秀吉<最大の敵>は家康でも光秀でもなく柴田勝家だった!織田軍総司令官で武人の頂点…明らかになり始めたその実像とは?【2023編集部セレクション】

2024年12月27日(金)12時30分 婦人公論.jp


秀吉が最大の敵と認識していた柴田勝家とは何者か(歌川義育「太平記英勇伝十三:柴田修理進勝家」(1867年)/東京都立図書館所蔵、CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

2023年下半期(7月〜12月)に配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします。(初公開日:2023年08月07日)
*****織田家きっての重鎮ながら、信長没後の争いで秀吉に出し抜かれた敗者のイメージが強い柴田勝家。NHK大河ドラマ『どうする家康』でも、お調子者で機転が利く秀吉と対照的なめっぽう強い無骨者を、俳優・吉原光夫さんが演じた。『織田信長の家臣団』などの著書を持つ戦国史研究家・和田裕弘さんによると、秀吉も実は勝家が最大の敵であると認識していたそうで——。

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秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまとう勝家


歴史好きの方で柴田勝家という戦国武将を知らない人は、まずいないだろう。知名度は抜群である。だが勝家にはどうしても豊臣(羽柴)秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまとう。

墨俣(すのまた)一夜城の築城に失敗し、その功を秀吉に奪われ、本能寺の変後の対処では秀吉の後手に回って清須(きよす)会議で秀吉の独断を許し、最後は賤ヶ岳の戦いで「猿冠者(さるかじゃ)」と軽蔑した秀吉に敗北し、自害して果てる。

猪突猛進型の猛将という印象が強く、抜け目のない秀吉にまんまとしてやられたという描かれ方が多い。また、織田信長在世時から勝家と秀吉は仲が悪かったという刷り込みもある。

勝家に関する逸話を見ると、たしかに「瓶割(かめわり)柴田」「鬼柴田」など勇猛果敢な武将という側面が強調されているものが多いが、最期に臨んですがすがしい振る舞いを見せたという逸話も伝わっている。

敗戦の責を他人に求めず、また家臣に対しても、ともに自害することを強要しないなど、大将たる器にふさわしい度量を備えた武将という一面も垣間見られる。

織田軍の総司令官として


また、信長との関係をうかがわせるエピソードも伝わっているが、通常、信長とのエピソードといえば、明智光秀のように信長からいじめられたり、羽柴秀吉のように厳しい処分を受けたものが多いが、勝家に関しては、逆に信長をやり込めたという逸話がある。これは珍しい事例であろう。


『柴田勝家-織田軍の「総司令官」』(著:和田裕弘/中公新書)

信長にも引けをとらない武将だったという名残でもあろうか。越前国(現在の福井県)を「支配」した勝家を訪問した宣教師の記録には、勝家の地位や権力は、越前国においては信長にも等しい、と表現しているほどである。

当時来日していた宣教師ルイス・フロイスの書簡には「柴田殿が戦場での総司令官になった」「総司令官の柴田殿」という記述から見られる。将軍足利義昭が信長に叛旗を翻した時、これを鎮めるために信長が上洛し、勝家が織田軍の総司令官となって指揮を執ったことによる。

その後、信長は各地で敵対する大名に対し、いわゆる「方面軍」を設置したため、織田軍全体の総司令官という地位は限られたものになったが、信長家臣の中では勝家と佐久間信盛が両大将ともいうべき地位にあり、信盛追放後は、勝家が「信長の重鎮」として他の方面軍司令官とは一線を画す存在であった。

秀吉が名乗った「羽柴」という名字は、織田家重臣の丹羽長秀の「羽」と、柴田勝家の「柴」を組み合わせたものと推測されている。信頼できる史料からは確認できないが、おそらく通説通りの解釈でいいだろう。もし、勝家と仲が悪ければ、勝家の名字から一字を拝借することはないだろう。もちろん、御機嫌取りでもなかろう。

明らかになり始めた「本能寺の変」後の勝家の動向


勝家について少し詳しい人なら、信長を一度は裏切ったが、信長との戦いに大敗して相手の実力をまざまざと見せつけられて帰順し、その後は主君信長に忠義を尽くし、織田家の重鎮として活躍したということをご存じだろう。

しかし、多少厳密な見方をすれば、勝家は信長を裏切ったこともなければ、信長に戦場で後れをとったこともない。さきごろ出版した『柴田勝家』(中公新書)では、こうした先入観を一つ一つはぎ取って、勝家という人物の実像に迫った。

勝家に対する研究も、信長の家臣に対する研究の進展とともに深まっている。北陸軍の総大将として上杉氏を滅亡寸前まで追い詰め、北陸道の総督として伊達氏などとの外交にも手腕を発揮したことや、越前国の統治の解明も進みつつある。また、近年、本能寺の変後の勝家の動向が分かる貴重な史料も発見されており、変後の勝家をめぐる動きにも新たな視点が当てられつつある。いわゆる「中国大返し」を成功させた秀吉を上回るスピードで光秀討伐(実現はしなかったが)に向かったことなどが明らかになっている。

最終的には秀吉と全面対決し、賤ヶ岳の戦いで敗れ、本城である北庄(きたのしょう)城に戻って壮絶な最期を飾った。その後、秀吉は勝家をたおした勢いをもって「天下統一」を成し遂げる。

秀吉にとって最大の敵は、本能寺の変で主君信長を急襲した明智光秀ではなく、ましてや小牧・長久手の戦いで苦戦した徳川家康などでもなく、織田家の総司令官とも評された柴田勝家だったであろう。

信長の伝記『信長公記』の著者太田牛一(おおたうしかつ)も、勝家について「信長公のうちにては武辺の覚(おぼえ)、その隠れなし」と評価しているほどである。

秀吉は勝家が最大の敵であると認識していた


山崎の戦いから賤ヶ岳の戦いに至る1年弱の間の秀吉は、その生涯で最も輝いていた時期であり、まさに絶好調であった。信長の遺児(信雄と信孝)の扱いには苦慮したが、やることなすことすべてうまくいったという印象である。

秀吉は勝家をたおしたあと、毛利方の小早川隆景に宛てた書状の中で、勝家との賤ヶ岳の戦いについての詳細を知らせ、「柴田勝家は、秀吉が若い時からたびたび武功を挙げていた武辺者であり、三度まで鑓(やり)を合わせ、目を驚かせた」と勝家を称えている。

勝家の最期の場面についても「日頃から武辺を心掛けている武士だけに、七度まで切って出て戦ったが、防ぐことができず、天守の九重目まで上がり、秀吉軍に言葉をかけ、『勝家の切腹の仕方を見て、後学にせよ』と呼びかけた。

心ある侍は涙を流し、鎧(よろい)の袖を濡らし、あたりはひっそり静まり返った。勝家は妻子や一族を刺殺し、80人余りが切腹して果てた」と伝えている。劇的な情景が浮かんでくる。

また、秀吉はこの書状の中で、勝家を猛追したことで秀吉側にも犠牲者が出たが、「日本の治まりは、今この時である」と決断したので兵士を討死させても秀吉の不覚にはならないと思った、とも記している。

秀吉は勝家が最大の敵であると自覚し、賤ヶ岳の戦いを「天下分け目」の戦いと認識していた。秀吉の伝記作者といわれる大村由己(おおむらゆうこ)も、軍記『柴田退治記』の中で、勝家との戦いが天下を決するとの認識を披露している。

勝家の敗戦は秀吉の「天下統一」を招来した


柴田勝家は、信長の弟信勝(系図類に見える信行は良質な史料では確認できない)の家老として歴史に登場する。信勝を織田家(弾正忠家)の家督に据えるために信長と敵対したこともあったが、稲生原(いのうはら)の戦いで敗れ、信長に降伏。

信勝が再度の謀叛を企てたため、信長に密告し、このため信勝は誘殺された。その後、信長に転仕し、織田家の軍奉行(合戦に際して軍事全般の総指揮に当たる)として活躍した。

永禄11年(1568)の上洛以来、各地で奉行職(政務の執行者)をこなしつつ、伊勢の北畠攻め、北近江の浅井攻め、越前の朝倉攻めなどに従軍し、活躍した。

天正3年(1575)の越前再征後は、越前国の支配を任され、以降、北陸道の総督として、越前国の支配を強化しつつ、加賀国、能登国、さらには越中国へと侵攻し、着実に成果を上げ、上杉景勝を滅亡寸前まで追い詰めていたが、本能寺の変で事態は急変した。

明智光秀の討伐では、地の利が悪く秀吉に後れをとった。信長の妹お市と再婚し、織田一門として、野心に燃える秀吉を阻止するため、信長三男の信孝、織田家重鎮の滝川一益らと結び、反秀吉の行動を起こすが、賤ヶ岳の戦いに敗れ、本城の北庄城に帰城したあと、秀吉軍を前に華々しい最期を飾った。

勝家の敗戦は秀吉の天下統一を招来し、豊臣政権を誕生させ、さらには江戸幕府へと時代は流れていくことになる。

※本稿は、『柴田勝家-織田軍の「総司令官」』(中公新書)の一部を再編集したものです。

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