編(城郭)』(1997)

[参考図書] なお、小田原の役についてもう少し詳しく知りたい方は、拙著『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。普通の歴史書では読めない、軍事史的観点からの分析を読むことができます。

筆者:西股 総生

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