実行犯が捕縛後に自殺、幕末最大の謀略事件「朔平門外の変」の真相とその意義

2023年10月25日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

朔平門外の変の特異性

 文久3年(1863)5月20日、即時攘夷派の旗手であった姉小路公知(きんひさ)が暗殺された朔平門外の変が起こった。今年は、ちょうど160年の節目にあたる。この事件は、天誅(天に代わって罰を与えること)として理解されているが、際立った特異性を持っている。

 天誅の対象は、農民、目明し、寺侍、町役人、儒者、公家諸大夫・家司・雑掌等であり、非常に多岐に及んでいる。その中で、唯一堂上にその刃が向けられたのが朔平門外の変であったのだ。姉小路は、即時攘夷派の首領であり、本来はその対象から最も遠い存在である。その影響力から見て、江戸・武家側で起こった井伊直弼暗殺(桜田門外の変)と対称をなす中央・公家側における最大の謀略事件としても過言ではなかろう。

 今回は5回にわたって、朔平門外の変について深掘りし、なぜ姉小路公知は暗殺されなければいけなかったのか、その実相に迫りながら、幕末維新史におけるその意義について、考察を深めてみたい。


文久2年(1862)から3年の政治動向

 最初に、朔平門外の変が起こった当時の政治状況を確認しておこう。即時攘夷に藩論を転換した長州藩(周布政之助・桂小五郎・久坂玄瑞)が土佐藩(勤王党・武市半平太)とともに中央政局を席巻していた。文久2年10月、両藩の国事周旋活動は、幕府に攘夷実行を迫る攘夷別勅使(正使三条実美・副使姉小路公知)の派遣に結実した。

 12月5日、第14代将軍徳川家茂は勅使に対し、国是として攘夷を奉答した。しかも、至急の上洛の上、攘夷実行の方策を奏聞することを誓約したのだ。家茂は翌文久3年3月4日に上洛し、孝明天皇に拝謁して、大政委任を奏上した。天皇自身はそれを容認したものの、即時攘夷派に与する関白鷹司輔煕は征夷大将軍のみを容認し、国事は直接諸藩へ沙汰するとの勅書を下した。つまり、大政委任は事実上、否定されたのだ。将軍の役割は国政全般ではなく、攘夷実行に限定されたことになる。

 攘夷実行について、その期限や策略については、幕府(家茂)からは具体的な奏聞はなかった。これ以降、朝廷・幕府それぞれから命令が発せられる、いわゆる政令二途(朝廷「無二念打払令」、幕府「襲来打払令」)が先鋭化して、諸藩を悩ませ中央政局を混乱に陥れた。 

 朝廷が攘夷実行の期日を執拗に迫ったため、幕府はとうとう5月10日と布告した。久坂らは一斉に長州藩に帰国し、10日にアメリカ商船、23日にフランス艦船、26日にオランダ艦船を砲撃した。不意打ちであったため、緒戦では大きな戦果を挙げたが、米仏軍艦による用意周到な報復攻撃(6月1・5日)によって、壬戊丸など、長州藩の軍艦はすべて大破してしまい、海軍は全滅して早くも制海権を喪失した。このような目まぐるしく展開する政治状況の中で、勃発したのが朔平門外の変であったのだ。


姉小路公知とはどのような人物か?

 姉小路公知は、天保10年12月25日(1840年1月9日)に生まれ、文久3年5月20日(1863年7月5日)に亡くなっている。わずか、23年半の生涯であった。 安政5年(1858)3月の通商条約の勅許を阻止するため、堂上88卿列参に参画し、文久2年8月の四奸二嬪排斥運動(文久2年政変)を推進した。さらに、10月の攘夷別勅使副使といった即時攘夷運動の中核を担った。

 三条実美の即時攘夷派転向は、攘夷別勅使正使以降であり、三条を牽制し、幕府に攘夷実行を真に迫るために、土佐藩・武市半平太が姉小路起用を画策した。また、12月9日に国事御用掛が設置され、その一員に任命された。翌3年3月に国事参政に転じ、国事討議に本格的に参画した。

 このように、姉小路は文久期後半、事変直前まで三条に匹敵する即時攘夷派の旗手として活躍したのだ。


朔平門外の変の経緯

 文久3年5月20日の夜10時ころ、朔平門外で姉小路公知は3人の刺客に襲撃され重傷を負った。重臣の金輪勇は逃亡してしまい、従者の中条(吉村)右京が孤軍奮闘して刺客を追い払った。自邸に戻ると同時に、姉小路は落命した。同志の三条実美(同夜、三条も数人の刺客の尾行があったとする説あり)は直ぐに駆けつけたが、落命後、慟哭して遺志継承の訣辞を述べた。

 翌5月21日、学習院門扉に脅迫状が貼られ、三条に対する威嚇が綴られていた。三条は姉小路と同腹であり、公武一和を名目にして、実際には天下の争論を好む者であり、急速に辞職・隠居しなければ、10日以内に天誅を加えて殺戮すると脅している。

 さて、姉小路家臣の跡見重威(跡見学園の学祖・跡見花蹊の実弟)の通報を受け、土佐藩士の土方楠左衛門は姉小路邸へ急行した。土方は、暗殺犯がその場に遺棄した木履と刀を観察し、奥和泉守忠重の銘があり、薩摩風の拵(日本刀の外装)と断定した。

 このように、当初より薩摩藩の関与が疑われており、在京の薩摩藩士・本田弥右衛門は、鹿児島の中山中左衛門・大久保利通に書簡(5月27日付)を送り、誰かの悪だくみによって、薩摩藩の刀らしき拵をわざと落としたと断定し、そもそも、刺客は相当の腕があるので落とすはずがないと非難した。

 5月22日夜、当時薩摩藩邸に潜入していた土佐藩士の那須信吾が姉小路邸に忍び来て、遺棄された刀が薩摩藩陪臣(島津内蔵家来か)田中親兵衛のものと証言した。このように、姉小路暗殺は薩摩藩に嫌疑がかかる展開となり、薩摩藩は窮地に追い込まれることになったのだ。

 次回は、朔平門外の変直後の朝廷や幕府の対応、薩摩藩への嫌疑の実相について、多角的に迫っていこう。

筆者:町田 明広

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