29歳で北新地のオーナーママ→35歳で早稲田大に入学→ドバイで事業に失敗...異色の経歴を持つ女性宮司がふりかえる「“うつ”で電車に乗れなくなったどん底の日々」
2025年1月26日(日)7時0分 文春オンライン
〈 なぜ銀座のママから神社の宮司に? “新米宮司”の女性が語る壮絶すぎる半生「母の借金返済のため16歳でスナックに」「新しい父は酒乱で私にだけ...」 〉から続く
銀座のママを経て、現在は奈良県御所市にある駒形大重神社の宮司を務める“異色の神職”がいる。村山陽子さんは29歳のとき、大阪・北新地で自らお店を構えるオーナーママになったが、学び直しを決断し、35歳で早稲田大学の学生となった。
しかし、生活が激変し、“鬱”の日々を送るように。北新地のクラブママから学生へ。海外事業の失敗を経て、再びママとして銀座へ。紆余曲折の人生を歩んだ彼女は、どうして神職へと導かれたのか——。(全3回の2回目/ 続きを読む )
◆◆◆
——村山さんは、29歳のときに大阪・北新地にご自身のお店を構えます。しかし、先ほどお話しされたように、当時付き合っていた彼氏の方をきっかけにお金を失ってしまったと。
村山さん(以下、村山) お店をするために借りた資金の返済があり、その上、予期せぬ攻撃を受け裁判となった時には、よほど私は前世でその人に悪いことをしたのだと思いました(笑)。ただ、その様な状況でも、10代の頃はもっと大変な思いをしていたので、「大したことはない」って思っていました。それに、悪いことの後は良いことがあると、自分に言い聞かせておりました。そして、主人との出会いがありました。当時、企業勤めだった彼は雰囲気が亡き父に似ていて、ファザコンだった私は主人に一目ぼれでした。それまでは派手な相手と交際をしていたため、自分でもまさかこういう人と付き合うとは思っていなかったのですが、彼と付き合い始めたことで、自分が何のためにこの世界に入り、その後に何をやりたかったのかを思い出すきっかけとなりました。
ママをやりながら定時制高校に通学
——勉強したかったことを思い出させてくれたわけですね。派手な交際を続けていたら、また同じようなことが起こりかねないとも思いますよね。
村山 いつまでこの生活を続けるのだろうかと。とはいえ、私自身、稼がないといけないことに加え、お店のスタッフの人生もありますから、すぐにお店を閉めることは出来ませんでした。一方で、大学に進学したいという気持ちが強くなり、お店を経営しながら大検(大学入学資格検定/現在の高等学校卒業程度認定試験)の取得を目指して、定時制高校にも通い単位を取得しました。このことはスタッフには言えなかったのです。当時は、主人との結婚も考えていたので、お店を閉めて結婚し、大学を目指す……自分だけが幸せになりますと宣言するようで。しかも、スタッフの中には私が係争中でお金がないと思ったのか「ママ、これぐらいだったら用意できます」と言ってくれる、本当に良い子たちに恵まれていたこともあり、1年間切り出せなかったのです。
——脂が乗っているときにお店をたたむという決断は、なかなか理解されないことだとも思います。
村山 最初、役員に伝えた際は、「なんで辞めるのですか!?」と驚いていました。そういう状況になると、「明日から出勤しません」ではないけれど、スタッフの多くが“総上がり”といって辞めてしまうことも珍しくありません。役員には反対されたのですが、そうなっても早めに閉めることを伝えることが責任であり、また、全員が今よりも良い条件で雇ってもらえるためにも、お店が繁盛しているうちに決めるのが良いと考えていました。自分が新しい道を選ぶときは、それまで周りにいてくれた人を無下にしないこと。それって責任ですよね。当時、閉店をギリギリまで言わない店が多かったのです。私は閉める2か月くらい前から根回しするようにしました。銀座の場合は、もっと早くから伝えました。
早稲田大学の夜間学部に合格
——勉強をしながら、店じまいを考える。タイトなスケジュールかつ、ものすごく頭を使う日々だったのではないですか?
村山 自分の頭の中での考えは、すぐに決まるので、勉強したいといった好奇心、目標があると寝なくても平気なのです。それこそ、朝から晩までずっと働いてきた人生だったので、寝るのがもったいないとも思っていました。そういう自分も好きだったのです。
——一度決めたら突き詰めるという村山さんの性格を表していますね(笑)。そして、35歳のとき早稲田大学の夜間学部、第二文学部に合格します。なぜ早稲田を?
村山 大好きだった亡き父の出身大学でした。父は早稲田をこよなく愛していて、朝起きると校歌をよく歌っていたので、その影響でしょうね(笑)。主人は独立して東京に事務所を構えたので、私も上京しました。思う存分、大学生活を楽しむつもりだったのですが……鬱になってしまって。
通学するための電車に乗れなくなった
——北新地のオーナーママから学生、大阪から東京。生活が激変しています。
村山 お店を閉め、受験勉強も終わり、念願の大学にも入り、全部がすっきりしたからホッとしたのか、精神的にドーンと落ちてしまい。また、北新地時代の寝不足や裁判による心労など小さな積み重ねが、気が付かないうちに大きくなったのだと思います。今までは無理やりにでも奮い立たせていたけれど、それが出来なくなり電話にすら出れない、人とも喋りたくない。大学に通うために電車に乗っても3駅ほどで帰りたくなり降りてしまう。その影響で1年留年してしまいました。
——そのとき、ご主人さんはどういった声を村山さんにかけていたのですか?
村山 最初は何も言わなかったのですが、1年程過ぎた頃に、「陽さん、仕事せえ。自分が食べる分くらい自分で稼がんかい」と言われて。主人は、「陽さんが鬱やったら、全員が鬱や。そんなに動ける人のどこが鬱やねん」と言うのですね。確かに、主人が言うように既に私は動いてはいたのです。ただ、当時の日記を見返しても、ネガティブなことばかり書いており(苦笑)。大学では国際教育に関心を持ち、私にとって教育の現場はとても新鮮でした。でも、何をしていても気持ちは上向かないし、楽しく感じないのですが、とにかく動くことだけは心がけていました。いつか気持ちが前向きになるだろうと信じて。それで、ママ時代の貯蓄を切り崩してドバイで起業することにしたのです。
うまくいかなかったら、きちんと落ち込まないといけない
——たしかに、その行動力を目にすると、ご主人さんがそう言うのも理解できます。
村山 不思議と行動力はあったのですよ(笑)。ドバイでは、日本との中古車取引を行う貿易事業をしたのですが、上手くいきませんでした。環境を変えたいと思って、自分と水が合いそうなアラブ社会に関心を抱いたものの、仕事を理解出来てなく、自分が直接やり取り出来ない、人任せにしてしまうことは、商売にしてはダメだと学びました。水商売は、自分の目の行き届く範囲で仕事が出来るため、私には合っていた。一方、ドバイでの事業は、仕事を理解出来ていない上に、どこかお客様気分というか、外様として仕事をしているような甘さがあった。
一生懸命稼いだお金は老後のための蓄えだったはずなのに、興味本位だけで動いてしまった。若い頃から仕事をしてきて、お金に対してシビアに計画してきたはずでした。興味が先行し、準備と努力不足の状態で、「まだあるから大丈夫」といった慢心があると、無くなるまで使い切ってしまう。さらに、アフリカでは、マラリア対策の一環で、蚊の発生を抑制する製品の販売に7年間かかわったのですが、こちらも事業としては上手くいかなかったのです(苦笑)。きちんと落ち込まないといけなかったのですよね。ただ、ドバイ、アフリカでの10年間の経験は、事業としては失敗しましたが、人生経験としては貴重な体験となり、その後の人生に大いに役に立っております。
「陽さんは水商売以外では勝ち組になられへん」
——「きちんと落ち込まなきゃいけない」はとても深い言葉だと思います。
村山 切り替えることも大切だと思うのですが、しっかり落ち込んで、何がダメだったのか考えないと同じ失敗をしてしまう。落ち込めないってことは、私にとってはきちんと反省が出来ていないことなのです。主人と結婚する際に、お互いにそれなりの年齢なので、お互いの人生を尊重し、自由に生きようと話しました。主人も同感でしたが、私があまりにも自由過ぎて、心配なことも多々あったと思います。主人からの唯一指摘が、「陽さんは水商売以外では勝ち組になられへん」と。
——すごいことを言いますね(笑)。
村山 はっきり言うのです(笑)。「陽さんは水商売では上手くやれるけど、他では上手くできないので、もう一度水商売をやればよいのに」と。2013年、私が48歳のときです。突然、私の中で何かがパーンと弾ける感じがして、その瞬間鬱が抜けたのです。一気に活力が戻り、北新地を辞めるときに何となく、「50歳になったらもう一度お店をしよう」ということを思い出し、意欲が湧いてきて「あと2年で50歳だ。よし、銀座でお店をオープンする準備をするぞ!」と。北新地時代は猫を被っていたとお話ししたじゃないですか? ずっと疑問に思っていたことがあって、クラブってどうしてこんなに高いのだろう、自分はこの金額に見合った仕事が出来ていたのかと。今度お店をするときは、自分に見合った良心的な価格で、本当に好きなお客様と好きなスタッフだけで、小ぢんまりとしたお店をやってみたい、と思っていたのです。
50歳で銀座のママに
——そして、実際に50歳のとき、銀座にクラブ「榑沼(くれぬま)」をオープンします。馴染みのある北新地ではなく、どうして銀座にしようと思ったのですか?
村山 新しく始めるからには、自分がワクワク出来る場所でしたかった。確かに、北新地にオープンすれば地の利もありますし、メリットもあります。でも、“トライしたい”と思える場所が銀座だったのです。当然、開店準備の資金も調達しなければならない。御贔屓のお客様もほとんどいない。そういう状況でも自分を奮い立たせるには、本当に自分がやりたい場所でやるしかない。最初のお店は17坪で、1年くらいは赤字でした。それでも、結果的に銀座にお店をオープンしたことで、そこで出会ったお客様から、「再来月、神社検定を受ける」という話をお聞きし、今に繋がります。
小さな頃から神社仏閣が大好きで、長野県松本市の自宅のすぐ近くにある深志神社では毎日遊んでおりました。後にこの深志神社との深い御縁が復活するのです。また、銀座でお店をする前から伊勢神宮には、年間5回〜8回は参拝しておりました。2013年に、伊勢神宮で20年に一度斎行された、式年遷宮後に神宮で正式参拝をしたことがきっかけで、とても感銘を受けました。そして、神社検定の存在を知り、3級、2級、1級は2回落ちたのですが、その試験会場が國學院大學だったのです。何度か大学に行っている内に、学生さんが白衣(神職の普段着)を着て歩いている姿を見て、「ここは神職さんの勉強する大学だなあ、私もこんなに勉強するなら、神職になれるかも」と思い始めたのです。と言っても、この頃はまさか自分が宮司になるなんて思ってもいません(笑)。人生は、本当に何が起きるか分かりません。
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(我妻 弘崇)
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